*** 子育ち12章 ***
 

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「第 11-08 章」


『できること 逃げてばかりは 卑怯なり』


 ■はじめに

 学校が土日休みになったために,授業時間が減りました。その分内容の削減が実施されました。その結果,子どもたちの学力も低下してしまいました。至極当たり前の成り行きです。五日制の導入のデメリットとして言われてきた危惧が実現したわけです。だから,言わないことじゃない!

 家庭二日制になってしまった今,家庭での教育はどうすればいいのでしょうか? そんなテーマでお話を聞きたいという講演依頼が増えてきました。心配する親心はよく分かります。何とか安心をしていただきたいと思いますが,どのように解きほぐしたら納得していただけるのか,難しい依頼です。

 全国的に眺めると,土曜日にいろんな形で補習のための企画が現れています。文部省や教育委員会も気がかりになったのか,それとも親の不安に対する施策なのか,いずれにしろ何かしなくてはならないという状況でしょう。それは,さらに不安を煽ることになっていきます。やっぱり,心配してた通りなのよ!

 実は,子どもたちの学力はかつての子どもたちに比べて土台が細っているのです。授業内容を受け入れる土台が軟弱になっていて,消化不良に陥りやすくなっています。例えば,理科離れが言われていますが,きちんと論理を構築する科目は受け付けなくなっているためです。勉強してもおもしろくないという感想は,消化できない体質から生まれているのです。学力の構造改革が必須です。

 ゆとりの学習,総合学習という形で導入されようとしているものは,土台の再構築です。土台ですから外からは見えませんし,つぎ込んだ効果も分かりません。でも,土台が丈夫でないと,本物の実力にはなりません。試験はできても,自分で物事を考え答えを探す能力がついていなければなんにもなりません。いずれどこかでお話しできると思いますが,学力とは,与えられた問いに答える力ではなくて,分からないことを自ら見つけて,それを学ぼうとする意欲を土台とする力なのです。



【質問11-08:お子さんの卑怯を抑えていますね?】

 《「卑怯を抑える」という意味を確かめておきましょう!》


 〇逃げる?

 砂場で一緒に遊んでいた友達が突然泣き出しました。周りにいた子どもたちは,「ぼくは何も知らないよ」と逃げていきました。遊んでいたら砂がかかってしまったのかもしれません。何が起こったのか確かめようともせず,とにかく責任逃れをしようとしているようです。ちょっとしたことでも不都合な事態には関わりたくない,それは卑怯です。

 遊んでいる仲間を見捨て放り出して自分を守ろうとする,それは逃げることです。自分にも何かが降りかかっていれば,身を守ることは仕方ありません。でも,自分に何もないのに友だちのことを気遣おうとしないのは,仲間としての信頼を失墜することです。

 「どうしたの?」,その一言を掛けてやることができたらいいのです。それができるような子に育てるためには,どうすればいいのでしょうか? 子育ちは体験の賜物という原則に従えばいいでしょう。「どうしたの?」とママからいつも声を掛けてもらっていると,聞き慣れていきます。慣れるということが大切です。

 慣れると自分から言えるようになります。ママに向かって「どうしたの?」と言ってくることもあるでしょう。そんなとき「何でもないの」と受け流してはいませんか? 幼い子どもに言ってみたところでどうしようもない,ということでしょう。でも,ちょっとだけ助けを求めてみてはいかがでしょうか。子どもなりに,ママのために一所懸命考えてくれますよ。

 ママの力になれるという体験が,友だちにシフトするのは簡単です。したことがあることは,いろんな場面で苦もなく発揮することができるものです。言って聞かせてできるようにはなりません。同じようなことをしたことがある,ママはそんな体験の練習台になってくださいね。

 幼い子どもが友だちを放り出すような卑怯な行動をするのは,責められません。どうすればいいのか,学習していないからです。でも,児童になっても同じままでは,卑怯な子どもとして仲間からの信頼は得られないでしょう。卑怯を抑えるためには,卑怯にならないような体験をさせることです。

・・・逃げるのを抑えるには,逃げないでやるべきことを教えることです。・・・


 〇自己責任?

 試験でいい点数を取れないのは,ちゃんと教えてくれないからという泣き言を並べ立てる子どもがいます。自分のことを棚に上げるのは卑怯です。約束が守れなかったことに対し,「だって,でも,どうせ」という言い訳が先行するのも卑怯です。

 すべて自己責任だということではありません。予測のつかない不可抗力があるのは承知しています。その上で用心を重ねて,いつもリスク管理をしておくべきだということです。第二の構えを備えておけば,かなりの不都合は避けられるはずです。そのためには,自分から取り組もうとする姿勢を取らなければなりません。

 勉強は教えられるものと思うような受け身の姿勢だから,くれないという恨み言が出てきます。学ぼうとする取り組み方をすれば,念のためにここも押さえておこうという備えができるようになります。自分ができることに対する責任を意識し実行することが,自分を卑怯にしないことなのです。

 何かあれば社会のせい,みんなのせい,あの人のせい,他人のせいでこうなった,そんな繰り言ばかり言っていると,人は寄りつかなくなります。いつ自分のせいにされるか分からないので,こわくてつきあいたくなくなります。卑怯な言動は,自業自得という巡り合わせによって,負の自己責任を突きつけられようになります。

 自分のことを棚に上げるというのは,やればできることをあれこれ屁理屈をこねてやろうとしないことです。いいこともわるいことも人に寄りかかって当然という考え方は,結局は自分を生かそうとしないことであり,自分に対して卑怯になります。すればいいんだろうと,ものごとをいい加減にする怠けも,同じことです。

 だからといって,ただ闇雲に突進すればいいというのではありません。できることを精一杯見極めて,できることはすべてやったと思えればいいのです。そうしておけば,たとえ結果が思い通りでなくても,「あのとき,しておけばよかった」と後悔することはないでしょう。

・・・自分に対する責任を感じていれば,卑怯の出番はなくなります。・・・


 〇パパでなければ?

 弱いから,汚いから,泣くから,という理由でいじめをする子どもがいます。いじめられる側にも相当の理由があるという言い募るのも卑怯です。弱者の非をあげつらうのは筋違いなのです。どうしてこんな理不尽な無法がまかり通るようになったのでしょう?

 卑怯という言葉は,ママの辞書にはないかもしれません。前号の「勇気」と今号の「卑怯」とはペアになりますが,どちらも従来は男性の世界に通用していた言葉です。パパによる子育ての中で,パパが最も得意とする分野であったはずなのです。ところが,パパによる子育てが弱体化したとき,特に男の子から勇気と卑怯という言葉が失われていきました。

 男の子に備わる腕力が野放しになることによって,少年の無軌道振りが蔓延しています。強きをくじき弱きを助けるのが通念としての勇気であり,特に弱きをくじくことは卑怯であるという厳然とした査定基準がかつてはありました。卑怯という言葉を知らない子どもに,歯止めが掛かるはずもありません。

 人をからかっておとしめて笑いものにする,それが許されるという風潮があります。プライドを逆なですることに馴染んでしまうと,いじめはすぐそばに近寄ってきます。それくらいのことで痛みを感じるのはおかしいという不感症に陥ります。人の心の痛みを感じなくなったとき,人間関係は自己防衛のために希薄にならざるを得ません。それがまた不感症をより悪化させていきます。

 不登校になる子どもが増えてくるのは,弱いものをさげすみいたぶって楽しむというアブノーマルな下地があるからです。一人でも庇うものがいてくれればいいのですが,寄って集ってという状況では,生きる活力さえ吸い取られてしまいます。

 保護者としての役割は,守ることです。何を守るかを明確に示しておかなければなりません。人として踏み込んではいけない領分があり,それは卑怯という烙印によって封鎖されているということを,ある程度強制的にしつけなければなりません。それはこわい父親が子どもを守るために果たすべき役割なのです。

・・・卑怯という歯止めを失ったら,暴力が野放し状態になります。・・・



《卑怯を抑えるとは,自分を信じてできることを実行することです。》

 ○面倒だな,自分がしなくても,慣れた人に任せておけば,・・・,いろんな陰の言い逃れを持ち出し,表向きは如何にもという理屈で上塗りをして,楽をしようとはかります。人は弱いものです。その弱さを恥じる必要はありませんが,卑怯にならないように努めなければ,生きていることにはなりません。

 ちょっとだけできることをやろうとすればいいのです。それががんばるということですが,がんばっていれば卑怯は出てきようがありません。卑怯を抑えるのは,それにふさわしい蓋が要りようです。それががんばってみることです。がんばった自分をほめられるようになればいいですね。


 【質問11-08:お子さんの卑怯を抑えていますね?】

   ●答は?・・・もちろん,「イエス」ですよね!?

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