*** 子育ち12章 ***
 

Welcome to Bear's Home-Page
「第 11-13 章」


『今日もまた 何を持ち込む この子たち』


 ■はじめに

 手を使うことで覚えなさいといわれてきました。字を覚えるには,何度も書きます。計算をするには紙に数字を書きます。いちいち紙に書き出さなくても,頭の中で覚えたり計算したりできます。でも,それは慣れてきたときです。最初はやはり書いた方が覚えが早いのです。どうしてでしょう?

 手の動きは工事作業です。設計図は見て分かりますが,図面だけでは何も形ができません。図面に沿って一つ一つの工程を手作業をして,構築物ができあがります。手で作業することを通して,脳の神経配線工事が行われるのです。作業を終えた後には,機能を備えた神経回路が残されます。それが記憶なのです。

 漢字を読めても書けないということは誰にでもありますね。それは手作業を疎かにしたからです。犬の絵を描くときも,イメージ通りに描けませんね。それも手作業をしていないからです。手作業の最も大事な効用とは,一つ一つ順を追って組み立て作業をするということです。漢字であれば,細部の線を筆順に沿って一本残らず組み合わせます。なぞることで,部品の全部を確認するから,再現できるのです。

 見たものはイメージで認知します。しかし,イメージは細部のチェックを省略しています。記憶して再現するには,もれなく細部を記憶の倉庫から引き出さなければなりません。手作業がその細部を解体し記憶に収納し再現するプロセスにあたるのです。

 視聴覚に片寄った学習は,脳の記憶回路の構築が手つかずに残されます。見て分かっても,自分で作りだすことはできない,受け身の才能しか持たない育ちを強いられています。知っていてもできない,そんな育ちが進んでいることを危惧して,体験学習という地味な手作業による学びが勧められているのです。



【質問11-13:お子さんの存在を認めていますね?】

 《「存在を認める」という意味を確かめておきましょう!》


 〇いないいないバア?

 子どもがある日突然消えてしまいます。子どもがいなくなった家は,妙に広くて静かで落ち着きません。いつもだったらああしていたこうしていたのにと思い出されて,気持ちにぽっかりと穴が空きます。日頃願っていた,面倒な世話がなくなって清々したとは思えません。明後日には帰ってきます・・・。

 子どもが急病で入院します。苦しそうにしている側で,親は何もしてやれません。ただ祈るばかりです。生きていてくれるだけでいいから,どうぞ神様仏様,この子を助けてやってください。子どもがどんな子どもであれ,生きて側にいてくれるだけでいい,その思いが親心の原点です。もしかしたら,それを親に思い出させるために,神様はときどき子どもを病気にするのかもしれません。

 できちゃった結婚という,望まれて生まれてきたわけではないにしても,子どもは愛くるしい無邪気な笑顔を向けることで,親として改心させます。命をこの子に授けたという喜びを感じるとき,出会いを感謝しているはずです。母体保護のために,人の赤ちゃんは他の動物と違ってかなり早産です。育ちの期間をママの懐に残しています。そのことが親を育てる期間でもあるというのは,自然の絶妙な采配です。

 子どもがいなかったら,たくさんの余計な経験はせずに済みます。自分だけの時間がたくさん持てます。好きなことが自由にできるでしょう。子どもは不自由さを押しつけてきますし,苦労も背負わせてくれます。あなたなんか産まなければよかった,そう口走ってしまうほど追いつめられる場合もあるでしょう。そんな危機を何とか乗り越えて,この子を育て上げてくれると,神様は信頼して子どもを預けてくれています。

 人は男であり女として生まれてきます。それは人を産み産ませるという機能を授けられているということです。人は子どもを育てる定めを負っており,人であるためには子どもを産み育てるというプログラムが発現しなければなりません。我が子として子どもの存在を自然に受け入れる本能,それがママの人間性の根源なのです。

・・・無心に子どもを産み育てることが人の本性でした。・・・


 〇実像?

 子どもの頃に抱いていた大人のイメージがあります。何となく憧れていたお兄ちゃんやお姉ちゃんがいます。ところで,自分が同じ年齢になったとき,イメージしていた憧れと自分を比べたとき,そこに至らない自分を見つけてしまいます。努力が足りないという反省があるにしても,買いかぶりすぎていた所もあります。

 自分が親になったとき,親を見て描いていた親という存在へのイメージとは,自分が重ならないと実感します。イメージはあくまでも理想化された姿だからです。自分は親として100点満点ではありません。60点程度かもしれません。それでも,やはり親であり,親をしています。実像はそういうものでしょう。

 「ふつつかが ふつつか育て 嫁にやり」という投稿川柳がありました。当事者には苦い笑いになりますが,そうであるしかないのが現実です。それでいいと認めざるを得ません。60点の親が65点の親になろうとする努力,それは長い道のりでしょうが道中にこそ意味があります。人は前向きであるとき,大きく頼もしく見えるものです。後ろ向きな人が小さく頼りなげに見えるのは,目一杯というゆとりのなさを感じるからです。

 堂々とした態度,それは100点の自信からもたらされるものではありません。60点の自信の上に,完全ではなくても何とかやれるというゆとりがあることです。そこそこまでできればいいという気持ちが,実力を引き出して,結果的によい効果を招きます。緊張してかたくなるのは,100点でなければいけないというストレスを引き寄せるからです。

 子どもに対して,こんな子どもであって欲しいという期待を持つことは必要ですが,それが100%達成されなければならないと絶対化したら,おそらく子どもを押しつぶします。大人でさえ60点なのですから,子どもも60点でいいのです。60点の子どもを前向きに育てるだけ,そう考えたら子どもの存在をプラスに認めることができるはずです。100点を持ってこない子は私の子どもではありません,そう思うときは幻の子どもに振り回されているときです。

・・・ちょっとだけ自分を越えてくれさえすればいいとしましょう。・・・


 〇情合い?

 ペットを飼う人が増えてきました。そして捨てられるペットが増えています。ペットは癒しになるという思いこみが蔓延しています。ペットによる癒しとは所詮は疑似体験に過ぎません。だからこそ,飽きてきたり,都合が悪くなるとあっさりと切り捨てられるのです。ペット好きな方には申し訳ありませんが,本質的に情けを掛けるべき相手としては,ペットは不適当です。

 自分の思い通りになる対象としてペットを飼うという気持ちがどこかにあるかぎり,きわめて自己満足になります。小さい頃は自分の都合通りに扱えていますが,成長すると手に余るようになります。やがて処分したり放置したりします。ペットが可愛いなら,そんな情けのないことはできないはずです。とどのつまり,自分だけが可愛いのです。

 子どもは親の思い通りになりません。かわいげがなくなるのです。ときには憎たらしくなります。手が掛かるという程度では済みません。親の生活を振り回してくれます。それほど親の懐に食い込んでくるのが子どもという存在です。ペットという愛玩物ではなくて,共に生きている分身なのです。情の深さは段違いなはずです。

 いいとこ取りだけをする愛玩物では,情は絡めません。情というのは一方的に押しつけるものではなく,通い合うものです。良くも悪くも通わせざるを得ない場合もあります。その通い合いから二つの情が溶け合って新しい情が作られていきます。そこには喜びも悲しみも織り混ざっています。情とは嬉しくもあり切なくもあるものです。

 親子の情は,子を思う情と親を思う情によって紡ぎ出されます。子どもの存在をかけがえのないものと信じられるようになるためには,深い情の通い合いがなければなりません。それは考えようによってはかなり面倒なことです。でもそれを厭わない大らかさをママは持っています。何しろはじめから身二つの我が子なんですから。

・・・あれこれあるからこそ,お互いにとっての存在感がわいてきます。・・・



《存在を認めるとは,お互いにぎりぎりの深みにまで絡むことです。》

 ○ママはこれまで本気になったことが幾度かあったことでしょう。そのとき形振り構う暇はなかったでしょう。形振り構っているときは本気ではないということです。子育ては生活のついでにできることではありません。ときにはここ一番という大事なときがあります。子どもは本気で向き合うにたる存在だからです。

 ごく当たり前に子どもとつきあっていますが,それは人と人が結びつく最も原理的な形です。だからこそ,親になった人は,人とのつきあい方が温かなのです。ママの心が少しずつ子育てによってほぐされているはずです。ちょっぴり痛みがあるかもしれませんが,我慢できますよね。


 【質問11-13:お子さんの存在を認めていますね?】

   ●答は?・・・もちろん,「イエス」ですよね!?

「子育ち12章」:インデックスに進みます
「子育ち12章」:第11-12章に戻ります
「子育ち12章」:第12-01章に進みます