*** 子育ち12章 ***
 

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「第 13-04 章」


『育てたい よい人たちの 住む場所で』


 ■つれづれ

 連れ合いのお供でスーパーマーケットに買い出しに出かけます。「ちょっと見ていきたい」といういつものパターンで寄り道です。手芸コーナーです。所属しているボランティア団体で資金稼ぎのためにバザーをしていますが,その出品物を作成するつもりなのです。店先のかごに入っている袋詰めの毛糸に目が留まりました。ピチューというかわいい小動物が編めるセットです。できあがり写真を見て,一瞬ピカチューかと思いましたが,よく見るとピチューでした。

 お値段ですが定価は袋に1300円と印刷されています。ところが売値は100円です。投げ売り状態です。これなら値段的にバザーに出品できます。もちろん,そのままではなくて,編み上げて完成品を出品します。手間暇を掛けるボランティア活動を寄付金としてご協力頂かなければなりません。

 ところで,毛糸セットが売れなかったことで大幅な値下げになったとすれば,そこに関心が向かいます。子どもが喜びそうなキャラクターおもちゃですが,編み上げなければなりません。わざわざ編むという手間と暇が必要です。若いお母さんは編む技能をお持ちでないかもしれません。出来合いのものを購入した方がお手軽ということで,買う方が少なかったのでしょう。

 子ども時代に母の手編みのセーターを着ていたことを思い出します。毛糸がビシッと締まって重たいセーターでしたが,ボクだけのセーターです。ボクのために手間暇を掛けてくれた気持ちをじわっと感じたものです。買って与えられたモノからは,何の親心も伝わってきません。子どもの目には直接何をしてくれたのかが見えてこないからです。

 モノの豊かさは親心の豊かさを置いてきぼりにしています。与えておけばいいと済ませていると,この子のためだけにわざわざという最も大事な親心を枯らしていきます。便利な時代は余計な手間暇を捨て去るのが当たり前になっていますが,それは非生物の世界,機械的世界に限られます。生き物の世界には余計なことはありません。余計な手間暇を掛けることこそが子どもの成長には欠かせないものです。



【質問13-04:お子さんは,人の目を引こうとしてはいませんか?】

 《「人の目を引く」という意味を理解しましょう!》


 〇《指針2−2》ここはどこ?

 道に迷ったら不安になりますね。何が不安の元でしょう? 自分のいる場所が分からないことです。どうしますか? 周りを見回して目印になるものを探しますね。居場所を知るためには,周りとの位置関係を把握する必要があります。どこにいるか分かれば安心しますし,進む方向も決めることができるようになります。

 育ちの道も同じです。もう一人の子どもは自分がどこにいるかを他者との関係の中で見つけ出して安心し,安心できたら自分を育ちの道に進ませようとします。前号でお話しした居場所はまず親との関係の中での居場所の確認でした。さらに社会関係の中での居場所をはっきりさせることが,人としての育ちには必要です。

 一言でいえば,人との間合いです。若者たちが人間関係に疲れたり苦手とする原因は,この間合いの取り方を学習していないからです。ところで,間合いという言葉はママの辞書では隅の方にあって,普段着の言葉ではないはずです。そこでママの口から子どもに伝えられることはなく,子どもは間合いという概念を知らないままに育っていきます。人間とは人の間と書くように,間合いは社会生活における必須項目です。

 誰とでも仲良くできる子ども。そんな子どもがいるわけはありません。大人でも親しさの程度はいろんな段階があるはずです。挨拶もしない人,挨拶だけはする人,立ち話まではする人,一緒に出かける人,一緒にいたい人,その変幻自在な関係意識が間合いです。多様な間合いを保つようにしないと疲れます。

 いろんな段階の間合いを取ることで,人は自分の場所が分かるようになります。誰とでも仲良くしようとしていると,自分を見失います。それはもう一人の自分が自分を相手に合わせようとしているために,自分の場所を定められないからです。どんな人とどんな付き合いをしているか,そのことが自分の存在を明らかにします。子どもが生まれ育った人間環境を自分の中に繰り込んでいくのは,間合いの取り方を学ぶからです。

・・・子どもも人脈や派閥という関係の中に自分を見つけようとします。・・・


 〇見張る目?

 子どもはもともと自分中心に世界を眺めています。ところが,やがて自分を眺めることのできるもう一人の子どもが誕生します。もう一人の子どもはどこから自分を見ているのでしょう? 鏡の前でお化粧をしているママ。鏡に映る自分を見ているもう一人のママの目は,他人の目になっていませんか? 他人の目で自分をチェックしているはずです。私はなんて美しい。そう思っているのはもう一人の自分です。他人になったり自分に戻ったり,自由自在です。

 かつて人には恥じらいという気持ちがありました。半世紀前に恥という文化が日本文化の特質と指摘されました。それは人に見られているという自覚から生まれます。見られても恥ずかしくない自分であろうと,もう一人の自分は他人の目を持って自分を律して生きていたのです。

 旅の恥はかき捨てといいます。どこかのお父さんたちがしでかした買春ツアーという破廉恥な所業も旅の恥というつもりでしょうが,もう一人の自分が居眠り運転状態になっています。端から見れば,こんなに怖いことはありません。若者の暴走行為も人の目を失った自虐行為になります。無灯火の自転車に乗って平気な人は,自分を他人の目で見るもう一人の自分が置き去りになっています。

 万引きをする子は,人に見つからないようにコソコソと死角をはいずり回ります。人の目をもう一人の自分の目にしようとしない卑怯な狸寝入りです。ムカツクという生臭い捨てゼリフも,もう一人の自分の影が薄くなっているからこぼれ出てきます。人の痛みを感じることができるのは,もう一人の自分しかいません。

 自棄になるというのは,もう一人の自分が自分に引導を渡して見棄てることです。躁病や鬱病は心の病ですが,自分ともう一人の自分が少しすれ違っている状態だということができます。自分ともう一人の二人三脚がチグハグなペースになって,ぎくしゃくしているのです。

・・・自制とはもう一人の自分がしっかりと目覚めて監督することです。・・・


 〇見守る目?

 今日から一年生。そんな日をそのうちに迎えるか,もう過ぎているか,それぞれですね。一年生になったら,始めは貸衣装のようにぴったりと馴染んでいませんが,しばらくすると一年生らしくなります。もう一人の自分が一年生という人の目で自分を育てていくからです。一年生の自覚を持つのは,もう一人の自分です。

 走っていて転けた幼児は,親の目があると甘えてべそをかきます。でも人の目があるとグッと我慢して,自分で起きあがろうとします。「えらいね,つよいね」といった声を掛けてもらうと,「ボクは強いんだ」ともう一人の子どもが復唱します。こうしてもう一人の子どもは人の目を獲得していきます。育ちの本能は人の目を引こうとすることが大切であるとして快感を付与してくれているようです。

 運動会には必ず見に来てね。見られている,それも見守られていると思えばがんばることができます。自分をほめてあげたい。そんなコメントがありましたが,もう一人の自分はほめられる自分が誇りになります。認められたいという思いも人の目から見た自分をもう一人の自分が確かめたいからです。

 子育ちとはもう一人の子どもが自分を育てることです。そのためにはもう一人の子どもは温かい人の目を持たなければなりません。自分を労り,慰め,励ましてくれる人を知り,その真似をすることで自分を見守る目を体得していきます。信頼できる人に囲まれていればいい子に育っていくのは,もう一人の子どもがいい意味で感染していくからです。

 子どもの育ちに環境が大きく影響することは何となく分かっておられるでしょうが,環境とは人的に豊かな環境でなければなりません。例えば,成績でしか見ない親や先生や塾の友だちだけに囲まれていると,もう一人の子どもは自分を成績でしか見られなくなります。自分を見守る目とは違っていますよね。

・・・子育ちにはもう一人の子どもが自分を見守る目を持つことです。・・・



《人の目を引くとは,もう一人の子どもが育とうとすることです。》

 ○子どもが育つ場とは,そこにいて安心できる場です。安心すれば,さあやろうという気になります。何となく不安で追いつめられると,防御の体制に入るので,何もしようとしなくなります。これでは育つどころではありませんね。

 励ます場合のコミュニケーションは,「それでいいんだよ」というメッセージを伝えることです。安心させれば,やる気が出てきます。子どもたちにやる気がないと見えるときには,先ずは追いつめていないかとチェックすることです。叱るのは見張る目,ほめるのは見守る目ですよ。


 【質問13-04:お子さんは,人の目を引こうとしてはいませんか?】

   ●答は?・・・なるべく適えるようにしていますよね!

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