*** 子育ち12章 ***
 

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「第 13-08 章」


『育てたい ドウゾといえる 素直な子』


 ■つれづれ

 若者たちはネットワークの世界にすっかりはまっています。いったい何を求めているのでしょうか。あれほど熱中している所を見ると,何か魅力みたいなものがあるはずです。携帯電話を取り上げると言われたら,平気ではないようです。

 近々運転中の携帯電話使用は警官に現認されたら罰金処分を受けるようになりそうです。道を歩いていてもメールを見ながら歩いており,交通トラブルを招くような不注意行為が目立ってきました。そのような人を孤独恐怖症になっているというそうです。一時でも一人になることが怖いというのは,普通ではありません。

 確かな人とのつながりを持てないままに成長してきたからです。子どもの頃に家に帰っても誰もいない,冷めた家にはぬくもりはありません。自分の知らない勤め先に出かけている親は,子どもにはつながりがプツンと切れています。あそこにいると想像できないからです。勤め先を一度見せておけば安心するはずです。

 寂しい気持ちでつながりを探す手段がインターネットです。取りあえず自分を公開してみると,誰かが返信をくれます。知らない人だけど,ネットでつながることさえできれば,寂しさは一時しのぎができます。同じ趣味など,気の合う人と出会うと,一気に親密さを求めていきます。人に飢えている焦りがあるからです。壊したくないから,お互いに思いが相乗的に増幅していきます。

 やがて二人だけの世界に安住したくなって,家族というどうでもいいようなつながりが鬱陶しくなり切り捨てようとエスカレートしたとき,家族の殺傷という事件が起こりました。現実のつながりでは多少とも違った考えに直面します。だからこそ,道を踏み外さないような修正ができます。違いを受け容れることによって,思いこみに潜む悪意を洗い去ることができます。裏ネットに触れたら,手を洗った方がいいようです。



【質問13-08:お子さんは,人に頼られようとしてはいませんか?】

 《「頼られる」という意味を理解しましょう!》


 〇《指針4−2》これでいい?

 子どもが獲得していく能力は,最初は単純です。走るのは思いっきり走ります。危ないですよね。話すときにはどこでも大声です。傍迷惑ですね。子どもをのびのび育てているのだからと,一向に構わないママたちがおられます。しつけを放棄しているのに育てているとは,親の顔が見たいと思われても仕方がありません。

 子どもが注意されたときに余計なお世話だと感じたら,それが危険信号なのです。皆さんはその注意を子どもにまっすぐに向けて下さっていることでしょう。このしつけこそが子どもの社会性への入り口です。もしここで子どもを守るという気持ちでその扉を閉ざしてしまったら,人間関係の苦手な子どもを育てます。

 社会性とは,自分の言動が見ず知らずの人に及ぼす影響に関心を持つことです。割り込みを注意されて余計なお世話とカッとするから,傷害事件に突っ走るようになります。そんな大人になったら,育て甲斐がありませんね。子どもだからと野放図に育てることは,将来に向けて自爆装置を組み込むようなものです。

 いろんなことができる能力を備えると,子どもは一所懸命に発揮しようとします。しかし,多くの場合,子どものすることとはいえ激しすぎます。ちょっとしたいさかいで友達を叩くときも手加減などしません。手加減というコントロールを教えるのは,子どもを受け止めている親の役目です。痛い痛い,もう降参と負けてやるのです。大人は何ともなくても,子ども同士では力の入れすぎになるからです。

 安全という面でも,能力のセーブ・ブレーキは必要です。特に,ここでは人に対するブレーキについて触れておきます。「これでいい?」という確認行為を教えてやると,やがてもう一人の自分が「これでいい!」と自己判定できるように育ちます。最近の子どもたちに見られる傍若無人ぶりは,気になります。

・・・もう一人の子どもは,自分を制御する能力を備えるべきです。・・・


 〇頼られたい?

 子どもが単純に面白がってあれやこれやの行為をします。幼いときは,親にとっては邪魔なことばかりでしょう。昔から「猫よりまし」といわれてきたように,やらせようによっては,結構役に立つこともできます。要は上手にし向ければいいのです。

 「やってくれたの,ありがとう。ママ助かったよ」。そう言ってあげるようにすれば,子どもは喜んでいろんなことをやってくれます。それは人に頼られるという喜びです。自分の能力が認められたということは,人間らしい喜びだからです。子どもが発する「自分を認めて欲しい」という願いとは,この喜びなのです。

 今の子どもたちに最も欠けているものは,ありがとうと言ってもらうことなのです。親は世話をするという役目意識から,一から十まで子どもの面倒を見てやります。結果として,子どもは「ありがとう」と言う立場に置き去りになります。プレゼントをもらって言う「ありがとう」。それは子どもにはうれしいことでしょう。でも,あえて言い過ぎると,えさをもらって喜ぶ動物の喜びのレベルです。

 親は子どもがありがとうという姿に喜びを感じているはずです。その喜びを子どもに与えることを忘れています。ありがとうはモノをテイクするときの言葉であり,それは物の豊かさと重なり,心の豊かさとは逆の立場にあります。心の豊かさとは,ギブする豊かさなのです。自分は「どうぞ」と言って,相手から「ありがとう」と言ってもらうことです。

 子どもが自分も家族の一員であると確信するのは,家族にそれなりに頼られているという証,ありがとうと言われる場合です。家族に喜びを与えることができる,これこそが家族の結びつきです。赤ちゃんは素敵な笑顔を見せてくれますね。自分が笑えば,みんなが喜ぶからです。子どもの家族思いの気持ちを受け止めてやって下さい。

・・・人として,頼りにされたいという思いは切実です。・・・


 〇人の輪は?

 人付き合いが上手でない子どもの特徴は,人に求めようとするからです。家で甘やかされ何でもしてもらっていると,世間の人からもしてもらおうとします。ところが,よその人は何もしてくれません。自分が無視されたと勘違いするようになり,世間を恨み,背を向けるようになります。自分のせいなのです。

 してもらったら,ありがとうときちんとお礼が言えても,それでは人と仲良くはなれません。ありがとうはしてもらうまで待っていなければなりません。待ちきれなくなったときに,無断で無理矢理テイクしようとします。非行の扉を開けてしまい,仲間に背を向けなくてはならなくなります。つきあってはいけない人になります。

 積極性や意欲などは,もう一人の自分が自分を周りに関わらせようとすることです。それは「どうぞ」という言葉に載せて発揮できます。見ず知らずの人にも,どうぞという言葉は容易にかけることができます。人の輪はどうぞという人が作っていることを知っておいてください。

 昔のようにきょうだいが多いと,年上の子は普段から弟妹にどうぞという振る舞いに馴染んでいました。その輪が地域での異年齢からなる子ども集団にもつながっていました。遊びも幼い子にはハンディをつけてやって,一緒に遊ぼうとしていました。子ども社会の構造を壊したせいで,大切な育ちができなくなっています。

 今更そんなことを言われても? その通りです。だから,どうぞという場と機会を,子どもに意識的に用意してやらなければなりません。子どもに直接そうしなさいとしつけをして済むことではありません。言えばその通りに育つと考えていると,しつけができません。そうせざるを得ない環境を作るのです。例を挙げれば,勉強しなさいと言っても勉強はしません。勉強したくなるような環境を用意することです。

・・・人のつながりは,ドウゾがあるから出来上がるのです。・・・



《人に頼られるとは,自分の存在を確認する証拠になります。》

 ○世間には,できる人というほめ言葉があります。他には,できた人という言い方もあります。できる人とは一般的には仕事がこなせ業績も上げられる豊かな能力のある人ですが,どちらかというテイクすることに長けた人です。情けといったものは二の次というイメージがあり,頼りにはなりますがつきあいたい人ではありません。

 一方,できた人とは頼りになる上に,なんだか温かいイメージが漂います。長いおつきあいをしたくなる人です。ギブしてくれる人だからです。できる人になりたいか,できた人になりたいか,それは個人の自由ですが,子育てのときには考えておいた方がいいようです。


 【質問13-08:お子さんは,人に頼られようとしてはいませんか?】

   ●答は?・・・なるべく適えるようにしていますよね!

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