*** 子育ち12章 ***
 

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「第 13-09 章」


『育てたい 明日に楽しみ 探せる子』


 ■つれづれ

 路上に子どもの三輪車がぽつんと待っています。どこに行ったのかなあ。置いていかれちゃったみたいだけど,早く思い出してくれないかな。夕暮れの中で,じっと迎えを待っている三輪車がいます。真ん中に放置されていましたが,通りかかった方が脇に退かしてくれました。もう日差しが消えて冷たくなっています。

 子どもにとって,毎日遊んでいる所は家なのです。モノに対する所有権,ボクの三輪車ということは意識していますが,家々という場所に権利があるとは思っていません。かすかに縄張りという広がりを自分のところと感じています。家の近くの道路も自分の縄張りですから,そこに三輪車を置いていても一向に気になりません。

 子どもにとって,公共の場所は自分の場所なのです。正確に言えば,自分の場所とそうでない場所の区別がないのです。だから,乗り物や施設の中でも自分の思うがままに振る舞います。大人になっても,みんなの場所は自分の場所と考え違いをしている人がいますが,公共という意識が曖昧になっているようです。

 先ず教え込むべきことは,皆の場所は自分が使うことはできるが,自分が使わないときはきちんと他者に明け渡すということです。勝手に使うのではなく,周りの了解の上で使わせてもらうものという節度が肝心です。この言い方は旧い考え方を持ち出しているように思われるかもしれませんが,そうではありません。使う権利とは自分が持ち出すものではなく,皆から付与されているものだからです。

 公園のブランコは,みんなが遊んでいいものです。みんなの中の一人である自分も遊ぶことができます。でも,所有権はありませんし,占有権もありません。使い回しをするために,順番制というルールによって,みんなの権利を守っています。公共という感覚をきちんとしつけることが,安心して仲良く遊ぶ入り口になります。



【質問13-09:お子さんは,楽しみを探そうとしてはいませんか?】

 《「楽しみを探す」という意味を理解しましょう!》


 〇《指針5−1》なぜ育つ?

 幸せになりたいですね。でも幸せっていったいどんなものでしょうか? パンドラが箱を開けたために,人の災いの素が蔓延してしまいました。かろうじて「希望」という道標だけが残されました。災いに満ちた迷路を抜ける秘密の地図のようなものです。同時に,人は幸せになるために不可欠な能力の種を持って生まれてきます。

 能力の可能性を秘めた種の中で,自分に相応しいものを選び抜いて,しっかりと育て上げなければなりません。育ちとは,幸せになる準備なのです。ところで,自分に相応しいものを選ぶのは,どうしたらいいのでしょう? 希望を手に入れなければ,選ぶことはできません。希望に向かっていく道が,幸せの道です。

 抽象的なおとぎ話ですが,日々の暮らしに当てはまるように翻訳しておきましょう。まず,「夜寝るときに,明日の朝起きるのが楽しみですか?」と自分に問いかけてみてください。もし,「寝るだけが楽しみ」と思っていたら,それは幸せの道から外れています。楽しみだと感じられたら,今現在幸せの途上にいるはずです。

 明日はいいことがある。それが希望という地図の一里塚なのです。毎日を幸せに向かう道筋に沿って辿っていけることになります。育ちによって能力が高まれば,それだけ幸せを掴む可能性が確かになるから,人はうれしくなるし,生きることを感動的に喜ぶようになれるのです。幸せになりたいから,育とうとします。

 生きていればいいことがある,明日はきっとよくなる,それが希望という地図をしっかり握りしめている証です。もう一人の子どもが明日の自分の目標を見定めることができるとき,育ちの進行は順調に進みます。明日にいい目標を見つけようとしさえすれば,そこに幸せの明かりを見ることができます。

・・・もう一人の子どもは,やがて来る楽しみを探す意思を発揮します。・・・


 〇楽しみ?

 明日の楽しみとは? 最も身近なものは,「明日はお休み」というものですね。でも,それが「○○しなくてもいい」とか,「ゆっくり寝ていられる」というものであったら,楽しみと言うことはできません。確かに休養は必要ですが,目指す目標としての楽しみとは別物です。

 仕事の後に,ゆっくりお風呂に入って,くつろいだ気分で頂く酒肴は格別でしょう。辛くてきつい仕事をやり終えた自分へのご褒美です。一日の疲れがすっと抜けていく快感を味わうことができます。ところで,親は自分に対して褒美を上げていますが,子どもは一日の疲れを癒す褒美をもらっているでしょうか? 家族の団らんの場で親子共にご褒美を分け合えていますか?

 この延長上に,勉強したら欲しいものを買ってあげるというご褒美作戦があります。楽しみを目の前にぶら下げるとがんばれます。馬を走らせるのにニンジンをぶら下げてやるというやり方です。動物的な本能に働きかけるやり方です。幼い子どもに対しては効果的ですが,人間的なやり方ではありません。あまりに欲望だけに片寄るからです。子育ての場では,早く卒業すべきなので,止めるようにアドバイスされています。

 大事なことは,楽しみを今夜ではなくて明日に見つけることです。休養とは本来明日の楽しみのための下準備に過ぎません。「今日はここまでやった。明日はあそこまでやれる」,「今日は失敗したけど,明日はやり方を工夫してやり遂げよう」,「明日は嫌な算数の授業があるけど,午後からは大好きな国語がある」など,楽しいことを目指すようにすれば,気持ちは明るく前向きになれます。

 がんばるということは,やりかけていることを続けることです。続けようという意欲は,その先にある目当ての楽しさを感じ取る能力から派生します。できたらいいな,なれたらいいな,あったらいいな,いろんな「いいな探し」をすれば,「明日は早く起きたい」と思うようになります。

・・・人として,明日を目指す楽しみが生きる意欲になります。・・・


 〇できたら?

 砂場で遊んでいる子どもは,あれやこれや気ままに砂をいじくっています。大人は何を作っているのだろうという目で見ています。「そんな所を触ったら壊れちゃう」と思って,つい口出しをします。そこにいくつかの余計なお世話が潜んでいます。まず,壊れるという体験をさせないことです。こうしたら壊れるんだ,それが大事な学びなのです。知恵とは失敗をすることで身に付きます。

 大人の最も重大な勘違いは,子どもが何かのできあがりを期待して遊んでいると思うことです。子どもは,自分の手で何ができるかを試すことが楽しいのです。自分の力を知ることにワクワクしているのです。できあがりは二の次です。その証拠に,大人が手伝って作り上げてやってもうれしそうにしません。ときにはせっかく出来上がったものを壊してしまうこともあります。

 遊びでも勉強でも,そこには取り組むべき課題があります。大人の目は結果の善し悪しを見ていますが,それは育ての目ではありません。できなかったら悔しいと思うのは自分に対するもう一人の自分の思いであり,取り組む力の不備を思い知らされるからです。一方,結果が出ればうれしいのは,できる自分を確認できるからです。子どもは結果よりも,自分の方に関心があることを知っておいてください。

 機能快という言葉があります。人は自分の持っている機能を使えるとき快感を得るという意味です。字が書ける,線が描ける,動かせる,作れる,話せる,歌える,走れる,飛べる,そんなことが楽しいのです。子どもの楽しみとは,そういう根元的なレベルから生まれているのです。だからこそ,できたねという言葉が何よりも必要なのです。

 子どもは徐々にできるようになります。できるのが当たり前ではなくて,できないのが当たり前です。そんなとき,できないと嫌な目に遭うと脅かして無理矢理がんばらせようとしてはいませんか。できたらいいねという風に,楽しみを引き出してやってくださいね。それが可能性を引き出す方法です。

・・・できるようになりたいと思うから育つことができます。・・・



《楽しみを探すとは,自分の可能性を開き伸ばそうとすることです。》

 ○今の子どもには堪え性がないと言われています。言うのは簡単です。どうすればいいのか,何が足りないのか,元を見極めて手を打たなければなりません。我慢とあきらめの違いを考えておきましょう。先に楽しみがあれば我慢できますが,何もなければあきらめるより他になく嫌がります。

 大人になりたくない,今のままがいい,十代でありながら昔はよかったともらす,そこには育ちの先に楽しみを見つけられない苦悩が芽生えています。大人になったら素晴らしいことが待っている,大人ってすごいな,そう思わせられない大人の姿を見なさなければならないようです。


 【質問13-09:お子さんは,楽しみを探そうとしてはいませんか?】

   ●答は?・・・なるべく適えるようにしていますよね!

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