『育てたい 七つ転んで 八起きの子』
■つれづれ
いわゆる頭の良し悪しは,脳の働きと関わっているはずです。脳とはどのような機能を持っているのでしょうか? 部位ごとの機能が判明しているので,簡単におさらいをしておきます。知れば何かの参考になるでしょう。
奥の方にある脳は遅れた脳で,食欲などの生物本能が納められており,動物と共通しています。前頭葉は新しい脳で高級な働きを受け持っています。人それぞれの体験により個性化していき,心と呼ばれるものができていきます。刺激が入ると特有のニューラルネットワーク(神経網)が形成されるのです。一端それが出来上がると,同じ体験は似た反応をするようになります。体験が不足すると,心ができず,欲望があからさまに発動するようになります。
左脳は論理的な働きを受け持ち,言葉という道具によって情報化された体験を整理し編集します。右脳は情報の統合や組み合わせをしながら発想を受け持ちます。もちろん左右の脳は一体となって働かなければそれぞれの機能は達成できません。
だからどうしたのと思われることでしょう。もう少し引き寄せておきましょう。体験という刺激が生理的な反応をもたらし,神経が伸びて回路がつながっていきます。回路として記録されるわけです。それを意識の上に引き出すために言葉が関連づけられるのです。言葉が回路のスイッチであると思ってください。
体験が大事だというのは,その刺激がなければ回路が組み上がらないからです。体験は設計図のようなものです。さらに,その体験回路を働かせるために言葉というスイッチをつけておかなければなりません。ものごとをど忘れしたとき,言葉が出てこないはずです。赤い色と聞けば,赤い色を見た体験回路が作動し,赤い色が思い浮かんでくるのです。頭の良し悪しは,体験と言葉のマッチングの良し悪しということになります。全ての教科の基礎が国語といわれる理由がこのことです。
【質問13-11:お子さんは,やり直ししようとしてはいませんか?】
《「やり直しする」という意味を理解しましょう!》
〇《指針6−1》どのように育つ?
飽きもしないでという言葉は,子どもに向けて使われます。同じことを繰り返し続けます。反復練習することで,筋肉の使い方をプログラムとして書きこんでいます。取りあえずできるというだけではなくて,いつでも同じようにできることが確認されるまで繰り返します。
初めのうちはぎごちない動きですが,繰り返していると上手になってきます。プログラムがバージョンアップするからです。もちろん,たくさんの失敗もします。その失敗の仕方が大事です。数度は同じようにやってみますが,うまくいきません。もう一人の自分がどうしてかなと考えます。考えるという行為は失敗したときに発揮されるものだということを知っておいてください。
考えるという行為には,一つのパターンがあります。同じようなことがほかにないかと探すことです。そのためには,失敗した状況を順を追って再確認しておかなければなりません。同じようなことをしたことがあるとか,ママがしていたやり方を思い出したり,友だちの行為を見ながら,自分のやり方と比べると,もう一人の自分はここが違うという所を見つけます。ここを変えればいいんだと気づきます。真似をしてやってみます。まねることがまねぶに,やがてまなぶに変化したのです。
育ちとは自前でしかできないものです。たとえ親でも代わってやることはできません。だとすれば,全てのことを自分で自分の身体に刻み込まなければなりません。その営みが学ぶということです。失敗して考えて手本を見つけて真似してやってみる,この一連のプロセスが学びであり,育ちの基本ステップなのです。
初めての場所を訪れるとき,行きの道は緊張して疲れますが,帰りの道は気が楽で行きよりも近く感じるものです。一度辿った道は経験済みであり,全体が見渡せると同時に,先がどうなるか分かっているからです。自転車に乗った経験は,しばらくぶりであっても,きちんと残っているものです。このしたことがあるという体験こそが学習による育ちなのです。
・・・もう一人の子どもは,失敗から学びながら自分を育てていきます。・・・
〇親の我慢?
大人になって失敗すると傷も大きいですが,子どもの失敗はたかがしれています。このたかがしれているという点を外さないように気をつけてください。中部地方のあるマンションの6階に住んでいた6年生になる男児が,冬休みの書き初めの宿題をやっていました。うっかりして墨を机からこぼしてしまいました。床には絨毯が敷いてあったので,墨は吸い込まれていきます。
男児は慌ててティッシュを抜き取り墨を吸い取ろうとしましたが,べっとりと墨が残ってしまったのです。不始末を気にした結果,男児は「墨をこぼしてしまいました。ごめんなさい」と習字紙に書いてベランダから飛び降りていきました。命と引き替えに詫びたのです。
絨毯に墨をこぼしたぐらいでと,気の毒に思われるでしょう。でも,普段からそう思っていたでしょうか。コップを落として割ったら,きつく叱ってはいませんか? 何も起こらない平穏な暮らしの中では,些細なしくじりも大きく思えてしまうものです。そのまま子どもにぶつけていたら,子どもはとんでもないことをしたと小さな胸一杯で受け止めてしまいます。命と同じくらいに・・・。
しくじったら反省させる意味で叱ります。その親の気持ちは分かりますが,怖がらせてはやりすぎです。これくらい大したことではないとどんと構えておかないと,子どもを追いつめてしまいます。子どもの心を読み取れる細心さの陰に大きな鈍感さを持つことが母の懐の深さになります。難しいことかもしれませんががんばってくださいね。
しくじったら,もう二度としてはいけませんと禁止してはいませんか? こうしてもう一度やってごらんと教えてやり直しさせてください。しくじったことは子どもがすでに反省しています。親がやるべきことは,二度と同じしくじりをしないように導いてやることです。間違いを正すことが叱るということの中味です。やってしまったことは仕方がないとあっさりと諦めてしまえばいいでしょう。
・・・しくじりを吸い取ってやれば,子どもはノビノビと育ちます。・・・
〇修業?
子どもは余計なことをします。結果はかえって手が掛かってしまいます。子どもはつまらないことをします。役にも立たないようなことにのめり込みます。それほどの熱心さで勉強にも取り組んでくれたら・・・。くだらないこと,愚にもつかないこと,何が面白いのか不可解なこと。かつては自分もしてきたはずなのに?
何をやっても永続きしない,根気がない,やる気がない。親の目はどんな物差しで子どもを見計らっているのでしょう。洋服ならおそらくダブダブの大きさになる期待値を被せようとしています。洋服なら大きいとすぐに気がつきます。間違っているのは洋服の寸法だと考えます。ところが,することなすことに対する期待値は,合わないのは子どもがわるいと考えます。
お正月の決心,新入社員の決意,今年度の抱負,結婚式の約束・・・。どれもこれもとっくの昔に反古にされていきます。期待値に合わないのは嫌というほど身をもって分かっているはずなのに,同じことを子どもに押し付けていることに気がつかないことがあります。育ちというものをなんとなく機械の動きと同じで一直線と思ってしまっていませんか?
藤村の初恋。リンゴ畑の木の下に 自ずからなる細道は 誰が踏みそめし形見ぞと 問いたもうこそうれしけれ。未開の原野に踏み込んで何度も何度も自分の足で踏み固めるから,細い道が刻まれていきます。育ちとは,ブルドーザーでガァーッと切り開くようなものではありません。いつまで同じことばかりしているの,と言いたくなるほどゆっくりと進むものです。
あれこれのことをやっては止め,思い出したようにまたやり直してみるということを繰り返しているはずです。前はできなかったのに,今度はできる。その間の寄り道が力をつける修業であったのです。一つのことを身につける修業のプロセスを考えてみれば分かって頂けるでしょうか。
・・・やり直しができることは,確実な前進をもたらします。・・・
《やり直しするとは,自分を制御する能力への王道です。》
○やり直しをしなければならない事態に陥ったとき,「一から出直し」と言います。なんとなく見過ごしているはずですが,「一から」という点に着目してください。ゼロからの出直しではありません。その一とは自分という人間の全て,人生の体験の全てです。それは決してなくなるものではないからです。
ところで,子どもはゼロから始めています。0から1までの間は全て初体験です。一度や二度で身に付くはずもありません。やり直しによってやっと1までたどり着きます。親は5でないと気に入らないようですが,1から5までは0から1までの苦労に比べれば実はとても簡単なのです。焦りはペースを乱すだけです。
【質問13-11:お子さんは,やり直ししようとしてはいませんか?】
●答は?・・・なるべく適えるようにしていますよね!