*** 子育ち12章 ***
 

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「第 13-12 章」


『育てたい 少しだけでも がんばる子』


 ■つれづれ

 情報化社会の中で育っていく子どもたちは,言葉の海で溺れようとしています。対人関係に限っても,好きでなければ嫌い,嫌いでなければ好き。よくないことは悪い,悪くなければよいこと。してくれたら愛されている,してくれないと愛されていない。友だちと仲良くしなければならない,そうしないとイジメになる。イエスかノーか。あらゆる事に決断を迫られているので,辛くなります。

 仲良しでなければ敵だという感覚がイジメになります。知り合いでなければ人とは思わないという感覚が非行につながります。ボールが車に当たっただけで大仰な返り討ちを持ち出す過敏さは,傲慢な思い上がりのなせる技です。隣の人は迷惑な存在としか思えない偏狭さはお互い様で,だからこそ疲れて過敏になります。

 たかが人間一人どれほどのものと戒めながら,言葉を使いこなす覚悟がなくなっています。この社会は好きでもなければ嫌いでもない人とのつきあいが基本です。好きと嫌いの間は無段階に連続しているのです。好きでなければ嫌いという両極端の中では,人は生きられません。好きにも嫌いにもどれくらいかという程度があるのです。言葉には両極端しかありませんが,現実はその間にいろんな程度のものがあります。

 暑いか寒いかの日しかないのではなくて,暑くもなく寒くもない日があり,それをちょうどよい日と言います。人が生きるに相応しい状況はことさら表現しなくてもいいので,言葉は必要ありません。よい子でなければわるい子ではありません。よい子でもなくわるい子でもない,その普通の子が子どもたちです。それをよい子わるい子と無理矢理四捨五入しようとするから,子どもはたまりません。

 もう一つの言葉の呪縛は,片寄りです。たとえば,やせた方がいいという偏向です。そのためにやせていないことをわるいと決めつけます。柔らかいこと,美味しいこと,面白いこと,楽しいことに浸っていようとするから,普通の生活が耐えられなくなります。でも,それはバランスに反したこだわりだから,無理なことなのです。言葉を正しく認識することが,最も大事な癒しの方策です。



【質問13-12:お子さんは,なんとかしようとしてはいませんか?】

 《「なんとかする」という意味を理解しましょう!》


 〇《指針6−2》いいかな?

 せっかくきちんと片づけていたのに,幼い子どもはそこら中に散らかしてくれます。ママのために余計な仕事を作ろうというつもりはありません。ママが冷蔵庫にいっぱいものが溢れていると安心するのと同じで,子どもも周りにものが溢れていると面白いのです。そんな時期をしばらく過ごすと,やがて逆のことを始めます。

 入れ物になるものを見つけると,手当たり次第に押し込もうとします。とても入らないと見えても,何とか入れ込もうとします。「入るわけがないでしょ」と言って聞かせても,止めません。ときには無理をするので壊してしまうこともあります。何がどうなるのか,やってみなければ分からないからです。

 石などを積み上げることがあります。何かを作ろうとする作業の芽生えです。小さな石の上に大きな石を載せようとすると,バランスを壊して倒れます。同じことを繰り返します。載るわけがありません。それでも,何とかしようと懲りずに石を乗せます。壊れないようにゆっくり載せてみようとします。今度は載るかな? 載せ方が拙かったかなと,もう一人の子どもが考えているからです。子どもなりにやり方をちゃんと変えているのです。

 大人が見たらできるはずのないことをやっているので,無駄なことに思えます。でも,もう一人の子どもはそれなりに何とかしようと工夫をしています。結果よりもその工夫をするプロセスを大事にしてやってください。それがたとえ見当はずれであっても,何とかしようと考えることが後になって大きな力になるからです。

 できなくていいのです。できないことがあると分かることも大事な体験です。それは宿題として残るからです。成長すればできるようになります。そのとき,宿題が解けたという成就感と同時に,自分の成長を実感することができます。体験といえば,できる体験と思いこまないようにしてください。できない体験の方が,育ちの上では意味があります。できないからできるようになりたいと,育ちの意欲を駆り立てるからです。

・・・もう一人の子どもは,自分の宿題を見つけながら育っていきます。・・・


 〇道具?

 子どもたちの遊びを眺めていると,買ってきたものに拠りすぎているようです。具体的な気がかりは,道具類を使わなくなっていることです。完成されたおもちゃや遊び方だけが主になるゲーム類が蔓延っています。ちょっと壊れたら,もう廃棄です。さらに型が旧くなったらあっさりと用無しという始末です。

 砂場で遊んでいる子どもにスコップやバケツを持たせると,作業らしいことをして遊びます。砂をすくい上げようとしますが,スコップを水平にしないのでこぼれ落ちます。何度かやっているうちに,コツを覚えます。なんとかバケツに砂を注ぎ込もうとするからです。

 スコップを裏返しに使うこともあるでしょう。どうすればいいのか知りませんが,偶然にうまくいくことがあります。できたと感じますが,なぜなのかはまだ分かりません。それでも,うまくいくことが分かれば,繰り返しの中で正しい使い方を身につけます。道具は手の代わりになることを学びます。

 暮らしの場にはいろんな道具があります。食器類もその一つです。はじめはスプーンを使い,やがてお箸を使います。箸で食物を挟むのはなかなか難しいですが,なんとかしようと一所懸命にやっています。ときには食べたいあまり,手で掴んでしまうこともあります。それでも,ママが使っているのを見ると,自分もやってみたいという気持ちは強く,諦めずに練習します。

 箸が使えれば鉛筆も使えます。フォークが使えればドライバが使えます。いろんな道具を使えば,手の機能はたくさんの作業をこなせるようになります。何かをしようとしたとき,それに相応しい道具を探せます。自分の手の可能性を信じられると,自分に対して自信が持てるし,たいていのことはなんとかなると前向きに受け止めることができるようになります。これが創造性へのスタートなのです。

・・・道具を使わせてやれば,子どもは能力の開発ができます。・・・


 〇ちょっとだけ?

 子どもがなんとかしようという振る舞いは,ときには親に向けられることがあります。欲しいものがあって親にねだるとき,「皆も持っている」という理屈を持ち出すことです。なんとか親を説得しようという手練手管です。「ちゃんと約束は守るから」といった一時しのぎの条件を提示してくることもあります。

 もちろん,あっさり一蹴されてしまいます。そこで,子どものご印籠である泣きが登場します。辺り憚らぬ捨て身の訴えはかなり強烈です。なんとかしようという気持ちが強いと思わされます。その訴えを聞き届けるかどうかは,ことと場合に拠りますが,無理な訴えは却下せざるを得ません。

 ところで,それほどのこだわりを学習にも向けてくれたらと,親はついつい思ってしまうものです。そうは問屋が卸さないみたいですね。でも,親としてはなんとかしないといけませんね。黙って引っ込んでいては親の沽券にかかわります。子どもになんとかしようという気持ちを持たせる工夫をしてみましょう。

 なんとかしようという気になるのは,できるかもしれないと思うときだけです。スモールステップという言葉があります。ちょっとだけよということです。とてつもないことはやる気など湧かず,諦めてしまうはずです。がんばりとはちょっとだけでいいのです。

 学習も同じです。今日はここまでできたらいいと,ちょっとだけ前進するようにします。それくらいならできそうという気持ちにさせれば,なんとかしようとがんばることができます。そのスモールステップを繰り返していけば,学びの道は向こうから近づいてくるものです。これは学習に限ったことではないということも心に留めておいてください。焦りこそがやる気を奪う元凶です。

・・・可能性を見極められるようになるまでは,親の導きが必要です。・・・



《なんとかするとは,自分の力を育てようという意欲の現れです。》

 ○赤ちゃんは,離れた所にあるおもちゃを取ろうとして,ハイハイしようとします。なんとかしたいという気持ちが育ちを促しています。やがて,なんとか立って歩こうとします。なんとか自分で食べようとします。なんとか自分で動かそうとします。それにつきあわされる親の方は大変ですけど。

 危険なことはもちろんさせられませんが,ちょっと転ぶくらいのことはぐっと我慢して見守っていてください。子どもの力に合ったステップを用意してやれば,子どもはしっかりと育ちの階段を上っていきます。子育てがきっと楽しくなります。


 【質問13-12:お子さんは,なんとかしようとしてはいませんか?】

   ●答は?・・・なるべく適えるようにしていますよね!

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