*** 子育ち12章 ***
 

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「第 13-13 章」


『育てたい 手にぬくもりを 持ってる子』


 ■つれづれ

 良薬は口に苦しといいます。ママが健康のためにと勧める緑黄色野菜は,子どもには悩みの種です。いいことをするのは勇気が要りますが,いけないことをするのは楽しいものです。もちろん,悪いことではありません。勉強のようないいこと,盛り場を徘徊するようないけないことです。ママと子どもの駆け引きがあります。

 子どもの好きにさせていたら,先行き心配です。しつけという嫌がられる無理強いは避けられません。追いかけ回して捕まえて,泣きわめいても心を鬼にして,そんな辛い思いをしなければならないこともあります。好き好んでしているのではありません。親も子も違った意味で苦い思いをしています。

 本能のままに流されていると放縦になります。放蕩息子という言葉がありますが,放任され放任されると,道を逸れるのが自然の流れです。だからこそ,目標を見定めて,懸命に進路を守っていかなければなりません。自分の中にある甘えをなんとか封じ込める力には,苦い良薬をぐいっと飲み込む思い切りが要ります。

 自分に勝つことができたら,人が信頼でき信頼されるようになります。子どもでも同じです。仲良くなれるには,自分の思いを上手に表現できなければなりません。思いの半分である下心は無くすことはできません。無くしてしまおうとするのは無謀です。下心を直にぶつけ合わないようにしさえすればいいでしょう。

 あなたのためにこれほど苦労している,その言葉は下心を相手に向けていることになります。下心はあくまでも陰に抑え込んでおいた方が無難です。自分の本心が人に知られてしまうとしたら,誰も人付き合いはできないだろうと実感できるはずです。その暗黙の了解はお互い様と抑え込んでおきましょう。いい子ぶっていて,当たり前なのです。苦い薬を飲むから,痛い目に遭わなくて済んでいるのですから。



【質問13-13:お子さんは,手で直に触ろうとしてはいませんか?】

 《「手で直に触る」という意味を理解しましょう!》


 〇《指針6−3》触覚!

 人には5感があります。視覚,聴覚,嗅覚,味覚,触覚です。この5感の中でもっとも大切な感覚はどれでしょう。視聴覚に障害のある方がおられますが,みんな立派に生きておられますね。嗅覚や味覚の利かない方もおられるはずですが,特別な状況を別として深刻な障害とはあまり耳にしません。

 人が生きていくのに,触覚は不可欠です。意外に思われるかもしれませんね。長い正座をして足が痺れたという経験はどなたもお持ちでしょう。酷いときは感覚を無くしますが,立ち上がることができません。立とうとすると惨めな転びが待っています。足の痺れは触覚を失うからです。

 もし触覚を失ったら,人は立てませんし,座ることもできません。寝たっきりになって寝返りさえもうてなくなります。もちろん,つかまることも支えることもできなくなります。身体を思い通りに動かすためには,触覚というセンサーが不可欠なのです。

 外界を見て,外音を聞いて,外臭を嗅いで,外物の味を検知するセンサーは,環境を認知するためであり,もう一人の自分の情報収集を担っています。基本的には,危険が迫っていないか,身を守るための警戒機能です。危険があれば逃げなければなりませんが,逃げるためには触覚による行動が可能でなければなりません。

 5感のうちの4感はもう一人の自分が必要とする情報を,残りの触覚は自分の行動のためになくてはならない機能ということになります。人が生きているという感覚が鈍くなって,あっさりと凶行に及ぶ若者が増えているのは,触覚の鍛え方が疎かになっていることにあります。触覚こそ生きることに直結しているからです。

・・・もう一人の子どもは,触覚を通して生きている自分を実感します。・・・


 〇ふれあい?

 ふれあいと入力すれば,触れ合いと変換されます。人は触れることでぬくもりを得ることができます。好きな人とは抱き合いたいものです。お互いの命が共鳴することを感じるからです。赤ちゃんはママの懐に抱かれて,安心という名の揺りかごに包まれます。励ますときは肩を抱き,手をしっかりと握ります。

 子どもをオンブしているお母さんの姿を見なくなりました。ダッコしている姿は見かけますが,何とも不自由な姿に見えます。至近距離で顔を見合うというのは,とても緊張するものです。試しにご夫婦で顔を見合わせていたら,5分と保たないはずです。乳母車に寝かせていますが,寂しさと不安に苛まれていることでしょう。

 子どもの元気がないときには,ママは額に手を当てて熱がないかを確かめます。痛いと言えば,患部に手を当ててやります。これが正真正銘の手当てです。古人には命の気を施す所作だったのでしょう。仲良しさんたちは自然に手をつなぎます。川の字になって真ん中でぶら下がっている子どもは,いい笑顔を見せてくれます。

 小さな擦り傷,ぶつけたときの打ち身,目にゴミが入った痛み,飲み過ぎ食べ過ぎの苦しみ,いろんな負の触覚があります。その記憶があるから,人は痛みという感覚を共有することができます。乗り物で長時間立っている辛さを知っている子どもでなければ,席を譲ることなど思いもつきません。

 かつては,子どもは乗り物では立っているものという社会的なしつけがありました。今は子どもを座らせないと虐げているかのような雰囲気です。でも,楽ばかりしている子どもは,優しさを知っていても,優しさを感じることはできません。身体を使いこなす触覚が退化しているからです。席を譲るのに勇気が要るといった戯言が出てくるのは,皮膚感覚を使っていないからです。子育てで何を失ってきたのか,知っておいてください。

・・・皮膚感覚を鍛えていないと,人としての感性が損なわれます。・・・


 〇手加減?

 仲間内の集団暴行や親による虐待,夫婦間のドメスティックバイオレンスや凶行などが目に余ります。どれにも共通することが,「手加減」をしていないということです。何もそこまでやらなくても,というのが一般の感想であるはずです。しかしながら,やっちまえという激情が歯止めを失っています。

 こと子どもに関しては,ゲームを筆頭としてバーチャルな世界への耽溺が要因として指摘されます。そこでは,仮想と現実という対比が語られます。では現実とは具体的にいえば,何なのでしょう。仮想とは頭で考え見聞きして感じること,現実とは身体で感じ身動きすることと言えます。仮想とは○○したつもりに過ぎず,身体は置いていかれています。

 現実とは実際に行動し結果を受け容れなくてはならない世界です。間違いをした後で,「するつもりはなかった」とか,「こうなるとは思わなかった」という言い訳が出てきますが,それは現実世界に生きていないということでしかありません。現実世界は結果に対する責任を粛々と受け容れる覚悟がなければ住めない世界です。

 ところで,行動が引き起こす結果を考えていてはものの役に立ちません。カッとなると思考力は封印されるからです。行動自体に歯止めを忍ばせておかなければなりません。例えば,人を叩けば手が痛いのです。だから,手加減をすることができます。ところが,棒や凶器や銃砲を介在するから,触覚が機能しなくなり,歯止めが働かなくなってしまいます。

 子どものケンカでは,昔は相手が泣いたらお終いだったのですが,今はその黄色信号があっさりと無視されます。泣かしてはダメ,仲良くしなさいという環境には,泣いたらそこで終わりという厳しいしつけがありません。手加減という手のしつけをしっかりとしておいてください。

・・・仮想と現実の違いは,現実には限度があるということです。・・・



《手で直に触るとは,生きている自分を確認することです。》

 ○畳の水練という言葉があります。水に触れなければ本当の技は身に付きません。職業上でも現場を肌で感じることは必要なことです。学歴という頭脳の経験は,畳の水練と同じになることが普通です。それを補うのが,身をもってする体験に他なりません。

 子どもの言うことを,大人は夢みたいなことと断じるときがあります。考えたことがそのまま実行できたら苦労はしません。考えることとできることとは一致していません。大事なことは,どこまでならできるかという境界です。自分の限界を,そして子どもの限界を見極めるためには,肌感覚を使うしかないのです。


 【質問13-13:お子さんは,手で直に触ろうとしてはいませんか?】

   ●答は?・・・なるべく適えるようにしていますよね!

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