*** 子育ち12章 ***
 

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「第 14-04 章」


『育てよう 陰や日向が 要らない子』


 ■徒然子育て想■
『秘伝10ルート(x)の衰退?』

 かつて大学教官になった当時,もちろん授業を担当しますが,真っ先に迷ったのが採点の報告でした。授業内容については,学生時代に受講した講義ノートやいくつかの教科書を参照しながら,オリジナルなカリキュラムを組み上げれば済みました。聴講するときはいい加減で済みましたが,教える立場になると全てのことが分かっていないと説明できないということを思い知りました。人に教えることができるようになったとき,学びが自分のものになるという体験でした。

 もっとも,時間配分は実際に授業をしてみながら修正していかなければなりませんでした。当時は110分講義でしたので,その時間内に一つのテーマが講義し終えるように小項目を取捨選択する工夫が必要でした。途中で,カリキュラムの改正,つまり長時間の講義に学生さんがついてこれなくなったので,90分授業に短縮されて,内容もかなり削減せざるを得なくなりました。小中学校の内容削減以前から,大学ではすでに精選?の名の下で割愛がなされていたのです。

 講義が終わると,期末試験をしなければなりません。教えた内容から問題をつくるので解けるはずという思いです。入試のような競争試験ではなくて,講義を受けた成果が在るかどうかの確認のための問題です。正規分布などは必要ありません。全員百点でもいいのです。ところが,実際はとても期待通りにはいきません。さんざんの成績が突きつけられます。採点した結果は,半分以上が不合格という状況です。

 先輩の教官たちも同じ状況にあったらしく,採点の結果を報告するときに手直しをしていました。それが秘伝10ルート(x)という算定式です。テキストメールでは数学記号が使えないので分かりにくい標記ですが,例を挙げて説明しておきます。採点結果のx=36点を平方根に開くと6点になりますが,それに10を乗じて,60点として報告するのです。採点が49点なら報告は70点,採点が64点なら80点と報告するということです。100点は100点になります。こうして,採点結果を高得点に持ち上げるのです。

 試験で36点取れば60点と報告されるのでぎりぎり合格となるという仕掛けです。64点取れば優の評価になります。考えればいい加減かもしれませんが,問題の質が高めに設定されているということから生じる方便でした。今では教官の胸に秘められたこの手管は消えています。学校の外部評価という動きがありますが,そこでは採点された答案の実物が審査の対象項目の一つになるために,36点で合格であるとは外部に曝すことができなくなってしまったからです。

 不正採点と思われたかもしれません。外部評価によって是正されてよかったのでしょう。しかし,学生さんの力量に会わせた問題作成に,つまり60点以上取れるように易しくなっていくことが,本当にいいことでしょうか? 大学のレベルがあります。もちろん格差ということではなくて,大学レベルの学力というものが低下せざるを得なくなっているのです。それなりに難しい試験,その高い目標が学生さんの目から消えたとき,本当の学力低下が訪れるような気がします。



【質問14-04:お子さんは,にぎやかですか,おとなしいですか?】


 ○にぎやかな子!

 にぎやかな子どもはときには騒がしいと感じます。不作法に騒ぐ子どもは,単にしつけがなっていないということです。子どもが無邪気にはしゃいでいる姿はほのぼのとしたものですが,だからといって時と所を弁えなくてよいということにはなりません。交通機関や施設などの公共の場所,改まった時などは,おとなしくしていなければなりません。幼い子どもは弁えるという自己統制ができません。それを野放しにする保護監督者に責任があります。子どもは分からないのだからという許しは,他人の側がすることであって,親子の側がそれを持ちだしたらわがままになります。

 まちの文化祭行事の一環として開催された落語家による講演の席のことです。前の席にケラケラとよく笑う子どもが座っていました。噺家がしゃべるとよく反応し,それがまた聴衆に受けて笑いを取っていました。噺家も相手にしながら話を進めていきましたが,しばらくすると,いわゆる大人の笑いの部分でもその子は笑っています。分かるのかなという思いがみんなに芽生えてきて,それもまた笑いの種になりました。やがて,その子の笑い声が笑う話でないところでも出ていることに気づくようになりました。噺家の一言ごとに笑っているだけなのです。聴衆の許しは限度を越えてきて,ついには噺家がその子に会場を出るように詰め寄りました。やっと母親が連れて出ていきました。

 座持ちのよい子どもがいます。その子がいるとその場が明るくなるのです。ひょうきんな子,面白い子,楽しませてくれる子,いろんな言い方ができますが,活発な表現のできる子どもです。友だちの間では人気があるでしょう。人を引きつける魅力があるからです。それは言葉や行動によるエンタテイメントを提供してもらえるからです。にぎやかな子どもにすれば,皆に認められるという見返りがあります。子どもにもある見られたい欲求が満たされます。

 今時の子どもは,居場所が少なくなっています。極端にいえば,園や学校という同じ年齢層集団しかありません。そこにいてもいいんだよというお墨付きが与えられなければ,居心地のいいものではありません。にぎやかにしていれば,友だちとのつながりができます。人が寄ってくれば,その中にいることができます。こうして自分の居場所を懸命に作ろうとしています。

 大人でもそうでしょうが,にぎやかにしているのは結構辛いところもあります。人の目を引きつけようとするときに,最も怖いものは飽きられるということです。潮が引くように人が離れていくと,そのギャップは大きな寂しさ,お呼びでないという白けた仕打ちに曝されます。居場所を失ったという恐怖感さえ味わうようになります。それが怖いから,にぎやかさは次第にエスカレートしていきます。例えば,先生がいけないと禁止していることにまで踏み込まざるを得なくなる場合もあります。

 にぎやかな子どもが時としてお調子者に転身するのは,それなりの言うに言われぬわけがあります。子どもがちょっと羽目を外したとき,おもしろいといって囃し立てることがあるでしょう。皆が喜ぶことは良いことだという錯覚に陥り,調子に乗りすぎます。「いい加減にしなさい」という水を浴びせられることになります。子どもにすれば,最初はあんなに喜んでいたのにと,わけが分からなくなることでしょう。気をつけてくださいね。

・・・にぎやかな子は,わがままか,寂しがり屋であることがあります。・・・


 ○おとなしい子?

 きちんとした場所に母子連れで出かけて,おとなしくしている良い子がいます。走り回っている騒がしい子をちらっと見ながら,ママを見上げます。ママはいけませんという目でかすかに首を横に振ります。あの子はいいのにどうしていけないの,そう言いたげです。子どもにとっておとなしくしていることはかなりの我慢です。その頑張りをきちんと認めてやってください。騒ぐ子は注意という構われ方をされますが,おとなしい子は当たり前として放置されます。懸命におとなしくしているのに,つまんないですね。

 お子さんは30分間程度じっと座っていることができていますか。園の送迎バスでは,おとなしく座っていないと危険です。入学式の時に様子を見ていると,隣の子どもと突きあったり,足をバタバタと動かしたりして,おとなしく座っていることのできない子どもが増えてきました。子どもが「おとなしくしていなさい」と言われるときは,そのほとんどがじっとしていることですね。同じ態勢を保つことができることです。もちろん気をつけ状態というわけではありませんが。

 おとなしくさせるしつけは,普段からゆっくりと進めてください。15分間,30分間,45分間と延ばしていくようにします。そのとき,はじめはママもつきあってください。ママがウロウロしていながら,子どもにだけじっとしていなさいでは無理です。ママと一緒に過ごせるというご褒美があると,子どもはしつけと感じずに受け容れやすくなるでしょう。もちろん,何もせずに顔を見合わせているわけにはいきませんので,本を読み聞かせるとか,歌を歌うとか,お絵かきをするとか,おとなしくすることのできる手だても講じます。

 忙しいママは,子どもが家の中でチョロチョロされるとうるさいので,ついテレビを見せて釘付け状態にしておくことがあるかもしれません。確かにその効果はあるでしょうが,知能のしつけという面ではマイナスです。テレビとの関わりはとても冷淡なものだからです。ちょっと意外なことのように感じられるかもしれませんが,テレビは自分勝手に動いています。子どもが反応しようとしても,一切受け付けてくれません。テレビを視聴するというのは,とても寂しいことなのです。

 子どもは自己防衛として,傍観者に徹しようとします。もちろん雑多な知識は吸い込まれていきますが,関わりは断つのです。視聴時間の長い子は,親と視線を合わせなくなったり,発達上に現れるはずの指さし行動をしなくなるという指摘が最近ありました。育ちとは環境との関わりを通して可能になるのに,関わりをしなくなったらと思うと怖いですね。おとなしくしているように見えて,実は関わりを持てなくなってきたようです。

 人付き合いができなくて,仕方なくおとなしくしている子もいます。つきあいとは関わり合いですから,豊かな関わり体験がなくては身に付きません。親だけではなくて,近所の子どもや大人とのさまざまな関わりを持たせれば,自然に慣れていくものです。特によその大人と心を開いた関わりをしておくと,園や学校の先生という大人との内容のある関わりが苦にならなくなります。先生の言葉を素直に受け止められたら,お勉強は必ずものになります。

・・・おとなしい子は,冷めていないかよく見極めることです。・・・



《にぎやかか,おとなしいかは,舞台裏はそんなに単純ではないのです。》

 ○見たままの人はいません。大人であればある程度は装うということもお互いに勘定に入れています。子どもは純真で素直のはずですから,見たまんまだと大人は思います。確かに幼児では意識して見た目を装うということはしませんが,もう一人の子どもが目覚めてくると,自己保身機能が現れてきて,見た目を装うことができるようになります。うちの子に限って,という言葉が現実のものになります。

 日頃おとなしい子がどうして,という意外な面を現すことがあります。あんなににぎやかな子がどうして,と悲しい局面もあります。見た目の子どもではなくて,もう一人の子どもをじっくりと見ておく必要があります。どうすればいいのでしょう。子どものそばにいるときは,指図などは止めて,寄り添うつもりでたっぷりと安心感を与えることです。子どもはきっと裸の自分を投げかけてくれます。いい子かどうかは後回しにして,先ずはしっかりと受け止めてやってください。

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