*** 子育ち12章 ***
 

Welcome to Bear's Home-Page
「第 14-06 章」


『育てよう 友と仲良く 遊べる子』


 ■徒然子育て想■
『小テストに頼らねば?』

 テストと聞くと,頭が痛くなるかもしれません。受ける方もそうですが,する方もかなりしんどいものです。問題を作って採点して,後のフォローをしてという一連の作業があります。テストは普通には期末に成績を出すために行われるものと考えられています。先生が子どもたちのランク付けをするためのものではありません。理解しているかどうかを,子ども自身に突きつけるためなのです。自分はここが分かっていなかった,その発見をするための試験です。試験という字は,試しに験すると書きます。

 学びとは主体的なものであり,学ぼうという意欲がなければ学びは成立しません。ところで,今の子どもたちは,教えてもらおうという受け身の態勢に育てられ,それも中途半端なので,教えることも難しくなってきました。聞く耳が幼稚なので,教えの言葉が無駄に通り過ぎていくのです。授業中の頭の中では,先生の言葉は雑音にしかなっていません。自分だけの思考空間に閉じこもっています。

 次の時間は小テストをする。そう宣言すると,子どもたちははっとなって,耳を開きます。何のテスト? どこが出るの? 何を覚えておけばいいの? といった学びの姿勢になります。学力論議の中で,入学試験に出ない科目や範囲は学ばれていないという指摘がありますが,普段の授業でも同じなのです。試験に出るから勉強するという後ろ向きな対応がすっかり蔓延しています。学力低下というより,学力崩壊です。

 教える方としては,手段を選んではいられません。汚い手を使っても勉強させなければ,子どものためになりません。小テストという子どもには意地悪に見える手を使わざるを得ません。テストがあるから勉強する,そこにつけ込むしかないのです。テストをすると,当然にできない部分も出てきます。自分の弱点が突きつけられます。その気づきが生かされればいいのですが,試験が終わればみんな忘れてしまうという始末です。そこで,小テストを繰り返します。本来は一回の試験だけで,後は家庭で自分で復習をすべきことなのですが,さらなる小テストによる復習の強制が必要になります。余計な手間暇が掛かって先に進めなくなります。

 嫌なテストの繰り返しを招き,授業の進行を遅らせて,結局の所,子どもたちの学びの姿勢ができていないツケは,子どもに返っていきます。学びの姿勢が育っていれば,学校は学びの場として十分に機能し,ゆとりも出てくるはずです。ゆとりとは,よく学ぶから得られるものなのです。よく学び,よく遊び,それが昔から言われてきた言葉ですが,生かされていないのです。

 学びの姿勢,それは単純に言えば,聞く姿勢です。先生の言葉を真剣に聞き取ることです。言葉がつなぎ合わされた文章を理解し,順序よく頭に納めていき,意味を掴んでいく一連の流れです。「リンゴが5個あります」という先生の言葉を聞いて,素直に頭の中に「かごに入った5個のリンゴ」というイメージを描ければいいのです。ボクはリンゴよりミカンがいいなどと余計なことを考えるから,話について行けなくなります。話を聞いてついていく力,学びにとって最も大事な力です。



【質問14-06:お子さんは,引っ張る方ですか,ついていく方ですか?】


 ○引っ張る子!

 働きアリの世界を観察して,その働きぶりの評価をすると,2割がよく働き,6割はウロウロするだけ,2割はさぼっているそうです。集団になると人間も同じのようで,幼稚園児について試した映像を見たことがあります。おもちゃの片づけをみんなでしようという場面で,真面目に片づけをする子は2割,6割の子は持ち歩くだけ,2割の子はおもちゃで遊びだしていました。

 きちんと片づけができて集団を引っ張っていく子は,片づけという目的を成し遂げようという確かな気持ちを持続し,何をどうすればいいのかを弁えています。片づけるつもりでおもちゃを手にしても,片づけた状態を明確にイメージしようとしないと,目標を持てずにウロウロするだけです。親や先生からいつも「ここに入れなさい」といって指示されることに慣れていると,こうなります。

 しつけは確かに「○○しなさい」という指示の形を取ります。始めに教えることは必要ですが,そこで止まっていてはいつまでも身に付きません。大人は早く終わらせようという自分の気持ちを持ち込んで,しつけを中途半端にすることがあります。しつけの仕上げ,詰めを欠いてしまうのです。させてみる,任せてみるというプロセスを与えなければなりません。「どうすればよかったかな」と自分で考える機会を持たせるようにします。その自前の経験が定着作用になります。

 引っ張っていける子は,遊びでも作業でも仕上げまでの道筋を把握できています。そのこと自体の経験がなくても,似た経験をしているとおよその見当がつけられるので,やってみようという気が出てきます。どんなことでも元になることをちゃんとできているという自信が必要です。何をやっても中途半端ということがありますね。それは何か一つでもやり遂げる経験を持ち合わせていないからです。片づけができたら「できたね」とほめてやり,やり遂げたことを確認してやることです。

 叱られて育つ子とほめられて育つ子の違いは,ついていく子と引っ張っていく子の違いに重なります。叱られてする子は,仕上げても当たり前で,仕上げたという自分の感覚を持つことができません。次もまた,叱られないとしないでしょう。ほめられた子は,仕上げたことがよいことだと感受し,快感が伴います。してよかったと思うことができるので,またしようと次への意欲につながります。ほめることが次のステップへの育ちを促すことになるのです。

 家庭では,やりっ放しで甘えていられます。それでも,自分のことは自分でというしつけ,服を着る,靴を履く,学習用具を揃えるなどはできるように育てられているでしょう。その上で,自分にも関わる家庭のことにも参画させる必要があります。家庭は集団生活の出発点になるからです。家で普段やっていると,場所が変わってもできるようになります。ちょっとだけ周りに向けて手を広げることができる,それが人を自然に巻き込んでいく力になります。

・・・引っ張る子は,やり抜いた経験を確信している子です。・・・


 ○ついていく子?

 兄弟で遊んでいると,お兄ちゃんが弟を引っ張っていきますね。それが自然です。弟はお兄ちゃんを追いかけてついていきます。お兄ちゃんにすれば足手まといになることもあります。だまして置いてけぼりにすることもあったりして,弟はすねて泣き出します。でもそれも外遊びの場合であって,家にいるときは仲良くケンカしています。やがて兄弟という絆をベースにして,弟のために兄は我慢し,兄のために弟は遠慮し,兄弟の世界を作る楽しさを覚えていきます。

 子どものための集団活動では,リーダー役が必要になります。地域では,中学生は部活を理由にほとんど参加しません。どうしても小学生高学年がリーダーにならされます。大人の指導者による子どもの組織作りがかなりいい加減になっています。単なる人数割りのやり方です。リーダー研修などを受けて,きちんとした組織作りをしようとしないので,後で子どもたちから嫌がられることになります。

 子どもがリーダーとして掌握できる人数には限度があります。小学生なら最大5人程度でしょう。学校でのリーダー役はクラス全員を掌握していると思われるかもしれませんが,それは先生が背後に控えていますし,学校は集団活動をする場という暗黙の了解を子どもたちがしているからです。クラブ活動も同じです。ところが,お楽しみ活動や遊びに近い場では,子どもたちをまとめる確かな条件が見あたりません。年上の子の魅力や迫力などに頼らなくてはなりません。

 集団活動をする上で最も大事なポイントは何だと思われますか? リーダーの統率力でしょうか? それもありますが,もっと大事なことがあります。それはメンバーがついていくという意志を持つことです。リーダーに従わされるのではなくて,リーダーについていこうという気持ちです。どうして自分がしなければならないのか,どうしてあいつの言うことを聞かなければならないのか,という個人的な気持ちを押し出すようではメンバー失格なのです。

 集団活動が成り立つのは,メンバーが結束することです。たとえば,チームのために行動しようという気持ちになれることです。しぶしぶという思いがあれば,その役割活動は中途半端に終わります。すればいいんでしょう,と開き直ったら,チームはひび割れていきます。ついていくというと,消極的な行動だと感じておられるかもしれませんが,集団活動においては,チームワークという積極的な価値を持っているのです。

 子ども集団では,この自らついていこうとする気持ちが弱いので,リーダーが動かせる人数は兄弟の人数程度になってしまいます。5人程度と言っておきましたが,これは昔の兄弟の数です。今では少子化で兄弟も少なくなっているので,リーダー役のお兄ちゃんも,メンバー役の弟も育っていません。今の子どもたちが集団遊びをしなくなった理由は,そこにあります。学校での集団はクラス規模ですから,ほとんど集団としての経験にはなりません。学校でも地域でも,小さな疑似兄弟関係をつくる工夫をしないと,事態は改善できません。

・・・ついていく子は,集団活動を成り立たせる要です。・・・



《引っ張るか,ついていくかは,どちらも共同行為の基本パターンです。》

 ○子どもは3人いないといけないと語っていた首相がいました。2人だと父親の膝に片方ずつ座る場所がありますが,3人だと1人ははみ出します。膝取り競争があるのですが,そこには勝敗がついてきて,勝ったものと負けたものが出ます。駆け引きもありますが,同時にどちらの立場も体験します。負けた寂しさを知っているから,交代しようという譲り合いが生まれてきます。親に言われてする譲りではないという意味で本物です。

 子どもは子ども集団の中で育つもの,と思われていることは間違ってはいません。しかし,現実は子ども集団になっていません。園でも学校でも,同じ年齢の子どもで括られているからです。そこでは,引っ張っていく子とついていく子が現れないからです。お兄ちゃんと弟の関係が集団としての基本であるのに,今はどこにもありません。社会性に弱い子が育って当たり前の状況であるということに,早く気づいてほしいと願っています。

「子育ち12章」:インデックスに進みます
「子育ち12章」:第14-05章に戻ります
「子育ち12章」:第14-07章に進みます