*** 子育ち12章 ***
 

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「第 14-07 章」


『育てよう 手堅く順を 重ねる子』


 ■徒然子育て想■
『学びの意味とは?』

 卒論で指導した学生が就職して,その年かあるいは翌年の夏休み前に訪ねてきます。研究室にいる後輩に対する就職勧誘の役目を背負っています。就職前の不安や関心をまだ生々しく覚えているから,後輩の気持ちに添った我が社の説明をしてくれるという会社側の思惑です。また,同じ研究室出身の先輩が待っているということも,就職先選択のポイントになるようです。

 巣立っていった学生と話していると,現場でやっている仕事はほとんど卒論とは関係のない分野です。文科と理科という枠を越えるようなことはありませんが,専門ということで見ると,初めての分野に配属され一からやり直しているようです。大学で学んだ知識は会社では使われることがないという感想が一般的です。こんなことを話すと,大学では実社会に必要な知識を教えていないみたいに聞こえるかもしれません。昔流の象牙の塔というイメージで,何を教えているのか分からない所と思われそうです。

 今の子どもたちには,勉強の目的が分からないという声が溢れています。学校に行って勉強して,いったい何の役に立つのか? 特にやり玉に挙がるのが算数・数学で,実生活では足し算引き算かけ算ぐらいで十分,分数の計算など学校以外でしたことがない,因数分解や二次方程式などは,そういえばそんなものがあったという遠い記憶になっています。親が普段使ってもいない知識を,子どもはどうして勉強しなければいけないのか分かりません。子どもの疑問に親は自信を持って答えられません。唯一言っていることは,試験の成績であり,卒業するためです。試験のために勉強しているということです。

 学校の先生は,こんなことを言い含めようとするでしょう。子どもたちの将来は多様です。一人の子どもが将来必要とする知識は決められません。どんな職業についても困らないように,一応のことは万遍なく勉強していないといけないということです。勉強をしないと,結局は自分の将来を狭めてしまうことになるという心配を持ち出します。ところが,若い人たちは専門的職業を忌避し,アルバイト的な簡単な仕事でも暮らしていけるという世相を感じています。勉強をする意味が見えにくくなっています。自分のことは自分でという育ちをしてきて,自分の遊ぶ金だけ稼げば,暮らしの方は親がかりでなんとかなっているという豊かさの中にいるからです。

 仕事に必要な知識は専門学校に行かなければ得られません。普通科の学校は目的が曖昧です。なんとなく将来に備えるといった目標しか設定できません。そこでの学びでは,知識を得ることは二の次になります。大部分の教える知識が無駄になることを前提にしているからです。必要な知識は必要になったときに学ぶしかありません。その上で,なぜ勉強するのかという理由を考えなければならないのです。もちろん,読み書き計算という基本的な力をつけることに意味があることは了解できるはずです。それ以上になぜ学ばなければならないのかということです。大学で学んだことは使われないという矛盾はどうしてくれるという問題です。

 以前にも書いておいたことですが,勉強という作業は道路工事と同じだということです。道路を敷設するためにはいろんな機械器具と材料を使います。完成したらきれいに取り払って道路だけが残されます。道路には何もありません。しかし,そこに道路が通じているから,その後はいろんなものが流通できます。そのときに道路工事をした機械などはすっかり忘れ去られています。勉強という作業によって,頭の中に神経通路が張り巡らされたことになります。作業に使った知識は忘れられ使われることはなくても,通路がしっかり残されています。それが考える力,学ぶ力そのものなのです。勉強することで頭の配線ができるから,頭を使うことができるのです。



【質問14-07:お子さんは,行動派ですか,それとも慎重派ですか?】


 ○行動的な子!

 子どもは何も考えずに突っ走ります。危なくって見ていられません。怖いもの知らずです。だからこそ,保護者として見守る必要があります。ところで,現実問題として,子どもを完全に保護しきれるものではありません。たまには,ちょっと目を離したすきに痛い目に遭います。怪我をすることもあります。不可抗力という出来事がそこら中に種を仕掛けています。自然の中で遊んでいるときには不可抗力という概念を持つことができますが,人工的環境では必ず責任論が浮上してきます。子どもが怪我をしたのは,○○のせいであるというわけです。責任を逃れるために,安全性が極端に追求されて,子どもは危険ということを学べなくなっています。

 子どもの世界で起こる小さな危険さえも取り去ってしまったために,危険というものを体験できません。危険を知らないままでは,無茶な行動に走り続けることになるので,結果は取り返しがつかないことになります。擦り傷や切り傷のないままに育った子どものひ弱さは,暴力の温床になります。人が生きていることさえ気がつかない場合もあります。リスク感覚を育てていないと,いざというときに手遅れになります。

 何でもやってみようとする行動優先は,育ちの基本的なパターンです。自分の持っている能力を発揮しようということですから,たとえ上手ではなくてもやらせておけばいいのです。やり損なっても,それもまた育ちの大切な因子であると考えてください。とにかく行動しなければ始まらないということです。大人でも,走りながら考えるということをします。何か不都合なことに出会ったら,そのときにやり方を変えながら考えることができます。

 子どもはかなりの部分,習うより慣れるという育ち方をします。考えるために必要な知識は持ち合わせていないので,わけは分からないがこうしたらうまくいったという経験だけを積み重ねていきます。大人が性急に「こうだからこうなる」と説明してみても,大概は分かってくれないものです。体験的に行動を覚えていくことが最も早道です。言葉を話すためには最初から文法を必要としないのと同じです。理屈は後でいいのです。

 行動的な子は効率的な思考ができるようになります。例えば積み木遊びでも,あれこれ積んでみることで,たくさんの失敗の中からうまくいく場合を見つけ出します。どう積めばいいのかを考えるためには重心という概念を理解しなければなりませんが,子どもには無理です。取りあえずは,真ん中にまっすぐにというパターンを見つければいいのです。うまくいく形さえ覚えれば,十分です。

 同時にもう一つの大事な経験をします。はじめはうまくいかないことばかりでも,あれこれやっているとうまくいく場合が見つかるということを知ります。積み木が上手に積み上がっても,それをすぐに壊してもう一度やり直そうとします。うまく積めることの発見が楽しいのです。可能性を探るという点で,たいへん知的な遊びをしているということです。積み上がるという結果だけにこだわった手出しはしないでくださいね。難しく見えてもなんとかなるという体験こそが根気の元なのです。

・・・行動することが,能力の発揮であり経験という学びになります。・・・


 ○慎重な子?

 きょうだいがいると,上の子は慎重で下の子は行動的になる場合が多いようです。それなりの理由があります。上の子はあれこれ行動を起こしますが,あらゆることが初体験ですので,ちょっぴりおっかなびっくりです。親の方も心配で止めさせたり注意したりします。そのために,どちらかというと慎重になっていきます。ところが,下の子は見習う手本がいるので真似をすればいいし,親は親で上の子で経験済みですから多少は余裕を持って見ています。どうしても下の子はぱっと行動しているように見えてしまいます。

 ところで,行動的な子どもはとっかかりは早いのですがすればいいという雑な面があり,慎重な子は手をつけるのは遅いですが,きちんとやり遂げるという細やかさがあります。ことは簡単には割り切れません。こんな時,足して二で割ればいいのにということがありますが,それはさっと取りかかってきちんとすることばかりとはいきません。ぐずぐずしていい加減ということもあり得ます。何はさておき,慎重な子には良さがあると認めてやることです。

 子どもを見ているとき,慎重な子よりも行動的な子の方が目立つものです。親はよく見える子には安心しますが,そうでないと少し心配になります。何がということではなくて,このままで大丈夫なのかという漠然としたものです。そこでついつい尻を叩くというところに向かいますが,その働きかけは見当はずれなだけに効果はありません。はじめはゆっくりでいいのです。今日の子どもはいつまでも同じままではありません。長い道のりですから,息切れしないように自分のペースを守っていくしかありません。

 一つひとつの手順を階段を上るように辿っていくと,どうしても慎重になります。バタバタと元気よく階段を駆け上ることはしなくても,着実に歩んでいきます。ウサギとカメのレースではありませんが,確実な行動は地味なものです。慎重であるとは,そういうことでもあります。さっさとできないという物差しだけを子どもに向けると,「ママ違うんだけど」と言われますよ。きっとそのうちさっさとできるように慣れていきます。

 とはいえ,心配な面も残ります。慎重のあまりに,フリーズしてしまうことです。臆病になると,育ちがスローダウンし時機を失してしまうことがあります。きちんとしようという気持ちが強いと,どうしても二の足を踏むことになります。はじめからちゃんとすることは不可能であり,やっていきながら少しずつちゃんとすることを覚えていくものです。スーパーマーケットにお使いに行くとき,買うモノがどこの陳列棚にあるか分からないままでは行こうとしないなら,慎重というより臆病です。慎重とは買うモノをメモした紙を持っていくということです。それ以上のことはお店に行って探してまわればいいと思い切れることが必要です。

 その場そのときに対応すればいいこと,その場でしか対応できないことまでを,事前にきちんとしておかなければという思いこみが,慎重さを臆病に押しやります。もちろん失敗したらという恐れがあればなおさらです。大丈夫という励ましをいっぱい与えてやらなければなりません。あなたならちゃんとできる,がんばった上での失敗ならいくらでもしていい,そんな親の見守りが子どもには頼りです。

・・・慎重であることは,目立たないだけに親の対応は要注意です。・・・



《行動派か,慎重派かは,それぞれに持ち味のある大事な育ちです。》

 ○どんな子どもになってほしいですか? 親の願いは名付けの際に誕生します。子どもの名前は親の願いが込められています。ところで,アンケートなどでは,優しく思いやりのある子になってほしいという答えが多くなります。勉強ができる子といった項目は意外と低い割合になります。いろんな資質の中から選ぶ場合には心の美しさが上位にいきますが,目の前の子どもだけを見ていると,そんな願いは吹き飛んで,能力競争に駆り立ててしまいます。

 その能力にしても,本当はいろんなものがあります。ところが,それはTPOで変わります。忙しく慌ただしいときは,行動的である方が望まれます。慎重にしていると間に合わないので,急かされることになります。じっくりと取り組む場合には,慎重である方がベターです。どちらも必要な資質であり,優劣はありません。もしどちらかを優先することに片寄るときは,環境が片寄っていることを意識しておかなければなりません。バタバタしている暮らしでは,慎重さは否定されていきます。

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