*** 子育ち12章 ***
 

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「第 14-08 章」


『育てよう 人の難儀を 助ける子』


 ■徒然子育て想■
『教科書は?』

 教科書の使い方と成績にはある程度の相関があります。学年終わりまできれいなままであれば,成績は白紙に近くなります。教科書に学びの記録があれば,それなりの実績が残ります。学びの記録とは,欄外や行間に書き込みとして残されています。もちろん,手遊びの落書きでは意味はありません。キャラクターがびっしり書きこまれているようなら,学年はじめで学びの足は止まっているはずです。学校に行く意義は半減されています。勉強が分からないという子の教科書は,ページを開いた形跡が見当たりません。

 大学ではかつて,教科書は使われていませんでした。ほとんどがノート講義で,教授が板書した文字を書き写すという形式でした。コピーという機能もなかったので,手書きするしかしようがありません。ノートを取るのに追われて,内容を味わう余裕などありません。当然,わけも分からず書いていくので,後でノートを整理する必要があります。書き損じや間に合わなくて写せなかった空白行を埋めなければなりませんが,そのためには順を追って理解していくという復習作業をせざるを得ません。手で学ぶという基本的なパターンがフル稼働していました。

 やがて,教科書を求める要望と教官による執筆意欲が重なり,教材はかなり充実してきました。ところで,教科書というものを書く側からみると,読む生徒や学生のレベルを想定しなければなりません。大学生用なら,高校レベルの知識と学力を前提として,途中から記述されるということになります。もう一つは教科書の目的をどこにおくかということです。どの知識まで誘導するかという到達点です。学期という時間制限の中で,内容記述は途中で打ち切られることになります。この点が教科書を使って教える側に降りかかってきます。教科書に書かれていない部分が授業の話になります。

 小・中学校の教科書では,例えば1年生用と3年生用で説明する内容の段階と難易度が異なってきます。教科書はあくまでも初歩から書くのが基本ですが,全てを書くわけにはいきません。そこで,学びの学年に合わせて切り取られていきます。教科書は全てひとつながりと考えておかなければなりません。学年毎に分冊されている,義務教育期間を通じて9分冊で一つの教科書と見なされるものです。ですから,中学生になったから小学生の教科書は不要ということにはならないのです。

 教科書は読み込むものです。さっと読んでだいたい分かった,そのままで先に進めば,後で必ず見過ごした部分の続きが大きな壁になります。一つ曲がり角を間違えただけでとんでもないところに行き着いてしまうことに似ています。当の本人には見逃したこと自体を分かっていないから困ります。1年生の時は90点,2年生でがんばって81点,このペースが続けば,中学卒業時は39点と下がっていきます。2年生時に1年生時にし残した10点を取り返しておくという学びをしていけば,90点ペースを保持できます。教科書は前の所を全て分かっているものとして書かれていることを,知っておいてください。

 子どもたちは教科書をバカにしているところがあります。勉強とは問題集を解くことであると,考え違いをしています。教科書を理解しないままに問題を解いても,力にはなりません。解けない問題が出てきたら,教科書に戻ります。理解し残した部分,あるいは教科書から一歩だけ踏み出した部分をさかのぼることで,教科書に沿った理解の整理ができます。知識は整理されてこそ,使えるものになります。教科書は学習の台紙であると考えておくことです。



【質問14-08:お子さんは,引き受けますか,押し付けますか?】


 ○引き受ける子!

 引き受ける,押し付けると言えば,いわゆるしなければならない用事,自分のことではない仕事に対する態度です。家族みんなのこと,クラスみんなのことです。堅苦しく言えば,公共に関わる姿勢です。大人も子どもも,今最も弱くなっている心構えです。たとえば,駅前の不法駐輪は歴然とした証拠です。いっぱしの社会人のつもりかもしれませんが,その稚拙な振る舞いは成人式で騒ぐ幼い二十歳と同類です。自分だけではない,みんながしているから,という押し付け理屈に屈していて,大人の決断をする勇気もありません。

 電車内の通路をパンのものらしい袋が風に乗って漂っています。壁を背にした長いすに座っている乗客の目にも触れているはずですが,みんな無視しています。一人の若い女性が降りる途中ですっと拾って出ていきました。ホームのゴミ箱に捨てて,静かに去っていきます。黙って袋を見ていた人は,気になっていたことが解消された安堵感をかすかに感じています。同時に,取り残された思いも味わっています。しなくてもよいこと,でもしたほうがよいこと,それを引き受けられる方が豊かです。

 教室に落ちているゴミをすんなりと片づける子どもを育てたいものですが,たったそれほどのことでさえ難しいようです。家庭で普段から皆がそうしていれば,子どもも自然に身に付くのでしょうが,掃除はママの仕事と思い込んでいれば無理です。拾いなさいと指示してみると,どうしてボクがとか,私が散らかしたんじゃないものという口答えが返ってきます。そんなことはどうでもいいから,拾いなさい。たまには,問答無用と強いることも必要でしょう。

 ところで,した方がよいことを引き受けた子を,別の子が足を引っ張る場合がかなりあります。古いですが,いい子ぶりっ子を忌避する風潮です。そのような行為はきわめて卑怯なので,しないようにきちんとしつけなければなりません。妬みや嫉みに発する言動は,お互いに傷つくだけです。大人でも,皆のために役割を引き受けてくれている人に,物好きだからとか,裏で何かしているのでは,といった陰口めいた声を言いふらす方がおられます。人の好意を邪魔する奴は馬に・・・。

 公共に奉仕するという大層なことではなくて,できることであるなら引き受けるということさえできれば,人生という道は広々と開けてきます。一見損するように思われますが,損をしないと得はやってこないようになっています。その損も,人に喜ばれるものでなければなりません。本物の損得勘定をしっかりと子どものときから教えておくことです。基本をまず身につけておかないと,大人になってから大損するようになります。それは金銭的にも,人間関係においても,生き方についても降りかかってくるはずです。

 人の嫌がることをしなさいという教えが,建前ではなくて本音で子どもに伝えられているでしょうか? ただし,気をつけないと,人の嫌がることをして嫌われることになります。もちろん,人が嫌がってしないことを引き受けるということですよね。それはちょっとしたことでいいのです。そんな優しさや思いやりを引き出す呪文の言葉は,ドウゾの一言です。ドウゾが言えたら,それだけで「できた人」になれます。

・・・人の喜ぶことを引き受けたいと思える子どもに育てたいですね。・・・


 ○押し付ける子?

 子どもたちは家事の分担をしなくなってきました。学校や会社の疲れを理由に,家のことをママに押し付けて,家族をやっているつもりです。あるときは妻であり,あるときは母であり,主婦でもあり,たまには娘であり,昼間は職業人であり,そして一人の女であるという変化をこなしているママさんたち。それに引き替え,園児・生徒や勤め人でしかない人々は,何様のつもりでしょうか? ただの甘ったれ?

 大事な旦那様やお子さんをこき下ろすのは止めましょうね。自分でそう思っていても,人に言われると嫌なものです。今年のサラリーマン川柳に「家事分担 それパパこれパパ ママはどれ?」という一句があります。近頃は,ママが司令塔になって,家族をこき使っているようです。「小遣いが 欲しいと父も チワワの目」という句もあって,ママの暴君ぶり?が見えてきます。川柳で鬱憤晴らしをしている間は大丈夫ですが,過ぎると崩壊しかねません。思いやりは家族の要です。

 渡る世間は鬼ばかり。傍迷惑な鬼とはわがまま気まま,自分勝手な振る舞いをします。それはやらなければならないことを,他人に押し付けようとする嫌らしさです。人がしているから自分もという思いで加担していくから,住みにくい社会にスパイラルしていきます。人にしてもらおうとするから,してもらえなくなっています。子どもたちを自分の手で守ろうとせずに,守ってもらおうと皆が押し付けあっているから,子どもは丸裸のままに放置されていきます。

 そんな世間の中で育っていれば,子どもも押し付けることしか学ぶことができません。道の真ん中に自転車を放置して車の邪魔になっても,公共の道で何をしようと自由であると,知らんぷりです。邪魔ならあなたが除けなさいと押し付けてきます。交差点で飛び出して,車に接触し掛かっても,注意をしない車の方が悪いとにらんできます。できることをしないで一切を他者に押し付けていこうという不遜な態度は,社会では受け容れられません。そのときでも,自分を理解してくれない社会が悪いと押し付けていくことでしょう。

 家事とはうるさい用事ですか? したくないですか? それなら誰もしなければいいでしょう。子どもたちは,ご飯を作るのはママの仕事だと思っています。ママが病気で寝込んだりすると,ママの心配よりも,ご飯はどうするのと考えます。ママにすれば,私は飯炊き婆さんかと腹が立つと共に情けなくなることでしょう。子どもに自分で食事を作らせてみましょう。買い物から食べ終わって後片づけまでの全てを体験させることです。ついでに,ママの分も。ママが美味しいといって食べてくれたときに,家事とは決してうるさい用事ではないことを実感するはずです。

 誰それの仕事だ,私の責任ではない,そんな逃げ腰で幸せがつかめるはずはありません。幸せは面倒なことを人を押し付けている限り寄りつけません。自分から逃げているのですから。みんながそれぞれのできることを持ち寄るために,家族という暮らし方があります。あたたかな家庭とは,押し付け合う家族の所にはありません。手伝いといったことではなくて,引き受けようという気持ちが家庭を作る力を生み出します。家庭も作れないで,社会人にはなり得ないのです。

・・・家庭はママに任せたとは,卑怯な押し付けに過ぎません。・・・



《引き受けるか,押し付けるかは,人としての成熟指針の踏み絵です。》

 ○わがまま気ままで自由に生きたいという風潮が強くなっています。人が持っている欲望を解き放つのですから,快適です。ところで,欲望はエスカレートします。気に入らない奴がいたら徹底的に痛めつければすっきりする,むしゃくしゃするから火をつけて面白がる,気に入らないから虐待する,欲望の負のはけ口が他者に押し付けられていきます。

 要らなくなったゴミを辺りに放り投げることも同じです。自分の始末を自分でつけられなくなったら,自分勝手をまき散らしたら,住みにくい世の中になって当たり前です。だからといって,我が子をそんな世間に染まらせているわけにはいきません。大人の無為を子どもに押し付けることは大人の恥です。子どものためにも,社会で生きていく上での心構えを思い出して,しっかり伝えていかなければなりません。人を責める前に,自らを確認してみることです。

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