*** 子育ち12章 ***
 

Welcome to Bear's Home-Page
「第 14-09 章」


『育てよう 自分の弱さを 逃げない子』


 ■徒然子育て想■
『通学合宿?』

 通学合宿という育成活動をご存じですか? 福岡県庄内町が発祥の地で,西の方から列島を北上している活動で,文部科学省でも紹介をしているものです。地域での育成活動として,学校週五日制の実施を期に地域二日制活動プログラムに取り入れられています。庄内町には全国から関係者が視察に訪れているそうです。この活動を始めた方とは県の家庭教育事業に関わったときにご一緒に活動をしたことがあり,通学合宿のことは聞き知ってはいたのですが,先日改めて講演としてその全体像を聞く機会がありました。少しばかり概要を聞き書きとしてお伝えしておきましょう。

 通学合宿とは,小学生4〜6年生を中心として,1週間程度,公民館等の公的施設で共同生活をしながら,そこから直接通学するというものです。もちろん暮らしのことをすべて自分たちの手で行います。例えば食事の用意は,献立を決めて買い物をし調理して食べて後片づけまでを共同作業します。付き添っているボランティアは相談に乗るだけで,手出しはせず,泊まり込みながら見守るだけです。庄内町では合宿用の立派な施設があるのですが,多くの公的施設では風呂がないために,ほとんどが地域の家にもらい風呂をしています。特にお年寄りの家に協力をいただいて,孫が帰ってきたようだと歓迎される効果も得られています。

 参加費用は数千円の個人負担で,行政等からの補助も受けて実施されています。子どもの食事代はいくらか出さないと親として落ち着かないということのようです。寝具はリースで揃えています。庄内町では専用の施設なので,畑作業や動物の世話などもプログラムに入っていますが,普通はそこまではやっていません。ところで,活動の広がりと共に通学合宿の基本的な目的が少し変わってしまっているという指摘がありました。

 例えば,献立などに子どもの希望を入れてしまうことです。ハンバーグが食べたいといった希望への迎合があります。合宿はあくまでも「普段の暮らしを自分たちの手でする」ということに意味があるのです。お出かけして非日常を体験することではないのです。つまり特別なイベントにしてはいけないということです。参加を募る上で方便としてイベント的なプログラムをはめ込むことも必要ではありますが,それはあくまでも主たる目的ではないということを忘れないことです。

 庄内町では,専用の施設の他,年間1000万円の費用が掛けられています。普通では同じようにできませんので,それぞれの地域の事情に合った形で予算も10万円ほどで実施されています。では,通学合宿をすることで何が見えるかということですが,「子どもはやったことがないことはできない」,「今の子どもは消費体験だけしかなく,生産体験が皆無である」,「してみることで,してもらうことに心からありがとうと言える」,「子どもが自力でするときは時間が掛かるもの」といったことがあり,家庭における親の子育てが失っていることを補えるのです。

 かわいい子には旅をさせよという故事がありますが,その言葉を知っているだけでは分かっているとは言えません。体験の裏打ちがあって,言葉は本当の力を発揮します。やってみなければ分からないということです。現代版の子どもに旅を与える企画,それが通学合宿です。皆さんの地域でも是非取り組んでください。誰かがしてくれることを待っていては,子どもは貴重な機会を失います。子どもは今を精一杯生きてこそきちんと育っていきます。庄内町の通学合宿については,以下のホームページをご覧になってください。

 http://www.town.shonai.fukuoka.jp/hp/SEIKATSU/main.html 



【質問14-09:お子さんは,やんちゃですか,それとも弱虫ですか?】


 ○やんちゃな子!

 やんちゃを辞書で引くと,子どもがだだをこねることとあり,次にいたずらとあります。親の言うことを素直に聞かないということですが,どちらかというと制止を振り切ってやってはいけないことをする場合です。もっとも,中には親が勝手にいけないと決めつけていることもあります。高いところから飛び降りるのは,親は心配で禁止しますが,やんちゃな子はあっさりとやってしまいますね。

 だだをこねられると往生しますが,少しぐらいのいたずらであれば目こぼしするようにしていないと,振り回されて疲れてしまいます。過ぎたときは,「コラッ」という父親の一喝を浴びせておくだけでいいでしょう。ぐずぐず言わないことです。ところで,男の子であればやんちゃを卒業すると腕白になりますが,女の子の場合はいつまでもやんちゃな娘さんのままです。腕白娘とは言いませんが,この頃の娘さんには使ってもいいかも?

 家ではそうでもないのに,外に出て人目があったりすると,途端にやんちゃになることがあります。すごいだろうといった得意げな態度を誇示しようとします。もしも誰かに「よくできたね,すごいね」などと感心されると,図に乗っていきます。やりすぎて転んでべそをかきたいのですが,ここで泣いてはプライドが許さないと,口をへの字に曲げて渋い顔で収めようとします。「いい加減にしないからよ」。

 大人は子どものしたことだからと大目に見る場合があります。子どもの側から言えば,やんちゃなことをしたときです。静かにしているべき時にママに話しかけたりするように,こうあるべきという基準からはみ出してしまいます。一度や二度は許されますし,許してやらなければなりません。仏の顔も三度ですから,三度はダメです。もしも,やんちゃを先回りして封じ込めようとすると,子どもを安全圏に閉じこめて,大事な体験を奪うことになります。

 やんちゃをしても,これ以上はしてはいけないという自制がかけられるように育てなければなりません。そのためには,ここまではいいという限界を教えておく必要があります。静かな場所柄の中でママにお話しするときには,小さな声で少しだけなら,ということです。その範囲であれば,大目に見てもらえるからです。ゆとり教育という言葉がありますが,ゆとりしつけもあるはずです。

 ソファーの上を跳んだり跳ねたり,子どもはじっとしてはいられないのです。ソファーは座るものというルールを無視するから,やんちゃな行動とみなされます。しかし家庭では少しルールをゆるめて,飛びマット代わりとして利用することも可能です。そのときに,パパがいるときはそれはダメといった禁止を教えておいた方がいいでしょう。そう教えることで,本当はいけないことだということをしつけることができるからです。パパの前,それは社会生活のルールが生きている場なのです。そのしつけがないから,よその家に行ってもソファーを跳んで回ることになります。

・・・やんちゃな経験をするから,程があることに気づきます。・・・


 ○弱虫な子?

 生来,人は弱虫です。赤ちゃんは弱虫の極みです。心身の育ちをすることで,弱さを克服していきます。弱虫でなくなっていくプロセスが育ちであると言うことができます。大人から見れば子どもは弱虫で当たり前です。弱いから少しでも弱くなくなればうれしいのであり,それが育ちへの意欲に転化していきます。弱いことがいけないことと断じることは無茶だと知っておいてください。弱いことを認めることから,育ちは始まるのです。

 もう一人の子ども,つまり自分が自分の弱さを否定したり無視したりすれば,それはうぬぼれになります。一方,弱さに閉じこもったり逃げ込んだりしたら,それは甘えです。今日は弱くていいんだと自分の弱さを認めた上で,明日には弱さを克服できるという希望が持てるとき,子どもは生き生きと育っていくことができます。幼い子どもには希望といっても実感はありませんが,日々をできる範囲で精一杯生きていきさえすれば充分です。

 子どもは日々いろんな初体験をし続けます。したことがないことはできませんし,どうすればいいのかも見当がつきません。本能的に育っている幼児期にはそんなことはないのですが,複雑な社会生活に関わるようになってくると,どうしても不安に身構え手出し足出しを躊躇するようになっていきます。自分の思い通りにやっていいというわけにはいかないからです。友だち遊び,環境にあるモノなど,相手に合わせて行動を選択しなければならなくなります。

 お盆に載せたコップなどを運ぶとき,ただ手で支えればいいというわけではありません。お盆が傾けば落としてしまいます。よそ見をすると,中味をこぼしてしまいます。そんな日常体験の失敗を親が咎めてばかりいると,できないことがいけないこと,できない自分はダメな奴と思い込まされ,手を出すのが恐くなります。その恐れが他のことにまで感染して,弱虫になっていきます。

 弱虫に据え置かれている子どもに必要なことは,励ましです。励ましの最も大事なポイントは,昔には言われていたドンマイ,つまり Don't mind,気にしなくていいということです。何を? それは失敗しても大丈夫,気にするなということです。ママがついてる,パパがついてる,後のことは心配しなくていい,というメッセージです。「こぼしちゃって,どうするの?」。咎めるよりも,「拭けば元通り,大丈夫よ。もう一回やってごらん」。

 子どもはちゃんと,きちんとできるはずがありません。できなくて当たり前です。そう思っていたら,できたときにはほめてやれますよね。「よくできたね」。その言葉で,子どもは昨日までの自分とは違う,今日の自分はできることが増えた,と実感することができます。達成感が育ちの意欲ですが,それは弱い自分を知っているから湧いてくるものです。誰でも弱虫です。おそらくママだって,弱虫でしょう。弱いから支え合おうとして,家族が生まれます。一緒に育ちませんか?

・・・弱虫な自分をしっかり見届けていると,育ちの喜びがあります。・・・



《やんちゃか,弱虫かは,能力発揮が多めか少なめかの違いだけです。》

 ○弱虫ヤーイ。友だちにからかわれたとき,めげる子とめげない子がいます。どこが違うのでしょう? 親にしっかり認めてもらっている子はめげません。ボクは,ワタシは弱虫なんかじゃないと思いたくても,親がそのことを裏打ちしておいてあげないと,自信を持って言い切ることができません。パパやママが後から大丈夫と見守ってくれていると思えば,落ち込まなくて済みます。自分を信じてくれている人がいる,それほど勇気づけられるものはありません。大好きな親であればなおさらです。

 今やんちゃであったり弱虫であったりしても,いつまでも同じままではありません。育つうちにあっちに行ったりこっちに行ったり振れるものです。育ちとは今日と明日は違ってくるものということを忘れないでください。今こうだから心配だという悩みを伺うことが多いのですが,ほとんどが一時のことです。長い目で見るようにすれば少々の振れは大したことではありません。子どもが育っているのであって,親が育てているのではありません。

「子育ち12章」:インデックスに進みます
「子育ち12章」:第14-08章に戻ります
「子育ち12章」:第14-10章に進みます