*** 子育ち12章 ***
 

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「第 14-10 章」


『育てよう 明日の自分を 信じる子』


 ■徒然子育て想■
『参観?』

 運動会の参観では,パパラッチがビデオやカメラの撮影に大わらわです。親バカはしようがないものと,微笑ましい風景です。しかしながら,それも程度があります。観覧している方の前に無礼に立ちはだかる方がいます。ちょっとの間だから,親の特権だから,親なら非礼をしてもいいという甘えが出てきたとき,大人としての姿勢を喪失しています。子どもを応援するのが親であり,それは背後からするものです。子どもの前に立ちはだかるのは,我が子を我がものとして取り込もうとする態勢でしかありません。我が子を観てやってください,そう願うのが親なのですが。

 授業参観があると,教室の後にズラッと保護者が立ち並びます。子どもたちは後をキョロキョロ振り返り,落ち着きません。もちろん,先生も緊張しています。子どもたちは,いつもの先生と違っていると感じています。静かに授業を見ている親,そうならいいのですが,小声でひそひそ話す方,廊下で声高に再会のおしゃべりに興じる方もいて,授業妨害になっています。

 ところで,前日に,授業の内容を予習している親はいるんでしょうか? 我が子が何を習うのか掴んだ上で参観をすれば,先生の教える技術を学ぶことができます。話の進め方,考えさせ方,引き出し方など,日頃の自分の接し方にも大いに参考になるはずです。ときどき,先生の教え方がどうのこうのというご意見を披瀝される方がおられますが,人の職業上のことにもの申すほどの方なら,その非礼さもお分かりのはずです。

 参観という以上,何かを観る機会のはずです。何を見届ければいいのでしょうか? 参観というとき,その意味を弁えていないから,折角のチャンスを無為に過ごし,かえって邪魔をしてしまいます。子どもたちを観る,それが参観の意味です。子どもたち? うちは一人っ子? 下の子はまだ保育園。だからこそ,参観は子どもたちをしっかりと観る機会なのです。

 例えば,4年生の親の参観を考えておきましょう。一直線に我が子の教室に向かうのが普通でしょうが,ちょっと道草を食わなければなりません。3年生の教室を参観するのです。もちろん,よそのお子さんです。そこには,1年前の我が子が見えるはずです。去年はこうだったなあ。そのとき,我が子の1年の育ちが確かめられます。次に5年生の教室を参観すると,1年後の我が子の姿を観ることができます。来年はこんなお兄ちゃん,お姉ちゃんになるのか。これからの育ちの程度が楽しみになるはずです。

 我が子だけを観ていると,子どもの育ちが見えなくなります。きょうだいが多いと日頃から子ども育ちの目盛りがあるのですが,少子化の中では育ちのペースが分かりません。大きくなったんだ,あの程度まで育つんだ,そういう育ちの目安を得ることが参観の目的であり,我が子がちゃんと見えるようになってもらうための機会なのです。わが子のクラスしか観ていないから,妙に競争意識を持つようになってしまいます。きちんと参観してくださいね。



【質問14-10:お子さんは,楽観的ですか,それとも悲観的ですか?】


 ○楽観的な子!

 楽観的,悲観的,そのいずれも普通は将来のことです。先のことは分からないのですから,個人の考え方・感じ方に過ぎません。ところが,その方向付けは,過去の延長でもあります。ものごとは思い通りにならないものと経験的に考えていると,どうせこれからもいいことはないと思ってしまいます。楽しいことがいくつかはあったという記憶を残していたら,これからもいいことがあるかもしれないと考えることでしょう。

 人は体験から自由ではありません。酷い体験がトラウマになることはよく知られるようになりましたが,同じように日常の小さな体験でも心の襞としてきちんと残るのです。問題はそれが痛かった体験か心地よい体験であったかという違いです。自分と周りの環境との関係が好ましい状況であると感じていれば,これからもそうであろうと思うのが自然です。楽観的であるのは,楽しい経験という心の襞があるからです。

 家族で休日に小旅行をします。親は渋滞で疲れてイライラします。どうして思い通りにことが運ばないのかと腹が立ってきます。目的地についてもイライラが残響し,ちっとも楽しくありません。早くしないと並ばないといけないからということで,せっついてバタバタ走り回ります。家に帰ったときには,楽しさがお土産になっていません。子どもはのんきなものでどこかで楽しさを満喫しているのですが,それを親の前には出せなくなります。楽しさを封印するのはつらいことでしょう。

 ものは考えようと言います。どんなことでもいい方に考えることもできます。不幸中の幸いという物差しです。怪我をしたときでも,この程度で済んでよかったと思えば,塞ぎ込みがちな気持ちは救われます。痛い経験を嫌な思い出のままに放置しない知恵です。終わりよければすべてよしと,けりをつけておきます。試験で間違えたことは悔しいですが,そのことで自分の考え違いが見つけられたのです。もう間違えないという次への期待につなぐことができます。よかったね!

 楽観的というと,極楽とんぼと混同されることがあるかもしれません。失敗しても反省もなくへらへらしている,ものに動じないと言えばほめ言葉ですが,感性が働いていないようです。幼い子どもの場合は,未熟で分からないのですから仕方がありません。この子はおかしいんじゃないかと,早とちりしないでくださいね。ものごとの道理,こうすればこうなるということが分かるようになったら,「よーく考えよーう」と指導してください。

 窮地に陥ってもなんとかなる,希望を失わないことが楽観的である強みです。そのためには,なんとかなったという体験が必要です。それは,ちょっと無理かなと自分で思ったことでも,やってみたらできたという体験です。はじめからできると思うようなことは体験にはなりません。ですから,ママはお手伝いでも,お使いでも,お留守番でも,ちょっと心配だなという程度のことをさせてみてください。ただし無理はいけませんよ。初体験なのですから。

・・・楽観的とは,先に道が拓けるものだと信じていることです。・・・


 ○悲観的な子?

 長い休みの後半に入って,もう半分終わったと考えるか,まだ半分残っていると思うか,という二つの道があります。悲観的か,楽観的かについてチェックをする有名な選択です。パパであれば,もうビールが半分と言うか,まだ半分と言うか? ママなら,もう30代,まだ40代? どちらを口にするかで,気持ちは180°ひっくり返ります。悲しいと思うと悲しくなります。悲しいから悲しくなるのではありません。

 もう3歳になったのに,まだできない。そんな焦りを子どもに向けていませんか。まだ3歳だからできないかも。そのうちできるようになるでしょう。このように明日を楽しみにできたらいいですね。実は,このことは今子育ての中で失われている大事なポイントの一つなのです。「もう一年生なのに」と考えるときには,グズグズしていられないと考え,もう後がないと思い込んでいます。大人が時間に縛られていることを,モモは教えてくれたのに。

 幼い子どもは,今でなきゃダメと駄々をこねます。明日という未来が実感的に見えていないからです。成長して時間感覚を持てるようになったとき,期待という能力を培っておかなければなりません。それは自然に身に付くものではないからです。犬や猫には,明日はありません。人だけが持てる能力であり,だからこそ人は夢を追うことで豊かな社会を手にしたのです。

 今の子どもは夢がないと言われますが,その指摘が言われはじめてからかなりの時が過ぎています。確かに明日は今日よりよくなるという社会的なムードを感じづらくなくなりました。それでも,やはり明日は可能性を秘めています。何より,子どもには明日がなければ育とうという意欲が持てなくなります。女子中学生が「生きていても意味がない」という未発信のメールを携帯に残して自殺するまで追い込まれています。

 何かいいことがありそうと思うこと,そのかすかな思いが希望です。子育ての中に希望をはめ込めば,それは期待に変わります。できなくてはいけないという強迫ではなくて,できたらいいねという願いです。大人ができて当たり前と考えていることでも,子どもができるようになったら認めてあげること,それが「できたね」というほめ言葉です。育っているという確認ができれば,子どもは明日への道を信じることができて,生きている意味を見失うことはありません。

 子どもを育てることに懸命になりすぎて,子どもが育とうとする思いを疎かにしてはいなかったでしょうか? 食べさせようとするだけで,食べたいと思わせることを忘れてはいなかったでしょうか? 子どもたちは,これができないとダメという厚い壁を突きつけられて,悲観的に育てられています。もう一度,「子どもは育っているのだから,やがてできるようになる」と明日を信じてみませんか? 親が信じてやらなくて,誰が信じるでしょう。

・・・明日を信じていれば,悲観的になるはずがありません。・・・



《楽観的か,悲観的かは,明日の意味を見つけるかどうかの違いです。》

 ○ファストフードで育った子どもたちは,お手軽好みです。無駄な時間や労力を消去しないと気が済まなくて,モタモタしているのを見るとうざったいと即断します。機能的で美しいといったほめ言葉が出ることもあります。機能的というのは無機質な世界,つまり機械世界の価値であり,美しさとは無縁です。美しさとは生き様を根源とした感性です。生きることは非効率的で無駄ばかりですが,その無駄なところにこそ美しさがあります。無駄であるはずの癒しが求められていますが,生きる喜びに飢えているからでしょう。

 花を見て美しく感じるのは,花が受粉を手伝って欲しい,次世代への橋渡しの現場であると直感して,その生きようとする健気さに共感しているからです。美しさは生き続けることへのセンサー表示です。花が美しいのではなく,花を見て美しいと感じる能力が備わっているのです。子どもの元気な姿を見て,大人はホッとします。それは愛くるしさだけではなくて,未来が顕現しているからです。希望に満ちた人は美しいのです。

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