*** 子育ち12章 ***
 

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「第 14-11 章」


『育てよう できる喜び 求める子』


 ■徒然子育て想■
『入学?』

 地元国立大学の入学試験合格者の発表が報道されています。合格した若者たちの喜ぶ姿が映し出されます。どの顔もやったという達成感と,終わったという開放感が伺われます。これから新しいときが始まるという新鮮な爽快感があるはずです。そんな若者たちの姿を見てきて願うのは,三日坊主にならないようにということです。のど元過ぎれば熱さを忘れという諺は苦労を忘れる場面をいいますが,苦労を忘れることで目的も一緒に忘れてしまうことが多いようです。

 大学に入ったら友達を作るという学生さんが多くいます。大学は学ぶところという気概はすっかり陰が薄れています。受験の苦労で学びは終了したという勘違いに酔いしれています。何のために苦労したのか,大学に入るため! 入りさえすれば,後は気楽に過ごして卒業するだけ。だって卒業のために試験はないのだから楽勝! 卒業してからどうするのかはほとんど考えておりません。自分の目指す仕事のためにキャリアを大学で磨くという目的意識がほとんどありません。

 大学に入ったら,一つの責任が発生します。自分が入学定員の一つを占有したということです。本人は勝ち取ったとだけしか意識していないでしょうが,勝ち取ったことによる責任が伴っているのです。あなたは人を押しのけてそこにいるんですよということです。あなたが合格したばっかりに,落ちた人がいるということです。大学で遊びほうけているあなたは,落ちた人の学びたかった思いを踏みにじっていることになるんですよ。合格者が自分の責任を自覚しないのは,社会に対する裏切りといってもいいでしょう。

 入学というのは始まりです。始まりは自分が何事かを為そうとするときに実感できるものです。苦労は終わった,後は大学生活をエンジョイすればいいというお気楽さでは何も始めることはありません。卒業の時に,いったい自分は何をしていたのだろうと悔いることが精一杯です。そう述懐する卒業生をたくさん見送ってきました。そうならないように言って聞かせても,分かろうとしてくれない,分かる力もないのかと虚しい時を過ごしてきました。育ちの詰めのときがぴしっと締まらないと,先行きはとても不安です。

 勝者が自ら破滅していく構図がどこにでもあります。エリートの堕落は惨めですよね。それは人の弱さでしょう。その弱さをなんとか乗り越えようと努力できるのは人の素晴らしさです。自らを律することができればいいのですが,ただしっかりしなければ気張ってみたところで,何の役にも立ちません。最も簡単な対処法は,責任感です。勝者は他者を追い落としたことに対する責任を意識すればいいのです。勝者が堕落したら,勝者としての資格が失われます。このことは逆に,敗者になっても自棄を起こさない責任があり,自棄を起こした途端に本当の敗者に落ちぶれていきます。勝敗は時の運です。

 自分が居なかったら,別の子どもが居た,別の連れ合いが居た,別の生徒が居た,別の社員が居た,別の隣人が居たはずです。だからこそ,きちんと生きる責任が生じるのです。あなた一人の命ではない,責任のある命なのです。そんな自覚を昔の人は持っていたから,凛として生きていられたのです。自分の命は自分のもの,自分の勝ちは自分のもの,自分の金は自分のもの,何でも自分のものと思い込んだとき,あらゆる道を踏み外してしまいます。生きる道標を忘れずに。



【質問14-11:お子さんは,慣れる方ですか,それとも習う方ですか?】


 ○慣れる子!

 しつけは慣れること,教育は教え学ぶこと。この違いを曖昧にしていませんか? 正確に言えば,しつけに教えを持ち込もうとするから,子どもに届かなくなっています。顔を洗うしつけのために,幼い子どもに理由を言って聞かせようとしても効果はありません。理由は後回しで,黙って洗わせればいいのです。洗顔したらさっぱりした,その感覚に慣れさせてしまうのがしつけであって,頭で理解する必要はありません。理解できる頭はそんなに急には育てません。

 幼稚園で園児にきちんとしつけていることは,「返事,あいさつ,後片づけ」だそうです。実のところ,この程度のことは家庭でしつけ終えていなくてはならないのですが,それができていません。おとなしく先生の話が聞けるということも,入学までにはしつけておかねばなりません。しつけの基本は慣れさせることです。だからこそ,家庭で親がしてみせることが重要になります。みんながしているから自然に真似して慣れていくことができます。子どもだけにさせようとするから,どうして自分だけがしないといけないのか,子どもが理由を求めるのです。

 子どもにはよい環境を与えようとしますね。環境がしつけをすると感じているからです。つまり,環境に慣れさせることが基本的生活習慣のしつけなのです。幼い子どもは身の回りの家族がすることをなんとかまねてみようとして,自分の能力を伸ばしていきます。静かな家庭で育てば,静かにするというしつけができます。環境に適応する,慣れる,それがしつけであり,さらには能力開発の基本なので,多様で豊かな環境を用意しなければなりません。

 「ちゃんとしなさい」,「何遍言ったら分かるの,同じことを言わせないで」。「ちゃんとって? どうすればいいの?」。「ちゃんとはちゃんとよ,そんなことも分からないの」。「?・?」。「こうするのよ,やってごらん」,「これでいいの」,「そう,ちゃんとできたじゃないの」。口だけでしつけることはできません。しつけは身体を使ってしてみせることからスタートするものです。たとえ親が意識していなくても,子どもは親の真似を通してしつけられていきます。

 暗唱する,暗記する,暗算するといった学び方が昔に比べて減っています。古典の名文を暗唱させなくなって久しくなります。ママも歌は歌えると思いますが,暗唱できる詩はないのではありませんか? 暗記するといえば,せいぜいかけ算の九九,歴史で年代を語呂合わせする程度でしょう。それもうろ覚えになっているという現状があります。そうなった背景には,丸暗記しても意味が分かっていなければ無駄であるという思いこみがあります。それは正しいのでしょうか?

 素養という言葉あります。一定水準以上の教養,素になる知材です。美味しい献立を作るためには,素材がなければ手がつけられません。冷蔵庫に何が入っているか,何もなければ調理のしようがありません。同じように,人は今は意味がなくても,必要となる知材を蓄えていなければなりません。名文を暗唱できることは,子どものうちには使い切れませんが,長じるにつれて言葉を美しく使いこなす際に土台になるはずです。美しい言葉遣いに慣れている,それが暗唱ということの意味なのです。

・・・しつけとは,よい見本を与えられ,自から慣れ親しむことです。・・・


 ○習う子?

 乳幼児の頃は見よう見まねで慣れることによって生活習慣のしつけができていきますが,児童期になるともう一人の自分が自分をコントロールするようになるので,言葉による自己コントロールが可能になります。もう一人の自分が「起きなくては」と決断するから,自分を起こすようになります。「顔を洗おう」と思うから,洗面所に足を運びます。外から帰ってきたとき,「手を洗おう」と思わなければ,汚れた手でおやつを掴みます。「○○しよう」という言語で記述された行動プログラムをインストールする,つまり「習い覚える」ことが必要になります。

 手を洗おうとしないときには,子どもに石鹸を使わせます。石鹸がかすかに薄汚れるでしょう。汚れていると思わなかったけど,石鹸で洗うと石鹸の泡が汚れた,本当に汚れていたんだと習うことができます。ただ手が汚れていると言うだけでは,子どもには伝わりません。言うことは教えること,石鹸の汚れを体験することが習うことです。「そうだ」と習うことによって,インストールしますか?の確認に対して「OKボタン」をクリックできるのです。

 手習いという教え方があります。習字や楽器演奏などの非日常的な技を身につける場合です。きれいに書ける,上手に弾ける,お手本に感動したとき,なぞるという習いが始まります。有無を言わせないしつけと違って,ある行動を取り入れるかどうかを選択できる場合には,「OK」ボタンを自分で押さない限り,習いごとは発動しません。子どもに習い事をさせようという場合があるでしょうが,本人が「習いたい」と言ったかどうかは,結構重たいことです。

 ところで,子どもの意思表示は気まぐれなものです。習いたいという気持ちがいい加減なのではありません。子どもは体験の量に比例した決心しかできないからです。ちょっとやってみてもいいかなという程度で習い始めます。ところがやってみると初体験を重ねていくにつれて,思い通りに進まないことが分かってきます。小さな壁が現れてくるのです。そのとき,まだ続けるの?という選択を迫られます。できるようになりたいという思いが薄いと,「NO」ボタンをクリックします。このようなときには,「後で」ボタンをクリックして,少し時間を置くようにすればいいでしょう。

 何をやらせても永続きしない,根気がない,我慢ができない,努力が足りない。子どもはそんなものです。あれこれやってみる時期だから,それでいいのです。料理でいえば,下ごしらえをしているのです。あっちもこっちも中途半端で止めているように見えても,一つひとつの育ちのステップを習い覚えています。育ちは一本道ではありません。乗り継ぎをしながら,待ち時間でちょっとしたお土産を手に入れています。大人でも壁に出会ったら,ちょっと別のことをしてみるという解決法を採っているはずです。同じことです。

 楽器を習うためには,まず箸使いがちゃんとできることです。名ピアニストが初来日したとき,日本人の箸使いを見て驚嘆し,素晴らしい演奏家が生まれるだろうと予言したそうです。後片づけができる子は成績もよい子が多いそうです。次のことまで考えるという習い性が有効に機能するからです。教えてできることは大した成果にはつながりません。細々したことを習い覚えているとき,それらが総合されて実力になるのです。習うという育ちをしっかりとさせてやってください。

・・・学校は教え,家庭や地域は習わせる場であると考えてみませんか。・・・



《慣れるか,習うかは,できる力を子どもが取り込む道の違いです。》

 ○教えられたら分かります。でも,分かったからできるということにはなりません。習い慣れてこそできる力になります。マニュアルが理解できても,即座に使いこなせないのは自ら習って慣れようとしないからです。慣れるには繰り返しという手間が掛かります。スイッチポンの生活に慣れていると,手間暇を惜しむようになります。それが習いに不可欠なスローペースを忌避させてしまいます。

 根気がない子どもは,根気の要る生活をしていません。今の便利な生活に慣れている以上,無理な注文です。お腹空いた,その一言で食べ物が手に入ります。何か食べたかったら自分で買い物に行ってくるといった程度の手間を掛けさせることです。学校や塾に通うのに,座っていれば着いてしまうという送迎付きでは,とても頑張りは期待できません。楽をして育ったら何もできないのが当たり前です。

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