*** 子育ち12章 ***
 

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「第 15-03 章」


『育ちには 優しいママの 胸の中』


 ■徒然子育て想■
『逆聞き?』

 東京にお住まいのある主婦の方の体験が,パンフレットに載っていました。結婚間もない頃に,姑と出かけたときのことです。体が丈夫ではなく,その日も咳をしていました。すると姑が「あなたは体が弱いんだから,大事にしなくちゃ」と声を掛けてきました。体が弱いという一番のコンプレックスをつかれて,内心グサリと痛みを感じました。気にしていることを平気で口に出してくるなんて…と嫌な気持ちになったのです。

 数日後,実家へ帰ったときに,また咳き込みました。すると母が「もともと丈夫じゃないんだから,気をつけなさい」と言ってくれました。その一言にハッとしてしまいました。姑と母の言葉は全く同じなのに,どうして姑に対してはあんなに不愉快になったんでしょう。同じように気を遣ってくれていたのに,自分の狭い心が気持ちの壁をつくっていたんだと気がつきました。以来,姑の一言が胸にチクリとくると,母に言われたなら…と一呼吸おくようになったそうです。そうして分かったことは,姑の言葉はまったく悪意のないものだということでした。

 もちろん物事には逆の場合もあります。大事なことは,いずれにしても気持ちのよいつきあいは自分の側にあるということです。たとえ姑の言葉が正真正銘の嫌みであっても,明るく受け止めてしまえば,相手の気持ちを変える可能性が出てきます。逆に嫌みと受け止めていると,思いやりも嫌みも嫌みになってしまいます。どちらが得かは明らかです。人の関係を良くするのも悪くするのも,その決め手は自分の胸にあります。人のせいにする前に,自分の態勢をきちんとした方がいいでしょう。

 自分が人に嫌みを言う質だと人の言葉もそう聞こえるものです。姑とは嫌みを言う人という先入観を闇雲に信じてしまうことも邪魔をします。常に自他共に素直に受け取る努力をしていれば,良い方に動いていくものです。笑顔で受け止める人には嫌みを言おうとする方がたじろぎます。嫌みは長くは続きません。そうはいっても現実には,嫌みを言って懲りない人はいるものです。世間を狭くしていますから,やがて寂しさに襲われた挙げ句に悟ることでしょう。

 ありがとうございます。親切にされて「有り難い」と言うのですから,ひねて受け止めると皮肉に聞こえます。信じられな〜いという気持ちがベースにあります。親切の陰には何かあると勘ぐらなければなりません。相手の親切が善意か悪意かを見極める必要があるような世間は,うれしくありません。甘い声を掛けて籠絡する手練手管は,真意をカムフラージュしています。恋の駆け引きと似ていますね。恋という字は心の字が下にあり,下心ありというわけです。

 有り難いことをお互いに交わすことで,社会は成り立っています。その基本は善意を信じることです。世の中すべてが善意に満ちているという無邪気さはつけ込まれますが,だからといって有邪気というのも暗い人生です。少なくとも自分の回りでは信頼関係が成り立っていると思わなければ,明るく生きることはできません。そこで先ずは八分の善意を信じてみましょう。二分の警戒心を残しておけば大丈夫です。それは決して人を疑っているということではありません。砂糖に少量の塩を隠す方が甘みにコクが出てくるのと同じです。



【質問15-03:ママは,どうして子どもの不安をあおるの?】


 ○怖いから!

 夫婦喧嘩の最中に,妻が夫に「私だって,毎日家事で夜遅くまで起きてて大変なんだからね!」と言ったとたん,3歳になる娘が「だって,ママ昼寝てるジャン!」と仲裁?に入りました。確かに絶妙な仲裁のタイミングだったのですが,罪のない娘がその後の数時間,ママにまともに口を聞いてもらえなかったのは言うまでもありません。可哀想・・・。こんな投稿が目に入りました。真実とは往々にして人を傷つけるものです。

 妊娠中のお腹の大きな友人が遊びに来た時,3歳の娘が喜んでじゃれついていました。ママが「おばちゃんのお腹の中には赤ちゃんがいるから強くぶつかったらダメよ」と注意すると,えっっ!と息を呑んで,ひどいショックを受けたように目を丸くした娘が「…おばちゃん,赤ちゃん食べたの!?」と聞いてきました。まわりの大人は大爆笑だったそうです。子どもは恐ろしい思いをしたことでしょう。無邪気で無知な幼子は,結構怖い思いをしています。

 言葉の覚えはじめの頃はポツリポツリと口に出します。ゆっくりと待ちきれずについついママが急かせます。イライラして「早く言いなさい」と迫ります。ママにすればどうということのないひと言です。でも,子どもにすれば頭の上から不機嫌に怒鳴りつけられて,かなりの心理的な圧迫が加えられます。言葉を思い出しながら発しようと苦吟しているとき,焦りは余計な重しになります。幼い心はオドオドするようになり,言葉が遅くなったり,ひどいときは吃音に行き着きます。ママは意識してゆったりしておかないと,子どもを追いつめてしまいます。

 夜寝る前にジュースなどを飲んでいる子どもに,「おねしょするよ」って言いますね。軽い注意のつもりです。子どもにとって言葉は大人が感じているよりも直接的です。例えば,子どもは排泄物を表す言葉を何の躊躇もなく平気で口にすることができます。ごく身近に感じていて,汚いと突き放してはいないからです。おねしょするという言葉を素直に受け容れてしまい,暗示が掛かっておねしょするようになります。「またおねしょして」と叱られると,するかもしれないという不安を素直に体現するようにし向けられます。必ずそうなるということではありませんが,気にしすぎるあまりそちらにスイッチが入る場合もよくあるということです。

 子どものためを思って。ママの心配の種は尽きません。いちいち目を光らせていなければ,どうなるか気が気じゃないと思うのが親心ですね。どうして子どもっていけない脇道をわざと選ぶように入り込んでいくんでしょう。信じられない!? 子どもは無限の可能性を持っているのです。無限とは良くも悪くも一切合切全部です。いけないことをしたら痛い目に遭う,だからしなくなります。それが叱るしつけであり,許されないことに対しては厳しく接することが大事です。しかし,痛い目に遭うからと子どもを脅かして不安に追い込んでしまうことが日常茶飯事になっていませんか?

 人を思うがままに動かそうとするとき,手っ取り早いのが脅しです。嫌がる子どもを渋々でも従わせるには,怖がらせれば簡単です。しかし,それはしつけという養育上ではとても悪質な手抜きになります。手抜き工事の修復は高いものに付くというのは常識ですが,子育ての場面でも同じです。怖いからする,叱られるからする,叩かれるからする,不安だからする,それは昔は奴隷に対するしつけでした。いちいち監視され脅されてビクビクと不安な中では,いじけるしかありませんね。

・・・ママは優しく,怖いのはお化けに任せましょう。・・・


 ○ママ好みの?

 「ねえ,ママ」。「何か用?」。「別に」。あれもこれも抱えているママは,「忙しいんだから,用が無いなら呼ばないで!」って軽くあしらっています。いっぱいすることがあって時間に追われるようにバタバタしているママの姿を遠くから見ていて,子どもは近寄りがたい気持ちを抱え込んでいます。つまんないな,というかすかな不安を胸の奥に押し込んでいます。ママは殊更邪険に突き放しているつもりはなくて,成り行きでそうなっているのでしょうが,子どもに不安を与えています。

 「ママ」,その呼びかけが大して力のないことを思い知らされると,寂しい不安に襲われます。それは用があるのではなく,ただママそのものを求めていて,ちょっとでいいから丸ごと私のママになって向き合って欲しいという願いです。グッと抱きしめてくれさえしたら,それだけでホッとすることってありますよね。フッと顔を見合わせてにこっとするだけでも,人の心は安らぐものです。親子の間には特別に用がなくても,気持ちのふれあいを重ねておく必要があります。

 双子の姉妹がいます。双子ですから,育ちの出発は同時だと考えることができます。双子でも姉と妹に立場が分けられます。便宜上のことに過ぎません。ところが,お姉ちゃんはしっかり者に育ち,妹はおしゃべりだが甘えん坊に育っています。親を含めて周りからの接し方が,姉と妹という育ちを与えていったからです。子どもは人の関わりの中で,居心地のよい形に自分を育てていきます。自分に期待されていることが何かを見極め,それを受け容れていけば自分の居場所が獲得できるからです。

 こんな子であって欲しいという願いが日頃の関わりを通してやんわりと突きつけられます。乱暴に言えば,しつけは型にはめこむことです。子どもは周りで用意された型に合わせないと居心地が悪くなります。自分は望まれていると感じるためには,型にはまらなければなりません。ところが,その型が子どもの実際の大きさに合わないことが多いのです。親が与える型はいつも大きすぎるのです。大きめの洋服を着せようとするのです。それをどうしてぴったりと似合わないのかと責められても,子どもにはどうしようもありません。でも,子どもは自分がいけないのだと思っています。

 逆の場合もあります。子どもに全く型を与えないのです。何をしてもほったらかしにされて,どうなればいいのか分からずに彷徨うようになります。どうすればいいのかという不安を親にぶつけるようになります。親は逆らう子どもとしか見てくれません。余計にコミュニケーションが疎遠になっていきます。食べさせておけばいいという扱いを受けるようになります。どう育てばいいのか教えてもらえないとき,子どもの毎日は不安です。その不安を消すには享楽的な世界に浸るしかありません。

 初めての子育ての時には,親は不安です。その不安が焦りに変われば,子どもは追いつめられます。親の不安が逃げになれば,子どもは彷徨う不安に追い込まれます。いずれにしても,子どもの抱える不安は,親の不安を肩代わりさせられているのです。先ずは親同士のつながり,それも養育経験者を交えたネットワークを持つようにしてください。インターネットのつながりでもいくらかの助けにはなりますが,身近なつながりの方がベターです。そして近所の子どもたちを観察することです。

・・・家族が抱える不安は,子どもの上に覆い被さっていきます。・・・



《不安の中におかれた子どもは育ちができないと心得て下さい。》

 ○自分が不安を抱えているかどうか,それは時として無意識のレベルにまで抑え込まれているので自覚できません。一つの自己診断をしてみましょう。家族の誰に対しても笑顔で話すことができますか? 子どもに向き合うときには笑顔でない,あるいは上の子に対しては笑顔ではない,もしもそんなことがあったら,不安を抱えているということです。それを子どものせいにしているようなら,かなり進行しています。早めに考え直しをした方がよいでしょう。

 子どものしくじりを笑えるようなら大丈夫です。呆れることがあるかもしれませんが,そのママのゆとりを持った気持ちが大切です。ゆとりが子どもに安心を与えるからです。このマガジンを読んでくださっている方は,すでに余裕を持って頂いているので安心ですが,そういう落とし穴があることを知っておけば,より一層安心して子育てができるでしょう。

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