*** 子育ち12章 ***
 

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「第 15-06 章」


『育ちには 体験の道 縦横に』


 ■徒然子育て想■
『チェック?』

 1年生の算数のテストで「つぎのこたえをかきなさい」という問題が出ました。ある子どもが次のような答えを書きました。

 2+2=5 1+4=6 5+3=9 6+1=8 4+5=10

 当然ですが,全部「×」がついて,0点になりました。子どもはがっかりして,この採点用紙を家にもって帰って,泣きながら母親にみせました。母親は愕然としました。「0点!」。しかし,気を落ち着かせて,よく見てから,にっこり笑って言いました。「全部,あっているじゃないの。まちがってないわよ。お母さんなら,全部丸をつけてあげるわ」。そう言ってから赤鉛筆で大きな丸をつけて,100点と書いて,子どもをだきしめてやりました。

 お母さんの行為の意味が分かりましたか? それよりも,なぜ子どもが泣いたのか分かりますか? 「次の答えを書け」というので,子どもは正答の次の数字を答えとして書いたのです。「2+2=4」ですが,4の次の数は5なので「5」と書いたというわけなのです。普通ならそんなややこしい計算をするはずがないと思われるでしょう。それは大人が計算の型に馴染んでいるからです。でも,習い始めの子どもは問いの言葉通りに受け止めて,とんでもないところに踏み込んでいきます。

 先生はチェックをする際にこの間違いに気づきませんでした。間違いには間違いようがあります。それが分からなければ正しい指導をすることはできません。同時に,教える側の言葉がちゃんと伝わっていないことにも気づきません。「次の答えを書きなさい」という問いを「次の問題の答えを書きなさい」と改めたり,「先生が悪かった」と正答扱いにしたりするとか,あるいは,特別の○をあげるとか,いろんな対応をすることができたはずです。

 日頃の子どもの力をしっかりと見ていれば,「おかしいな」と感じたはずです。お母さんにそれができたから,この子どもは救われました。子どもはいろんな間違いをしますが,いつも子どもなりの考えがあっての上です。自信を持って答えたのに拒否されたから,泣いたのです。決していい加減な答えではなかったからです。そのことをしっかりと受け止めてやらなければなりません。どこが間違えているのか,子どもの考え方に一理はないか,子どもに寄り添ったチェックをしてやることが見守りの目です。間違いの中にこそ指導のポイントが見つかるという優しさが,見守る者の要件なのです。

 なぞなぞを一つ。「ありさんはどうしていつも裸なんでしょう?」。そんなこと当たり前? それでは真面目すぎて遊び心がありませんね。ありさんの洋服はどこにも売ってないから? それは現実的で面白くありません。答えは「ありのままに生きているから」。大人にはくだらないダジャレですが,子どもはそんな言葉遊びが大好きです。子どもの発想はある面ではダジャレにも通じています。先の算数のテストの話も,なぞなぞに見立てることもできますよね。



【質問15-06:ママは,どうして子どもの体験を見過ごすの?】


 ○体験の質!

 小学2年生の娘さんが,いつもはおばあちゃんかお父さんとお風呂に入っています。ある日たまたまどちらも不在になって,約2年ぶりにお母さんとお風呂に入りました。お母さんが洗面所で化粧を落としていたら,突然金切り声で「おまえは誰だ!」と娘さんに問いつめられました。お母さんは普段スッピンの顔を見せたことがなかったので,その衝撃的な素顔に娘さんがとても驚いたらしいと気づくのに,少しばかり時間が掛かりました。

 一緒に暮らしていても,お互いのすべてを知っているわけではありません。子どもはお母さんの顔といったらどんな顔を思い浮かべるでしょう? 怒った顔という子どもが少なくありません。恐怖の感情に増幅されて,強く印象づけられるからです。よその子には見せている笑顔が,子どもには向けられないから見えません。笑顔の美しいママを印象づけようと願うなら,一寸の間でいいですから,思いっきり子どもと楽しく遊ぶことです。一緒に何かをする体験に笑顔を添えてやってください。

 ある叔父と甥の一こまです。いつもママと一緒でないとお風呂に入らない3歳の甥に,「たまには,おじちゃんと入るか?」と聞いたら,「いいけど,おじちゃんのおっぱいって,どう?」と聞かれました。「どう?って言われても自信ないけど」と答え,いっしょに入るのをあきらめたというお話です。甥っ子がママとどういう風に入浴しているのか,いささかきわどい?シーンですが,それはおじさんにはよく分かりかねることです。

 幼い男の子にとって,ママはおっぱいです。乳離れした後は,入浴時にしかお目にかかれません。習慣という強い体験から,お風呂といえばおっぱいという連想ができているのでしょう。今のうちに飽きるほど検分しておけばいいのです。自分にはないものだから関心が強くなっているのですが,やがて記憶の中に収めていくようになります。そのためにも,お父さんと裸のつきあいをすれば,男であることに安心と自信を持つようになります。そんな体験が不可欠です。

 お母さんと3歳の息子との会話です。「大きくなったら何になりたい?」,「しんかんせん!」。「新幹線じゃなくて新幹線の運転手でしょ」,「ちがう!しんかんせんになるの!」。「そんなこと言ったって新幹線にはなれないの。だいたい,新幹線みたいに早く走れないでしょ」,「じゃゆっくりはしる」。「ハハハ!それじゃ新幹線じゃないでしょ」,「とまってても,しんかんせんだよ」。「・・!」。お母さんはすっかりやりこめられています。

 男の子の感性と女であるママの感性がすれ違っています。男の子は速い動きに憧れているから,その速さを体得したいという願いそのままです。ところが,ママが早く走れないという現実を突きつけてきました。それでも速さを秘めている新幹線,停まることもある新幹線,その同一性を体験から知っているから,切り返してきました。男の子は速さ,ママは早さ,同じ「はやさ」でも思っているイメージが違うのです。男の体験を持っているお父さんの出番です。ママの感性をあまり強引に押し付けようとすると,男の育ちがしにくくなります。「そうなんだ」って,受け止めておいてくださいね。

・・・子どもの言葉を読み解けば,体験の質が浮かび上がってきます。・・・


 ○体験知?

 小学校の先生が国語のテストに漢字の書き取りを出題しました。その中に「わんりょく」,「うもう」がありました。正解は「腕力」,「羽毛」です。ところが,一人の子どもが,「犬力」,「羽牛」と答えたのです。ワンは犬,モーは牛というわけです。先生は○も×もつけられずに,大きな☆をあげたそうです。余裕がありますね。それに☆印をつけてあげたところがうれしくなります。正誤の尺度から離れて,子どもが体験から絞り出した答えに敬意を表しています。

 犬の力,羽のある牛? 子どもはその答えを書くとき,何を思っていたのでしょう? 怖い犬の力=わんりょく(腕力),妙に頷いてしまいませんか? 羽のある牛が「ウモウー」と鳴きながら空を飛ぶ姿,ママが読んでくれた絵本に登場していそうですね。子どもは自分の体験を総動員して,言葉を紡ぎ出そうとします。言葉はイメージですから,見たり聞いたりしたことと直結します。○×の厳正な目は,子どもの豊かなイメージをあっさりと拭い去る消しゴムです。

 数年前のある夫婦の風景です。NHKの「私の青空」と言うドラマの中で,おじいちゃんが孫に「たけのこは大きくなると竹になる」と教えている場面がありました。妻が「そんな事誰でも知ってるよねー」と言おうして,隣の夫の方を向こうとした瞬間です。隣から「エー!!マジ!」と言う驚きの声がしました。「・・・・」。妻は結婚した事を一瞬後悔したそうです。そんなことも知らないなんて! でも,似たような状況は誰でもあるでしょう。枝豆って大豆だと知ってましたか?

 タケノコが竹の子であることは,竹林に入った経験があれば,その場のイメージとして記憶に残ります。食材としての皮付きの尖ったタケノコしか見たことがないと,理屈として竹と結びつけなければなりません。一目瞭然という学びもあるのです。因みに,タケノコはいつタケになるか知っていますか? タケノコの成人式はいつかということです。タケノコは筍と書きます。この字に含まれる旬とは,上旬などというときの旬で10日間という意味です。その頃に皮が剥がれて竹になります。

 小学2年生の子どもが,宿題の暗記が覚えられないと泣いていました。お父さんが,「お父さんの脳みそはもう硬くてだめだけど,子どもの脳みそは柔らかいから,何でも覚えられるから頑張れ」と励ましてやりました。一時張り切って覚えようとしていましたが,しばらくして「僕の脳みそ,柔らかすぎてはね返ってくる〜」と泣いていました。子どもは面白い言い方をしますね。柔らかくてはね返るとは逆のようですが,脳をゴムまりのようなものと思ったのでしょう。

 暗記をする基本は,書くことです。書くという動作と,書いた結果を目で見るということ,その二つがセットになって体験になります。体験とは自分の身体でしたことですよね。自分の手で書いたものをイメージとして捉えて記憶する,それが暗記なのです。口で唱えても,メロディがついていない音は簡単には記憶に残りません。学びがノートを取る形を取るのも,記憶の助けになるからです。面倒なことをさせる,体験させているのです。

・・・子どもの言葉は体験そのものと直結していて,未整理なのです。・・・



《体験学習とはキャンプなどの行事ごとではないと心得て下さい。》

 ○子どもの言葉は未熟です。その未熟さは体験不足に寄ります。それでも,子どもは未熟な言葉を懸命につなぎ合わせて考えています。お風呂にいっしょに入っていた娘から「おなににやさしいってなに?」と尋ねられたお父さんが,「オナニー?」,ドギマギして娘の方を見るとシャンプーの容器を持っています。「お肌にやさしい」の肌を何と言っていたのでホッとしました。知っている言葉だけがつぎはぎになって口に出てくるから,とんでもない未熟な会話になります。

 さらに,たくさんの情報の中で育つ子どもたちは,確かに言葉が豊かになっているように見えます。しかしながら,言葉の意味が浅くなっています。深い納得をしていません。人の痛みや思いやりという,生きる上で大事な言葉が生きることに結びついていないようです。普段の言葉が体験に結びつかないままになっているからです。おそらく気持ちがいっぱいつまった暮らしから外されて育てられているのでしょう。邪魔だからあっちに行って大人しくしていなさいと・・・。

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