『育ちには 親も一緒に 共育ち』
■徒然子育て想■
『体験ソフト?』
今の若者たちが幼かった頃,幼稚園ではハリネズミ弁当なるものがありました。おにぎりやおかずの一つひとつにプラスティックの楊枝が刺さっているのです。箸がうまく使えなくて,先生に迷惑を掛けてはいけないと考え出されたママの知恵です。箸を使えるようになる折角の訓練の時期なのに,しつけを放棄してしまいました。なんとなくその場がしのげればいいという逃げが,子どもたちの大事な能力を枯らしてきました。
箸や鉛筆の使い方など,大したことではない。それよりも英語や算数を幼児期から学ぶことの方がずっと将来にためになる。そのような知育に片寄った子育て意識が,育ちのペース配分を誤らせます。知育がいけないということではありません。そればっかりになるということが不自然なのです。お勉強に幼いときから打ち込んだ子どもは,確かに利口な子になりますが,伸びの頭打ちが早く訪れて,小利口にまとまってしまうようです。疲れてしまったり,天狗になって脇道に逸れたり,なめてしまうという人の弱さが残っているからです。
体験という土台が小さい上に繰り返し反復という作業で知識を積み込んだにしても,どっしりとした構えにはなりようがありません。最近の学力の低下という心配も,土台の貧弱さに原因があります。教える内容量を減らさないと詰め込めないというのは,土台の手抜きのせいです。ところで,手抜きや手当てという言葉がありますが,人としての能力は二足歩行により前足が自由になり手になったことから発生していることを思い出すべきでしょう。
犬と猫がケンカをしたら,犬は噛みつこうとします。前足は穴を掘るときに使う程度です。一方で猫は前足で引っ掻こうとします。木をつかまえて登ることもできることから,手に近い使い方ができます。ケンカは猫の勝ちになります。手を使うこと,手で作業をする,例えば,運転手や機関手,歌手や話し手,書き手など,特殊技能を持つ人を手で表してきたように,手=能力であったのです。当然,能力は知能というソフト,脳の働きが付随します。
体験の中で手を使うと,そのプロセスはソフトのインストール作業に相当し,様々な知能ネットワークが脳内にメモリーされていきます。体験が少ない脳コンピューターは,キーボードからたくさんの知識データを打ち込まれたら,処理が追いつかず反応が遅くなり,終いにはハングアップし,フリーズするのが関の山です。子ども時代は立ち上げの時期ですから,基本的生活習慣というOSに,豊かな体験という高機能ソフトをきちんとインストールすべきです。知識というデータは,その後から打ち込んでも十分間に合います。
幼児期の体験が大事であることを,三つ子の魂百までと言ってきました。今は知能のベースが幼児期にできると理解されていますが,それは知識ではありません。ポケモンキャラクターの名前をたくさん覚えることができても,それはファイルがメモリーされただけで,決して知能というソフトではないのです。ソフトは目に見えないところでしか動いていないので,気がつかないのです。ディスプレイ上に見えるデータに目を奪われていると,中途半端なインストールでお茶を濁す羽目になります。
【質問15-07:ママは,どうして子どもの力を借りないの?】
○肩代わり!
料理がお好きでないお母さんが,ある日ふと思いついて,4歳になる息子に料理の味を尋ねてみました。「ウマイのとマズイのが合体したうまさ」と感想を言われました。食べてみたら本当にその通りで,息子の表現力に脱帽したということです。食べること,味を見分けることは生きることに直結しているので,子どもといえどもかなりの程度まで完成されています。ただ,その感度が今の時代には妙に贅沢で甘やかされすぎているのが気がかりです。そこで,先ず子どもを味見番に採用します。
相対的に甘くて柔らかい食事にずれている今風の嗜好は,一生の健康のためには矯正した方がいいのですが,そのためにはママの味見,うまいという味覚を商業的味付けから離していくように心掛けてほしいのです。子どもに味見を頼みます。ウマイのとマズイのが合体したうまさ,そのまずくはないというレベルを維持しながら,少しずつ今風のウマイから外していくようにします。味の感覚は慣れるという習性があるので,望ましい美味さに矯正できます。お袋の味の復権です。
冬のある朝,冷えるのでガスヒーターを点けようとスイッチを入れたが入りません。「コンセントは入ってるし,ガス栓も外れてないし・・・」とママが焦っていたとき,5歳になる息子さんがやって来て,無造作にチャイルドロックを外してくれました。慣れない機能は使うもんじゃないと,ママはちょっぴり反省です。家庭にある便利な製品類のスイッチは,大人にはやっかいな代物です。頻繁に使うスイッチ以外は,何がどうなるかほとんど理解していないことでしょう。
機械類が苦手なママもいらっしゃるでしょう。子ども,特に男の子は機械類が好きです。スイッチがどんな機能を引き出すか,ほんの数回の試行,あるいはパパが扱っているのを傍で眺めているだけでも,理解してしまいます。その物覚えの良さを利用してください。子どもに頼るのです。子どもは喜んで力を貸してくれます。「ママはダメだなあ」なんて得意げにやってくれます。頼りにされること,それは自分の能力に自信を抱かせることになります。ママも楽になり,一挙両得です。
こんなしつけは,案外とやられているのではないでしょうか? あるご家庭で,子どもの浪費を防ぐ意味で,「うちは貧乏だからお金がないんだよ」と教えています。ある日,一緒に買い物に行ったときのことです。4歳の息子さんが「ママ〜あれ買って」と言ったとき,7歳の娘さんがすかさず「うちは貧乏だから買えないんよ!」と叫びました。目の前の店員さんも,その場の空気も凍ってしまいました。ママは穴があったら入りたかったそうです。
日頃からママの言って聞かせていることが,見事に子どもにしつけとして実現しています。貧乏とは思い通りにモノが買えないということだと,ちゃんと分かっています。お姉ちゃんも,その言葉を自分に向けてつぶやき,たくさん我慢してきたことでしょう。お姉ちゃんは弟に対しては,ママ代わりを務めるものです。その言動はママの生き写しです。しつけを手伝ってもらったら,ママも楽になるでしょう。でも,貧乏と大声で叫ばれるのは,ちょっぴり恥ずかしいかも? 大して気にせず明るく言い切ってしまえば,案外と開き直れるものですよ。無理は言いませんが?
・・・子どもが役に立てることは,けっこういろいろとあるものです。・・・
○教わる?
ある日曜日の昼下がりです。買い物に出ようと思い立ったのですが,そのときママはスッピンでした。小学校5年生の娘さんに,「お母さんスッピンなんだけど,このまま出かけていいかな?」と聞いてみました。娘さんはママの顔を一瞥し,「お母さんの顔を見つめる人なんかいないから,いいんじゃない」という返事でした。そのとき以来,ママはスッピンのまま平気で外出するようになったということです。どうなんでしょうね。
身だしなみについては,母と娘というペアは関心を共有できるのでしょう。オシャレについては,人目よりもご本人がよろしいと思えばいいんではないでしょうか,としか言えません。ところで,無化粧という選択もあり得ますし,若いママには素肌の美はとても似合うと思いますが? 「誰も見ていない」という娘さんのコメントは,ママへのちょっとした意地悪かも? 若い自分は見られているが,ママはもう見てもらえないと挑戦しています。若さの自惚れを仲良く共有してください。
中学2年生の息子に向かって,ママがぽつりと「今,お金が無くて…」と言ったことがあります。即座に「お母さんが無駄使いをするからだ」と返ってきました。「例えば?」と尋ねてみると,「毎日のビールがムダだ」とおっしゃいます。そこで「何を言う! あれはお母さんの疲れを癒す唯一の楽しみじゃない!!」と反論してみました。すると「ちっぽけな楽しみだねぇ〜」と冷たく言われてしまいました! そう言い切られると,確かにと思ってしまうとは?
いつまでも子どもだと思っていたら,フイッと大人の痛いポイントをさりげなく突いてくるようになります。子どもはあらゆる面で未熟な子どもではありません。ある部分では大人を凌ぐこともあります。思いやりなど,大人も顔負けすることがあるでしょう。育ちは凸凹していると考えておいてください。特に生き方について,大人の夢や志などから見習おうとする時期には,かなり厳しい目を向けてきます。子どもに見られている大人,しっかりしなくては恥ずかしいですよ。
休みの日にパパが,4歳の娘に「大きくなったら何になりたい?」と尋ねました。「ネコちゃん!」と嬉しそうに答える娘にちょっと頭がクラクラしましたが,気を取り直して,2歳の息子に「あんたは?」と聞いてみました。「ボクはねぇ,大人にはならないの。ずっと子どものままでいて,お母さんにお小遣いをもらって,一生遊んで暮らすの」。やっとしゃべれるようになったばかりで,そんな人生設計するか,と先行きの重たさを思い知らされたそうです。
大人になりたくない子どもたち,遊んで暮らせることを願う子どもたち。増えてきました。苦労して手に入れるからこそ喜びがあるということを教えられていないのですが,かなりの程度は時代の特徴です。豊かさは遊んで暮らせることであり,子どもを何の苦労もない世界に追い込んで育てています。子どもは社会の試験紙です。自分の身をもって,社会や家庭の有り様を訴えてきます。これでいいんですよねと,人生設計の確認申請をしようとしています。許可できますか,それとも変更ですか?
・・・子どもは,親が見過ごしている身近なことを気づかせてくれます。・・・
《子どもは足手まといになるだけではないと心得て下さい。》
○負うた子に教えられ。とっても古い,カビの匂いすらする言葉です。負うたという言い方が分かりにくいですか? 蛇足ながら,背負ったという意味です。おんぶするような幼い子どもからも,背負う大人が指針を教えられることがあるという意味です。本質とは意外と簡単なものです。大人は理屈で脚色するからかえって分かりにくくなりますが,ひと言で言えるのです。
子どもの単純な行動や言葉は,その背景にある大事な価値観によります。それを目利きできる大人になる,それが親になるということです。大人とは子どもに教える人ではありません。子どもの中にあるよい価値観を見抜き,共に学ぶ姿勢を持てる人です。子どもを育てることで学びがあるから,親という称号を名乗ることができるのです。謙虚さという古い言葉もあります。子どもの生きる力を,学んでみませんか?