*** 子育ち12章 ***
 

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「第 15-08 章」


『育ちには 選ぶ迷いが 学び時』


 ■徒然子育て想■
『ロード オブ アダルト?』

 家庭をまとめるのは母親,家庭を前向きに動かすのが父親,といわれることがあります。あくまでも二つの役割があるということであり,どちらが担当するかは例示に過ぎません。一人二役でも構わないのですが,それぞれが役割を持つことで,共育パターンができあがるという効用もあります。父親の養育への参画を促す方便としても使えるはずです。そこで,父親の役割が弱いと子どもの育ちがどうなるか,若者に見られる姿からいくつかのポイントをあげておきましょう。

 子どもっぽさがいつまでも抜けずに,純粋に打ち込もうとします。ものごとを主観的に見て,わがままで,社会性に乏しい振る舞いが目につきます。子どもはわがままな状態から出発するので,抑制というしつけが必要ですが,同時に誘導してやることも忘れてはなりません。ダメと押さえつけるだけではなく,こうしたらと皆と仲良く遊べるよと導くのです。ただ我慢するだけではなく,そうした方がもっと大きなうれしいことにつながるという客観的な見方を教えてやりましょう。

 将来のことを考えるときに,「〜をやりたい」と口にしますが,「〜で食べていく」とは言いません。どうやって生きていくのか,いわゆる生計という視点が全くありません。親が子どもより早く死んでいなくなると話すと,目を丸くする若者が増えてます。いつまでも親にぶら下がっていられると思っています。稼ぐということがどういうことか,子どもにしっかりと見せるのは父親の役割です。言って聞かせてもだめです。見せることです。父を嫌うのは,父の生き方が見えないからです。

 願望だけがフワフワと膨らんでいるために,欲望が止めどなく広がり,一方で不満が過大に溜まっていきます。自分には何ができるかを自覚し,やれることからはじめていこうという現実的なチャレンジがありません。社会が悪い,親が分かってくれずに何もしてくれない,人のせいにして逃げています。コツコツとやり続けることの強さ,例えば歩き続ければこんな遠くまで来られたという自分の力を知っていません。すぐそこまでも車でスッといける暮らしでは,自分のすごさは見えませんね。

 簡単には手に入らない願望に先走っているために,目の前にある決断を避けようとしています。何かを決めると願望から遠ざかるような恐れを感じて,決められずウジウジすることもあります。例えば,何のために学校に行っているのか,無駄足ではないのか,意味ないじゃんとか,入口が見えていません。願望とは向こうからやって来るものではなく,自分から近づいていくものです。そのためには,たくさんの決断をして扉を一つひとつ開けていくプロセスを,父親が教えるべきです。

 大人にもなれず,大人になろうともしない若者たち。言い換えると,社会に参画しようとしていない,社会とはどういうものか分かっていない若者たち。見て知っているから分かっていると思い違いをしている若者たち。先輩である社会人としての大人が,後輩である子どもを信頼して鍛えることを怠ってきたせいです。今時の若者はという言葉は,実は養育を母親に押し付け学校に放り出してきた自分の見込み違いに向けられるはずのものです。子どもが育てない社会なんて,寂れるだけです。



【質問15-08:ママは,どうして子どもの選択を却下するの?】


 ○それを言っちゃあ!

 子どもは自分勝手な自然児です。ママは常日頃より息子さんに,「アメはムシ歯になるから食べちゃダメ!」と教えていました。ところが,どうやら祖母にもらっているようです。ある日ポケットにアメ玉の包装紙を発見! 「アメはムシ歯になるって言ってるでしょ!」と怒ると,「そうだよね! いけないんだよね! 今度バアちゃんによ〜く言っておくからね! バアちゃんは年寄りだからすぐ忘れちゃうんだよね!!」と慌てて弁解をしていました。

 ママにすれば,「一番悪いのはおまえぢゃ」と言いたいところです。子どもは自分が悪いことは重々分かっています。分かっているから,おばあちゃんのせいにして逃れようとしています。素直に認めないことで,悪いことの上塗りしています。子ども時代には一度の軽い悪さは許されます。肝心なことは,悪かったと認めて反省することです。反省できることが健全さの条件です。言い逃れをすると,その先には反省がなくて,戻れなくなります。人のせいにする卑怯さは,断固正しましょう。

 ママをとっても大好きな3歳の娘さんがいます。それに引き替え,パパが寄ってきても「パパ嫌い,ママ好き」というので,パパはへこんでいます。ところが,ある日自分から寄ってきてパパにキスをしてくれました。パパがすごく喜んでいると,「これでいいでしょ。アレとって」と高いところにあるおもちゃを指差しました。自分のキスの価値を知っているのでしょうか・・・。驚かされたパパがおられました。誰のおしこみなのか,強かな娘さんです。

 手玉に取られていることが分かっていても,娘の言うことであれば喜んでしてあげるのが,パパの優しさであり,弱点です。やがて,パパはご機嫌を取り結ぶためにママに内緒で無理をするようになります。一方,娘は,ちょっと甘い態度を見せれば,パパなんてイチコロという手管を身につけていきます。パパ限定にしておけばいいのですが,ついついよそのおじさんにまで仕掛けていくようになり,深い淵へと身を滅ぼしていきます。たいがいにしてくださいね,母娘でパパをいたぶるのは?

 4歳になる娘さんが公園でお友達と砂遊びをして,お団子とか食べ物を作って遊んでいました。傍でニコニコと見守っていたママが,お友達に「これなあに?」って聞くと,それぞれに「カレーライス」とか,「ハンバーグ!」と答えてくれるのに,ママの娘さんは「砂っ!」。確かに砂には違いはないのですが,どうにも複雑な思いのママでした。よく言えば真面目で正直な娘さんですが,遊びの世界に浸れない真っ直ぐさが気になりますね。

 友だち遊びの基本は,世界を共有すること,その場の雰囲気を共同制作することです。雰囲気を壊す言動は,仲間はずれの元になります。ママの心配は,まさにそのことです。娘さんが「砂」と答えざるを得なかった背景があるかもしれません。友だちがママに楽しげに答えているのを耳にして反発したくなったり,ママには冗談は通じないと思っていたり,ママとの現実の関係のあり方も考慮されるべきです。単純には,カレー,ハンバーグと言われてしまって,他に思いつかなかったせいかもしれません。お子さんの好きな「ケーキかな」って,言い換えてやる手もあります。さりげなく誘ってやってください。

・・・子どもはつい弾みで道を逸れていきますので,ママはご用心。・・・


 ○余計なこと?

 スーパーでの風景です。小さい男の子が「ママーこれ買って」と騒いでいました。母親らしい人が「あかん,ゆうとるやろー。そんな金ない」と叱ったため,「これ が食べたいんだぁー」と泣き叫んでいました。どうせお菓子かなんかだろうと思ってその子の手を見てみると,『かつおのたたき』(半額シールつき)でした。子どもにしてはしぶい選択です。しかもちゃんと家計を考えているみたいだと思いつつ,ちらっとその母親の持つカゴを見てみると,大量のお酒と肉類が入っていました。その場にいた人はみんな,「買ったれよ」と思ったに違いありません。

 端からとやかく言えば,余計なお世話です。何にも分からない癖して,要らぬお節介です。だから,皆は思うだけで見て見ぬ振りをしてくれます。昔はその要らぬ口出しがご近所から入っていましたから,親子の権力差が縮小できていました。自分は嗜好品を手にしながら,子どもには与えない,普通なら理不尽です。自分の身勝手さは気がつかないものです。ほどほどにしておくためには,傍目からどう見えるか,少しだけ自己チェックしてみることです。ちょっとだけですよ。

 お母さんが小学校に入学したばかりの長男と算数のお勉強をしていました。『問題:75円あります。3円つかうといくらのこりますか?』と読んでいく途中で,いきなり息子が母親に質問です。「ねえ,おかあさん,3円で何が買えるの?」。「今はそんな余計なことは考えなくていいの」って言おうとして,いったい何が買えるだろうと一緒に悩んでしまうママでした。こんな計算を練習して何の役に立つのと問いつめられたら,何と答えたらいいのでしょう。

 お勉強とは現実を総合して作り上げた虚構の世界です。(75−3)という計算は現実世界で起こり得ます。数字だけの計算ではあまりに抽象的で一年生には取っつきにくいので,現実味を帯びさせるために,暮らしの世界で出会う「円」というお金の計算に脚色してあります。もっとも,このケースではあまりよい脚色ではありませんね。具体性を持たせるなら,一年生の暮らしを見極めた問題にすべきであるというのが正論でしょう。そんなときは(75−3)人と変えてみませんか?

 小学1年生の男児が,夏休みの宿題である「夏休み中の日記」を,初日の一日で全て書き上げ大得意になっていました。そこまでは,やったことのある人もいるでしょう。ところが,その子はその偉業?をどうしても自慢したかったらしく,最後の日付の日記に「これらの日記は,○月×日にいっきに書きました」というコメントを入れたのです。担任の先生から叱られたのはいうまでもありません。馬脚を現してしまいましたが,ご愛敬ですね。

 蛇足のひと言。それですべてがご破算になります。しかし,結局はそれでよかったということがあります。嘘がばれてしまって,深みに嵌らなくて済むからです。ずるをしたらそれを威張ってみたくなり終いにはばれてしまうという人の弱さを思い知ったことでしょう。余計なひと言は自分を救う学びになります。悪知恵には尻尾があって,それをいずれは自分で踏むことになっています。子どもの嘘は見え見えなので,ときどきは見逃しても,ここ一番のときには尻尾を引っ張ってやりましょう。

・・・子どもの思考回路は単純で,大人のものとは少し違います。・・・



《子どもの選択は,混乱しているようで半分はまともと心得て下さい。》

 ○生きるプロセスは,選択することの連続です。いつ生まれるか,いつ死ぬかは神様の選ぶことですが,どう生きるかは人が選びます。今日のおかずは何か,それはママが選びます。思いついたままに選ぶこともあれば,あれこれ損得を考慮して選び抜くこともあります。選ぶには好みや損得,善悪や正誤,美醜といった価値尺度に拠ります。子どもの尺度はまだ完全ではないので,いろんな選び間違いをしますが,それは仕方がありません。軌道修正をするには,選んでみなければ始まりません。

 親の役割は,子どもの選択間違いを見届けたら,もう一つの選択肢を教えてやることです。子どもは,これしかないと思い込むところがあり,選んでいるという自覚がありません。こんな選択もできると教えれば,世界の理解が広がります。物事が分かるというのは,選択肢を増やすことでもあるのです。しかしながら,当然選択には迷いが伴います。迷うことで,メリットを見極めようとして,いろんな価値観を探すことができます。子どものうちは迷いも学びの一環なので,つきあってください。

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