*** 子育ち12章 ***
 

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「第 15-09 章」


『育ちには 関心の先 学び道』


 ■徒然子育て想■
『節目育ち?』

 子どもの世界は,育ちの環境として設けられている制度によって,階段状になっています。そこに,節目が現れてきて,育ちの年輪が形作られます。幼稚園の年長さんは威張っていますが,小学1年生になると大人しくなります。小学6年生はノビノビして大きいのですが,中学1年生になって相対的に小さくなってしまいます。膨らんで縮んでという繰り返しがあり,それが引き締まった世代年輪を刻むことになります。

 その局面に刺激されて,大事な育ちがあります。人との関係が逆転すると,怖い,不安といった感情が呼び込まれます。相手が自分をどう評価するか,ということを突きつけられます。このとき他人の目が自分の中に生まれますが,この他人の目が新しい環境で通用するかどうかの不安があるのです。この他人に成り代わる自分,それをこの子育て羅針盤では,もう一人の自分と言い表してきました。子育ちがこのもう一人の自分の育ちであるという点で,節目の育ちは重要です。

 子どもには小さな節目が一年毎に準備されています。普段はあまり意識されることはないでしょうが,フッと自分の立場として思い出される場合があります。自然体験キャンプに参加した女の子が「怖かった。泣きたくなった。でも,下級生の前では泣けない,我慢した」と語っています。お姉ちゃんらしさは,妹分を意識する局面で培われます。子どもなりに育ちはこうあらなければならないというモデルが意識され,自分は育っているかという自問が突きつけられるのです。

 園庭で子どもたちが遊んでいます。鉄棒の周りに年少組が立って,年長のお兄ちゃんのでんぐり返りを見ています。お兄ちゃんは得意になってして見せています。微笑ましい風景が目に浮かびますね。傍にいた若い先生が「ほら,あなた達もしてみたら」と声を掛けようとしましたが,園長先生は「黙って,もう少し見させましょう」と制止しました。子どもは子どもたちの中で育つという思いからです。

 子どもにとって年長の子はとても大きく見えます。さらに,大人と違って自分たちの世界にいる仲間です。その年長の子が上手にして見せてくれると「スゴイ」と感動して,同時に「してみたい,してみよう」と思います。年上とはいえ同じ仲間ができるのを見ると,自分にもできるかもしれない,できそうと思います。能力の小さな節目を見つけることが育ちにつながります。大人にはとうてい及ばないと知っていますから,大人がして見せてもできなくて当然と思います。

 子ども同士の方が,大人が教えるよりも何倍も早く覚えます。教え方が上手なのではなくて,年長の子が楽しんでいるから,一緒に楽しみながら覚えていきます。一方で,年長の子はしてみせることで工夫したり,言葉を見つけたり,優しさを学んでいきます。急かせるのではなくて,「できたよ」とうれしそうにしているときに,「よくできたね」,「がんばったね」と努力を認めてあげましょう。間近な節目が切磋琢磨の場面なのです。



【質問15-09:ママは,どうして子どもの関心を逸らすの?】


 ○理解不能!

 4歳と2歳の姉妹が,ぬいぐるみと病院ごっこをしています。長女が「あっ,キティちゃんがケガをしてます。血が出てるーっ。早く救急車を呼んで下さい」と言うのに,次女は「きゅーっ きゅーっ しゃーっ」と返しています。ママは陰で「いち いち きゅー」とつぶやきながら,幼い姉妹に119を教えたら,本当に電話をしてしまうかもしれないと恐れていました。そこで,本当のことはもうしばらくお預けにすることにしました。「ごめんね」。

 生兵法は大けがの元。幼い子どもは正確な知識を間違いなく使いこなせるとは限りません。使えるようになるまで教えないという選択も大切です。救急車を呼ぶことが分かっていれば十分です。子どもの関心に全部きちんと応える必要はありません。年齢に相応しい対応をすればいいでしょう。子どもは遊びと実生活を区別しようとはしません。遊びの世界にいる子どもは,現実をディフォルメしているので,細かいところは不正確でもいいでしょう。気にすることはありません。

 3歳くらいの女の子が,ママに叱られています。ママはどうやら本気です。「きちんとママにお話できるようになるまで,トイレに入ってなさい!」と言われて,トイレに押しこまれてしまいました。数分の後,トイレから出てきました。「きちんとママに話せる?」と聞かれた女の子は大きくうなずき,「あのね,あるところに蛙の親子がいてね・・・」。ママはビックリしましたが,やがて気がつきました。女の子は必死になってママにしてあげる「お話」を考えてきたのです。

 賢明なママはもう事態をすっかりお分かりですね。ママはどうしてこんなオイタをしたのか説明しなさいと言うつもりでした。しかし,説明という言葉は幼子には通じません。そこで「お話をしなさい」と分かるように言い換えました。ところが,幼子の知っている「お話をする」という言葉は,文字通りにお話をすることでしかありません。伝えたつもりが伝わっていなかったのです。子どもの関心事は,オイタの言い訳などではなくて,ママにお話ができるうれしさなのです。

 まだ「す」と「し」がちゃんと発音できない2歳の女の子がいます。毎晩ママが読み聞かせている童話を得意げにマネて,「むかしむかしあるところに,おじいさんとおばあさんがしんでいましたー。おーしまい」と言って明るく喜んでいます。その後に「さ行」の猛特訓を受けている理由までは理解していません。「住んでいます」が「死んでいます」では,意味が大違いです。間違いにも程というものがあり,ママの慌てぶりは分かりますね。

 ひらがなだけでかかれたぶんしょうはとてもよみづらくはありませんか。かんじをしらないようじのことばのせかいはこのようなせかいなのです。すんでいますとしんでいますのあいだにはそれほどおおきなちがいはかんじられません。ましてやしんでいるということばがなんのことかわからないのですからいっこうにきになりません。むかしばなしのえほんをいめーじしながらことばをかさねることにかんしんをもっているのにままはかんけいないことをさせようとしているとおもうでしょうね。でもはなすばあいはひらがなのおとをはっするだけなのでいっそうせいかくなはつおんがひつようになります。おつかれさま。

・・・子どもは自分の知っている世界にしか関心は向きません。・・・


 ○子どもらしい関心?

 お父さんが散髪を終えて家に帰っってきました。3歳の息子がパパの頭を見て「お父さん,散髪してきたん? 飴ちゃんもらえた?」と聞いてきました。もらえなかったと答えると,「お父さん,あかんたれやなぁ…」と言われてしまいました。息子が行っている散髪屋は,かしこく散髪ができたら飴ちゃんをくれるみたいです。お父さんはちょっぴり残念な気分にさせられていました。あなただったら,そんな息子の関心にどんな言葉をつないでやりますか?

 あめ玉に釣られちゃって,お前さんはしっかり子どもなんだよ。でも,笑えませんね。ママだってポイントが付くからってご贔屓のお店がありますから。モノは違っていてもご褒美に釣られるのは,大人も子どもも大して変わりありません。チリも積もればの言葉通りに,おやつ代が節約できて結構です。せこいと思うかしっかりしていると見るか,どちらでも構わなければ,身につまされるときは苦笑いをしておくことです。お父さんは飴ちゃんなんか欲しくはない,と威張っても詮無いことです。

 ママが1歳半の息子を連れて外に出ていたとき,近所の人にキャンディをもらいました。ママはしつけの機会と思って「こういう時は何て言うの?」と聞きました。息子は手を差し出して「もう1個!」。「!!」。ママはそんなこと教えた覚えはありません,と呆れるやら恥ずかしいやら,ひどい目に遭わされました。自分の思いに正直な子ですが,お付き合いという面では今後のしつけ甲斐がありますね。当分の間は,笑って誤魔化すしかありません。

 今一番関心のあること,それは目の前にあるキャンディですよね。ママが言った「こういう時は」という言葉は,今このときに持っている自分の関心によると,という意味に受け取られてしまいました。ママは近所の人と子どもの今の関係を言うつもりでしたが,場の雰囲気などは読めるはずもありません。1歳半ではまだ自分と人との関係を見て取れる「もう一人の自分」は誕生していません。もう一個! それはごく自然であり,親のしつけができていないなどと思われることはありません。

 5歳の息子が数日前に頭にちょっとした怪我をしてしまいました。怪我も癒えてきたので,頭を洗ってやることにして,シャンプーをしようとしたときです。息子は怪我の痕が気になると見えて,「おかあさん,どうなってる?」と聞いてきました。「もう,かさぶたになっているから,だいじょうぶだよ」と安心させたつもりだったのですが,息子は「かさぶたって,ブタなの?」と思いもかけぬ展開になりました。子どもって,わけの分からないことを言うものです。

 かさぶた=傘を被ったブタ? どんな妖怪なんでしょう? 頭がブタになっていると想像したら,怖いですね。子どもの連想はとんでもなく飛躍しているようでいて,実はとても単純です。ぶた,だから,ブタ,なのです。かさ=傘,ぶた=ブタ,知っている言葉をつなげば,当然の帰結です。それ以外にありません。怪我の痕に関心を抱いたのは初体験でしょう。そのときでなければ出会うこともない言葉なので,意味が伝わらなくても仕方ありません。痛い体験も含めて,子どもの言葉は体験とつながって増えていきます。大笑いしてバカ扱いは控えてくださいね。

・・・知らないことがあってもいい,これから知る楽しみになります。・・・



《子どもの関心は無知で奔放で無礼ですが,純真だと心得て下さい。》

 ○見るもの聞くものはじめてで,物珍しいのが子ども時代です。情報化の中で,見聞する機会に恵まれている子どもたちは,いろんなことに関心を持たされるようになっています。簡潔に言えば,移り気になっています。あれもこれもと目移りして,結局どれが自分の関心事なのか分からなくなっていきます。彷徨っている気分が昂じてくるままに放っておかれると,落ち着きを失い,自分を見失い,自分を嫌になり,寄る辺のない不安に苛まれ,終いには感覚的刺激を求めるようになります。

 関心を持つことはいいことですが,じっくりとつきあえるようなゆとりのある時間を持たせることが大事です。テレビをつけっぱなしなどというのは,望ましいことではありません。自分の関心ではなくてテレビ局の関心を押し付けられるからで,子どもには抵抗力がないために放置すると危険です。子ども自身の体験に基づく関心を,一歩一歩先に進めることができるように大事に見守ってやってください。

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