*** 子育ち12章 ***
 

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「第 15-10 章」


『育ちには 感動の花 道標』


 ■徒然子育て想■
『6.1ショック?』

 6月1日の学校の恐怖。忘れものないか? ない。振り向くこともなく通り抜けて学校に出かけた愛娘が・・・。天国から見守っていたはずの母親の涙は,いかばかりであったことでしょう。カッターナイフを首筋に振りかざして襲いかかってくる友を,どのような思いで受け止めたのでしょう。何が起こったのか? どうして? 残されたものは,わけが分かりません。6年生の小さな諍いがあまりに重い結末を掘り起こしてしまいました。想像するのも嫌ですが,きっちりとその痛ましさを受け止めておくことから哀悼は始まります。

 悲劇の回廊には,いくつかの扉があります。もしもあのとき,あの扉さえ閉まっていたら,そう悔いることがいくつかあります。たまたますべての扉が開けっ放しになっていたせいで,暗闇の淵まで一直線に吸い込まれていきました。中間の扉は,チャットという世界に通じていました。チャットなんかしなかったら,それが扉を開けないという選択です。しかし,チャットの扉を開けたからといって,悲劇の世界に直接入るわけではありません。非難中傷するという扉を開けさえしなければよかったのです。そのつもりがなくても,受け手がどう思うかという扉の不思議があります。

 ネットの世界でコミュニケーションすることが,若い人や子どもに好まれています。気楽に思いが表明できるということのようです。どうしてなのか? 少子化できょうだいが少なくて,会話の訓練ができず,核家族でコミュニケーション能力が培われず,人と直接言葉を交わす力が身に付いていないからであるという指摘があります。直接の会話では言葉が流れていて,普通は一つひとつの言葉が鮮明に残ることはありません。さらに,記憶するときには,自分の言葉で書き直しているので,意味の緩和が起こります。

 書かれた文字による対話は,画像として文字が残り,曖昧さがなくクリアです。その明瞭さが若い人に受け容れられている要因でしょう。しかしながら,それだけに悪意に満ちた言説は,効力をいつまでも保ち続けます。聞き流すことのできない,見過ごしにできない,強烈なインパクトを視覚的に打ち込まれてしまいます。ネット上であれば,公開という側面が付け加わり,言いふらすというおまけまで付きます。メリットは逆に働き,悪意?を増幅していきます。

 間接的な会話は,お互いに確認ができません。そんなつもりで書いたのではないという話者の意図とのすれ違いは,修復できないままに,受け手である自分の中で反復してかえって疑心暗鬼は広がっていきます。また,間接的であることは,陰の声として本音であるという勘違いを産み出し易いという特質があります。表情や口調や語調といった感情表現が伴わないことも,むき出しの言葉が持つ鋭いトゲを抜きません。

 言葉の世界のことは言葉の世界の中で解決することが原則です。それが身体的な世界に向かう扉を開けて,危害を加えるという実行行為に突き進むことは反則です。さらに,素手ならまだしも,凶器を手にするという扉も開けてしまいました。まだまだ他にいくつかの扉があるのですが,無造作に開けっぱなしになっていたようです。社会のありようが,近づいただけで扉が開くような自動的な構造になっているのかもしれません。これからの注意深い分析を期待しましょう。



【質問15-10:ママは,どうして子どもの感動を茶化すの?】


 ○知的感動!

 自称大変な音痴と言われるお父さんがいます。悲しいことに神様は私に音感とかリズム感とかを与えてくださらなかったと嘆いています。そんなお父さんにも,7歳の息子さんからは○○ってどんな歌だっけ?と聞かれることがあります。そこで,音痴なお父さんは歌詞を覚えてないので,「ラララ〜」とリズムだけを教えていました。ところがある日,いつものように「ラララ〜」と教えていると,とうとう息子さんに「お父さん,お父さんて,ドとかレとかミとかって,知ってるっ?」と言われてしまいました。お父さんはどう落ち込んでいいのかわからなかったそうです。

 好きな音楽は小さな感動を呼び起こします。ちゃんと歌えるようになると,感動はより深くなります。何かができるようになることは,子どもにとってはワクワクすることです。歌のメロディを覚えるには,音符という道具の助けがあれば楽です。「ラララ〜」であっても耳移しで伝わるのですが,発声の時には音符の方が確実性があります。とはいえ,音痴ではなくても,音階で歌えるお父さんは数少ないのではないでしょうか? 楽器の一つも演奏できたらいいでしょうが。

 お父さんは,今年36歳になる年男です。その話をお母さんとしていたら,娘さんが話に入ってきました。「お父さん,さるなん?」。「そうやで」。「へぇ〜,めずらしいなぁ」。「そうかぁ?」。「うちの周り,みんないぬやで」。トントンと進んできた対話が,ガクッとギャグに様変わりです。子どもには,別の意味でギャップがありました。お父さんは,「いやいや,あんたは小学校4年生。同級生は戌(いぬ)か亥(いのしし)しかおらんやろ…」と苦笑いです。

 自分の知識とは違うものごと,珍しいことを知ったとき,不思議という感動があります。子どもの知識は,子どもの世界と深く関連しています。子どもたちの日常世界であるクラスは,とても特殊な世界だということですが,普段はあまり意識されていません。干支というキーワードが,その特殊性を浮き上がらせてくれました。子どもが自分の世界は特殊だということに気づく前に,外の世界の方が珍しいと感じるのは仕方のないことです。人は自分中心なのです。不思議という感動が新しい世界の認知に向かうチャンスです。

 お父さんが小学3年生の息子の理科の宿題をみてやっていました。「いくつかのふしに分かれているのは,ア.頭,イ.胸,ウ.腹,のうちどの部分ですか?」という問題がありました。答えは腹ですが,息子さんにはそれがわかりません。とうとうお父さんが,「答えは"腹"だろー,お母さん見てみろ」と言ってしまいました。息子さんは思いっきり納得していました。生涯忘れないことでしょう。でも,お父さんは,余計なひと言のせいでどつかれて痛い思いをしたのは言うまでもありません。

 そうか! 分かる瞬間には感動があります。「腹」と答を教えられただけでは,何の感動もありません。お母さんの腹という普段見慣れた例と結びついたとき,腑に落ちる感覚が納得を産み出します。理由とかわけとかが分かるためには必要ですが,それは類推や連想という形式になる場合がよくあります。子どもの疑問に答えるときに例えを引き出すことが多いのは,同じであるという納得を得やすいからです。それにしても,ママには気に入らない例えでしたが,子どもの理解のためです。

・・・感動があるからこそ,子どもは前向きに学ぼうとしています。・・・


 ○期待像?

 息子さんのお友達の幼稚園児が,不審な男の車に乗せられそうになるという事件がありました。心配になったお母さんは,早速息子さんに尋ねてみました。「もし,知らないおじさんに,車に乗せられそうになったらどうする?」。「ゆーかいされちゃうかもしれないから,はしってにげる!」。一応のことは分かっていると安堵しながら頷き,ついでのつもりで確かめてみました。「じゃあ,おじさんじゃなくて,きれいなお姉さんだったらどうする?」。「う〜ん,どうしよっかな〜。のってみようかな〜」。その返事を聞きながら,どういうわけか,お母さんはふっと「間違いなく夫の子だ」と思ってしまいました。

 男の子にとっては,年齢に関係なく,きれいなお姉さんは最高の感動です? なにも,愛しい夫だけの専売ではありません。男は本質的にロマンチストであり,きれいなお姉さんは悪いことはしないと思い込んでいます。女であるママが,イケメンの若いお兄さんが悪いことをするはずがないと信じたいのと同じかもしれません? もっともこのような期待は宝くじほどのことで,こうあって欲しいという夢に過ぎません。期待に胸躍らせる,そんなうたかたの感動もあります。

 3歳の息子とお母さんが夕食時の会話をしています。その日のおかずである魚を食べながら,「このお魚ママがつかまえたの?」。「そうだよ」。「すごいね〜ママ。泳いで捕ったの?」。ママはつい調子に乗ってしまって,「そうだよ〜」。息子は感動の目を輝かせながら,「ホントにすごいんだね,ママって。裸で捕ったの?」。ママは悪のりしました。「そうだよ〜〜」。「ダメじゃん,裸は! 水着着なきゃ。今度はちゃんと水着着てね!」って,叱られちゃいました。

 男の子は,ママを大切に思うものです。ママを自慢できることはうれしいことであり,ママのすごいところを見つけるのは大きな感動です。だからこそ,いつもちゃんとしていて欲しいという気持ちが湧き上がります。ママの裸を自分以外の人目にさらすことは,男の目ではなく,息子として許し難いことと直感します。自分だけの素敵なママでなければ,そんな独占欲があります。たとえわが子とはいえ,男の子の前ではしたない振る舞いに及べば,憧れの女性像が崩れ去ります。ご用心を!

 普段,充電式のハンディタイプの掃除機ばかり使っているお母さんがいました。たまには本格的な掃除をと,久々に重い腰をあげて,クローゼットから大型の掃除機を取り出しました。それをめざとく見つけた5歳の息子さんが目を輝かせて,「今日はそれ使うの!? 初めてだね!」とのたまうのです。痛いところをチカッと刺されたママは苦笑しながら,「初めてじゃないでしょ」と反撃したのですが,「そうだね,なつかしいね!!」。完全に見透かされていました。

 子どもにとってのママ像は,ご飯の用意をしてくれたり,お掃除をしてくれたり,何やかやと家事をこなしてくれる大切な人です。それゆえに,自然とママのお仕事ぶりはとても気になります。今日はしっかりとしたお掃除をしようとしているんだ,ママガンバレという気持ちから,初心の緊張感を伴って感動を味わっています。でも,初めてじゃないというママの口ぶりに,ちょっぴり気勢をそがれます。それでも,今日は特別のお掃除というエールを送ろうとして,健気です。

・・・子どもは,求めている親としての期待像に感動をしています。・・・



《子どもの感動は育ちの道への誘導灯であると心得て下さい。》

 ○よいものを目にすると感動します。その余韻が自分もよいものに近づけたらいいなという期待になります。その思いが育ちに誘います。お父さんのように,お母さんのようになりたい,その一心で育ちの長い道を走り抜けます。あんなにはなりたくない,そんなマイナスイメージを,子どもが育ちにつなげることは,かなり困難です。自分はどうすればいいのか,それが明確には見えてこないからです。

 よいモデルであることが親に求められますが,それは子どもの心にかすかでもいいから感動を呼び覚ますことです。すごいな,いいな,さすがだな,そんな大人の魅力を子どもは直に感じたいと願っています。後ろ姿で育てるというときには,のんべんだらりと大人の姿を見せておくのではなく,今の輝きを受け取れというポイントがあります。それは子どもを感動させる場面でもあります。恋人の前ではいい格好をしていたのと同じで,子どもの前でも時にはよい大人振りを披露してください。

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