*** 子育ち12章 ***
 

Welcome to Bear's Home-Page
「第 16-04 章」


『育ちとは 人のつながり あってこそ』


 ■徒然子育て想■
『嫌なことは嫌?』

 パッとやってサッとできる。今の暮らしはそんな感じです。ご飯はお米をサッと研いで電気釜のスイッチポンです。かまどに薪をくべて火加減をしていたものです。お風呂も同じでした。洗濯は洗濯機に放り込んでスイッチポンで,洗濯をしサッと乾いてしまいます。洗濯板にゴシゴシと押し付けながら水洗いをし物干し竿に一日干していました。年配の方の暮らしと比べると,今の暮らしはとても楽です。祖父母世代と孫時代は環境が全く違います。

 講演会の記事が手元の地方紙に載っています。子どもの自主性を金科玉条にして身体的につらい作業をさせなくなったせいで,体力不足やブレーキの利かない子どもが増えているという内容であったようです。鍛錬という仕掛けが強制や無理強いという嫌な印象のせいで取り除かれていることへの警鐘です。かろうじてクラブや部活動に練習という形で鍛錬が残っていますが,それもきついという子どもの自主性による理由で敬遠されています。

 3K職場,きつい,汚い,危険な作業が嫌われているという流行語がありました。パパやママのちょっと先輩の世代の頃でしょう。きついこと,確かに嫌ですが,逃げてばかりで,きつい作業をこなしたことがないと,育ちもひ弱なものになります。鉄は熱いうちに打てという言葉の通りに,子ども時代はちょっときつい体験をすることが大事です。その体験には,負けん気とか勇気や自信,我慢や忍耐などの貴重な心の栄養素がふんだんに含まれているからです。

 壁を乗り越えるとか,壁を突き崩すとか,前に進むためにはつらい行動を引き受けなければなりません。嫌なことから逃げていては,前に進めなくなります。逃げていく道は,いわゆる悪の道と重なっていきます。楽して儲けようという道,口先一つで世渡りする道です。そこに至る前には,引きこもったり,不登校といった休憩所を居場所にします。必ずそうなるということではありませんが,その誘導路があるということです。

 かつて,嫌なことから逃げるのは人として卑怯だと信じられていました。真っ当に生きるためには,人はつらいことやきついことといった嫌なことを平然と受け容れる気概が必要です。人の嫌がることを引き受けなさいという父の教えが大事なのです。父親の後ろ姿に気概を見ることをせずに,冴えないといった安っぽいイメージしか持てない貧困な感性が問題です。汗水流して働く,そこにある美しさ,たくましさ,やさしさを見ようとすれば,人は豊かな気持ちを胸に抱くことができます。

 今時そんなことを言っても通用しません。時代の価値は変わったのです。そういう声がこだまとなって返ってきます。自主性に基づいて嫌なことは嫌というべき時代です。がんぜない幼子のわがままが通用する世間になりました。社会を維持するために必須の嫌なことは,それをひたすら引き受けてきたお年寄りに押し付けて,豊かさだけを貪っていられるのも,後わずかです。少子化という選択が,親自身の世代の将来を暗くする選択であったと気がつくまでの束の間です。まだ間に合います。



【質問16-04:子どもは,自分を慈しもうとしているんですよ】


 ○第4条:連帯権!

 内気な性格という言い方はありますが,外気な性格とは聞いたことがありません。気は内にはあるが,外にはあり得ないという洞察が働いているようです。それでは,内向的に対して外向的とは言います。何が内向きで何が外向きなのでしょうか? もう一人の自分が内なる自分を見つめてばかりいるのが内向的,外の他者に目を向けているのが外向的という関係が見えてきます。もう一人の自分は自分と他者の中間に位置していると考えることができるようです。

 内気はあるが外気はないということは,もう一人の自分が自分の中に閉じ籠もることはあっても,飛び出してどこかによそに行ってしまうことはないということです。完全によそに行ってしまえば,それは茫然自失という非常事態です。とはいえ,閉じ籠もっているのは乳児期の状態であり,育ちの進展と共にもう一人の自分の誕生を過ぎると,ちょっと自分の外にはみ出ている状態になると考えることができます。たとえれば,手を伸ばしてディジタルカメラを自分に向けている距離感です。

 自分を褒めてあげたい,もう一人の自分が第三者として自分を慈しむのです。その際にもう一人の自分の目は誰の目とも違っていないという確信が必要です。もしももう一人の自分の目が人の目と違っていると感じたら,もう一人の自分は閉じ籠もらざるを得ません。はじめて会う人は何を考えているか分かりませんので警戒しますが,しばらく付き合ううちに何かしらの共通部分が見えてきて同じだと感じられたら,もう一人の自分は他者と自分との間にすんなりと入り込んで仲良くなれます。

 イジメの一つに無視をするという行為があります。もう一人の子どもは無視されると他者と同じ思いを持つことを遮断され拒否され,外に出られなくなり閉じこめられます。また,叱られてばかりいると,もう一人の子どもはこれでいいという確信が持てずに,いつまでも自分を見る立場につけません。しっかりした子と甘えん坊との違いは,自分を見ているもう一人の子どもが他者とつながって育っているかどうかということです。

 子どもにとって友達遊びが大事なのは,付き合い上手になることであるのですが,もう一人の子どもが他者を知ることで共通性を確かめるという意味があるのです。多少のいざこざがあってもそれを修復しているうちに,あの子とはあのことで,この子とはこのことで仲良くできるという複数のバリエーションを獲得します。そうすることで,もう一人の子どもはより客観性の備わった目を養えるのです。自分を見る目が豊かになり,自分を慈しむことができるようになります。

 どこかで他者と同じという連帯感が保障されると,人間関係における居場所を得て安心することができます。人は一人では生きていけないとか,人の振り見て我が振り直せとか,他者との関係にまつわる言葉は,他者の存在によってもう一人の子どもが育つことができるということを言い表しています。人付き合いが苦手という今の子どもたちは,連帯感が薄いために自分を慈しみ認める力が弱くなっています。その要因は,あまりに仲良くすることにこだわって,正直な付き合いを避けているからです。

・・・生きる心として確保すべきものは,第二に連帯する心です。・・・


 ○浅い関係?

 車の通行が多い4車線の道路を,信号待ちの車の隙間をぬうように横断しますか? 車が見えない交差点で赤信号の横断歩道を渡っていますか? 信号に従って待っていると,全く無駄な時間を過ごしているように見えます。そんな待ち時間に意味を見つけなければ,さっさと渡った方が利口というものです。ただし,公的な約束事を反古にして出会うアクシデントは自己責任を負ってもらえばいいでしょう。

 ところが,自己責任では済まないのです。立場をドライバーに置くと,人がいないはずの所に飛び出されるのは予想外のことです。アクシデントが起こると,結果として不注意という咎めを受けます。見ず知らずの人を危険に巻き込む仕儀になりかねません。ちょっとぐらいという路上駐車が,歩行者を車道に追い出して危険にさらします。もちろんインフラの整備が不完全である状況では,相身互いということもありますが,無神経なのは頂けません。

 社会生活上,危険回避をするためには自分と他人の関係を見て取れる力が必要になります。廊下を走ってはいけないという注意は,走る者の危険と避けきれない他者の危険を含んでいます。あからさまに極言すれば,自損事故は勝手にやってください,でも他損事故や巻き添えは御免ですというのが社会のルールです。走ってぶつかると相手を傷つけるから,走るなという論理があることになります。当たり前のことですが,他者を意識する力が弱くなっている今,再確認しておくべきでしょう。

 人との付き合いには間合いがあります。一方で今はディジタル社会です。この二つを重ねると,人付き合いは関係があるかないかというディジタル傾向になります。仲良く付き合うか,無関係かということです。適度に付き合うという中間のないことが,子どもたちの付き合いを辛いものにしています。仲良しでなければ,付き合ってはいけないということになり,挙げ句は無理矢理拒否しようとさえします。

 どの人と付き合あうかは揺れ動くものです。一時期仲良くしていても,次第に普通の付き合いになることもあります。その中間の付き合いを持てないと,見放されたような気持ちになり,傷つきます。お互いに傷つくのを恐れる理由は,普通の関係を気持ちの中でちゃんと持っていないからです。ことさら皆と仲良くなくていいのです。また,仲良くすることもあればそうでないときもあるというアナログ的な人間関係を持っていれば,人付き合いはもっと楽になります。

 いろんな間合いの人付き合いができれば,仲良しでなくなるとすべて失うという恐怖は消えます。普通の付き合いの中から別の人と仲良しになれるのです。人と切れずにつながっているという確信を持つことが,安心の元です。仲良しでない人は無関係な人ではなくて,ちょっと気遣い合う程度の人にしておきます。子どもたちに挨拶の声を掛けようという運動がありますが,地域の人と普通の付き合いを持つことで,「あなたは一人ではない,皆とつながっているんだよ」というメッセージを送っているのです。

・・・挨拶を交わす関係の中に孤独を回避させる安心があるのです。・・・



《子どもの育ちは周りの人とのつながりが根になると心掛けて下さい。》

 ○優しい人もいれば怖い人もいる。でもそれは固定的ではありません。時と共に変化します。相手が変わっているのではなくて,ほとんどが自分の方が変わっていくからです。人付き合いは鏡のようなもので,こちらの気持ちがこだまのようにはね返ってきます。邪気のない子どもの笑顔に誰しも素直に接しようとします。その素直さを子どもは信じて育っていくことができます。もし笑顔が冷たくあしらわれたら,きっと不安になるでしょう。

 お父さんは怖いけど,優しいときもある。それが分かっていれば,怖いときも自分のために叱ってくれていると感じます。もう一人の子どもがお父さんの気持ちを取り入れていくことで,自分を叱る力が備わっていきます。ママが喜ぶからといい子になりますが,間違っているとはいえ,他者の目で自分を見ているのです。できていることを見つけて,それでいいんだよと声を掛けてやる,その励ましはもう一人の子どもへの信頼であり,安心して育とうとするでしょう。

「子育ち12章」:インデックスに進みます
「子育ち12章」:第16-03章に戻ります
「子育ち12章」:第16-05章に進みます