*** 子育ち12章 ***
 

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「第 16-05 章」


『育ちとは 思い語れる 言葉得て』


 ■徒然子育て想■
『きちんと伝える?』

 かつてPTA会長を務めた小学校で夏休み最初の行事として,少年少女スポーツ大会が開催されました。PTA主催の地区対抗ドッチボール大会です。低学年と高学年に分かれてそれぞれ優勝を競います。大会までは地区毎に親たちの世話を受けながら練習をしてきます。6年生が各地区の子どもたちをそれとなくまとめていきます。小学生ですから男女混成のチームです。開校以来PTAが支えてきた伝統行事です。

 来賓として開会式に臨み,試合前の準備体操になりました。かなり陽もあがっていたのでグラウンドの暑さがあったせいでしょうか,子どもたちの体操はグニャグニャです。手を伸ばすところでも,肘が曲がって指はダラッとしています。指先に力が入っていません。このときに限らず,前々から気になっていたことなのですが,よくなっていません。そのときは号令を掛けているのが若い先生でしたので期待していたのですがダメでした。

 シャキッとするときはシャキッとする。そんな緊張感をスッと出せるようになっていないと,いざというときに間に合いません。子どもたちに今は緊張するときという気持ちの切り替えを示してやらなければなりません。キリッとした号令がないから,メリハリがつかないのです。い〜ち,に〜,さ〜ん,し〜。リズムが壊れます。イチッ,ニッ,サン,シッ。子どもたちはリズムに乗るのが上手なはずです。それをきちんと伝えなければ力を引き出してやれません。

 試合の方はさすがに気持ちが入っていました。高学年はガッチリとボールを受けて,たくましさが見られました。低学年の子も上手に玉を操っていて感心しましたが,力不足で外野までボールを投げることができずに,相手に取られてしまい,仲間を内野に呼び戻すことができていませんでした。ボールに背を向けるので球筋を読めずに避けられないという場面もありました。おそらく集団の練習だけして,個別にボールを避ける練習をしていなかったのでしょう。どう対処するかを一人ひとりにきちんと指導してやらなければなりません。

 試合の審判や線審はもちろん父親たちが主体です。PTAと掛けて,破れたブラジャーと解く。その心はときどき父(乳)が覗きます。PTAといえば,母親が中心と思われていますが,父親の出番さえ作れば,父親は参画するものです。スポーツ大会は格好の父親向けイベントでもあります。普段はあまり活躍する姿を見せることのできない父親たちがテキパキと試合運びをしてみせるのは,子どもたちにはとても頼もしく見えるはずです。あなたの出番ですよときちんと伝えることが大切です。

 地区対抗戦ですから,子どもたちも親たちも地区毎にまとまります。試合をすることでわが地域という気持ちが湧いてきて結束が生まれます。高学年と低学年がお互いの試合を応援する場面も生まれて,縦のつながりも感じてくれます。もちろん地区毎に一週間以上の練習期間を持っているので,その間の共同時間にも意味があります。一つのことに向かって親も子も皆で取り組むという経験です。スポーツ大会に過ぎませんが,地域の子という気持ちをきちんと伝える大切なイベントなのです。



【質問16-05:子どもは,自分で伝えようとしているんですよ】


 ○第5条:表現権!

 庭に草が生えてきます。雑草だと抜きます。ところが,名前を知っている草はなんとなく抜きにくいものです。雑踏の中でちょっと肩が触れあうとにらみ合います。ところが見知っている間柄であれば会釈で済みます。名前を知らないから雑草や雑踏という無関係なものとして排除しているのです。雑草という草がないのと同じように,雑踏という人の集団もありません。人にとって最も大事な言葉である名前,それは人との関わりの出発点です。

 パパ,ママ。子どもがはじめて覚える言葉です。それによって,自分とのつながりを確かなものと意識できるからです。その上で,次には自分の名前を覚えます。本来名前は人から呼ばれるためのものであり,人に自分を認めてもらうためのものです。しかしながら,子どもの育ちを考えるときには,もう一人の子どもが自分とのつながりを見定めるために欠くことのできない言葉になるのです。自分を表現するのはもう一人の自分だからです。名前が言えると独り言が言えるようになります。

 言葉は第一人称という定義からも感じ取れるように,「私」が始まりです。日本語は主語を省きますが,「眠い」と言えば私が眠いのであり,「ひもじい」と言えば私が空腹だということです。私を表現したいから言葉を覚えていきます。同時に,私と関わる周りの世界が広がっていくにつれて他者や他のものを表す言葉を必要としていきます。コミュニケーションは関わりの中での自己表現です。

 ところで,人の前できちんと考えや気持ちを語ろうとすると難しいものです。緊張するということのほかに,上手く表現できないということがあります。そこで,言葉をたくさん使って話す,つまり説明をしなければなりません。小説は一つのテーマを一冊の本になるほどの言葉で説明しています。ひと言では言えないということです。子どもの気持ちがよく分からないという声が大きくなっています。それは子どもたちの話す言葉が単語化して,ブツブツに途切れているからです。

 このように子どもが語らなくなった背景には,大人の側の早呑み込みがあります。一を聞いて十を知るのように,子どもが何か一言言えば,もう分かったと受けてしまい,続く言葉を遮ってきたからです。つまり,忙しいからと,子どもに最後まで話させる訓練をさせてこなかったためです。試しにちょっと分からない振りをしてみると,子どもは分かってもらおうとあれこれ説明をしてくれます。表現をしてちゃんと分かってもらえばうれしいからです。その繰り返しが自己表現を上達させます。

 紅いリンゴ。紅いという言葉を使わずに表現してみて下さい。○○ちゃんのほっぺみたいなリンゴ。パパの背中で見た夕日色のリンゴ・・・。多分,子どもの方が詩的でユニークな表現をして見せてくれるはずです。言葉の豊かさはもう一人の子どもの栄養であり,平たくいえば心の豊かさに通じています。子どもの感性を萎ませることなく伸ばすためには,言葉の教科書である本を読むことです。共感する言葉を見つけたらすんなりと吸収して,自分の表現力を高めていきます。

・・・生きる力として確保すべきものは,第三に表現する力です。・・・


 ○分かるために?

 赤ちゃんの泣き声には意味があります。子どもの表情には気持ちが現れています。言葉を覚える前から,何かを訴えようとします。幼児が犬を指差してウーと言えば,ママは「イヌ」とゆっくり言い聞かせます。それが目の前にいる動物の名前だと説明しなくても,分かってしまう子どもの能力はすごいものです。いろんなものにそれぞれ名前がある,区別できるということを直感できるから,人は言葉社会を創り出すことができました。

 ところで,子どもの言葉に対する親の関心は,乳幼児期にピークとなり,その後は急速に減退していきます。言葉を覚えはじめる頃はひと言毎に成長の証として関心を向けます。あっという間にしゃべるようになると一転して「少しは黙っていなさい」,話さなくなると「うちの子は何も話さない」といった嘆きに収まっていきます。泣き声だけだったのが言葉になったのですから,もう何でも話せるようになったと早とちりをしても仕方がありません。

 確かにものやことの言葉はすぐに覚えますが,いわゆるコミュニケーションに必要な言葉はそう簡単に会得はできません。子どもの覚える言葉は直裁で分かりやすいのですが,それだけに乱暴でもあります。微妙な言い回しや気持ちの柔らかさを表現するまでにはこなれていないのです。簡単に「死ね」などと言います。言葉の仕上げを家庭で母親がじっくりとしつけてやらなければなりません。美しい言葉は母親譲りで伝わるものであり,決してテレビ譲りではないのです。

 最近様子がちょっとおかしいなと感じたりしたことがありますか? 子どもの関わる事件が起こると,後になって必ずそういう話が出てきます。子どもはいつもそれなりのメッセージを発信していたということです。大人の側は必ず言います。「何かあったらいつでも言ってきなさい」。言ってこない限り,そこには何もなかったということです。直接面と向かって言葉でちゃんと語ることが本筋です。そのように育てなければなりませんが,発達途上であることを忘れてはなりません。

 言わなければ分からない。その言葉は親として言ってはいけない言葉です。それを言ったときは,言わない子どものせいにして逃げようとしているからです。分かってやる,その覚悟を持っていることが親の役割です。だからといって,無理矢理問いつめることを勧めているのではありません。素直な目で毎日見守っていれば子どもが何を言おうとしているのか聞こえてきます。子どもだけを見ているのではなく,子どもの背景も含めて見定めるようにしましょう。

 講釈は要らない,どうすればいいの? そうですね。子どもさんの友だちを知っているだけではなくて,ときどき会話をしていますか? その親と話していますか? 園や学校での子どもさんの様子を知ろうと努力していますか? 父と母の目で見ている子どもさんの姿を重ねるために語り合っていますか? 子どもがいろんな場面で発する表現を良い悪いという評価の目で即断するのではなくて,立ち止まって「どうしてこんなことをするんだろう」と意味を見ようとしていますか?

・・・分かろうという心を向けなければ,子どもの声は聞こえません。・・・



《子どもの育ちは言葉を糧にしていると心掛けて下さい。》

 ○ネットの世界の言葉が子育ての上で何やかやと論じられています。共通した論点は「言葉の一人歩き」です。匿名であることから,既に発信した時点で人とのつながりは断たれています。コミュニケーションに欠かせない要件は,内容もさることながら,「誰が」言ったかということです。言葉の意味は話者によって変幻するものだからです。あなたには言われたくないといった経験があるはずです。あいつが言ったから許せない,トラブルの原因は多くはそこにあります。

 どこの誰とも分からない者からの言葉は,警戒すべきです。いわゆる真意は言葉からは読み取れないからです。同時に,発する方も目立たなくては埋もれてしまうということを恐れて,言葉に濃いめの装いを施そうとします。普通の気持ちで受け取ると,そのどぎつさに不快感や悪寒を感じるはずです。けばけばしさはどこかにねじれた意図を隠しているという馬脚です。人から隔離されやすいネット世界は,コミュニケーションツールとしては発達途上です。子どもの野放図なアクセスは,まだ危ないのが現状です。

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