『育ちとは 真の自分を 分かる道』
■徒然子育て想■
『どちらを選ぶ?』
脳の活動を研究している日本のチームが7月に,ある実験成果を発表しました。目先の利益を追求する短期タイプと先の利益を求める長期タイプでは,脳内の活動経路が違っているという調査結果です。大脳基底核内では,短期タイプでは情緒的機能部分を,長期タイプでは高度認知機能部分を通過していたそうです。研究者は,この成果が,キレルなどの短期的利益を求める,つまり衝動的行動に脳内機能がどう関わっているかを解明するのに寄与できると話しているそうです。
キレルかキレナイかは,脳内でも違った経路を辿っているということです。今大人が知りたいことは,同じことに反応しながら,ある人はキレル,他の人はキレナイ,その違いが現れる理由です。キレル経路とキレナイ経路があるとして,どちらに入るかを決めるスイッチがどのように育ちの過程で形成されるかが問題です。検証の仮定として想定されるのは,おそらく体験による経路接合の促進でしょう。ある種の体験を重ねるとキレル側の,別の種の体験を重ねるとキレナイ側の経路が形成されるというモデルです。
経験上,伸ばしたい気質はそれに相応しい体験を普段から積み重ねることで定着します。運動機能が練習で身に付くということと同じです。たとえば,好きなおかずと嫌いなおかずが出たとき,好きなものだけ食べるか,好きなものから食べて嫌いなものを後で食べるか,嫌いなものから先に食べて好きなものをゆっくり楽しむか,といった選択の傾向が脳内に経路の違いとして記憶されていくと推察されます。いずれ科学的な証明がなされることでしょう。
車を駐車するとき,頭からつっこんでいくか,それともバックして入るかといったスタイルの選択があります。黄色信号で止まるか,さっとつっこんでいくかという走行の選択があります。エスカレーターで駆け上がるか,立って乗っていくかという往来の選択があります。スーパーのカゴに衝動的に放り込むか,メモに従って入れていくかという方法の選択があります。どちらを選ばなくてはいけないというものでもありませんが,親の選択パターンを子どもは真似をします。
宿題を先に済ますか,なるべく後回しにするかといった後楽の選択があります。オモチャが今欲しいか,誕生日の楽しみにするかという名目の選択があります。夕食前にスナック菓子を食べてしまうか,美味しいおかずを想像するかという期待の選択があります。先憂後楽という言葉がありますが,そのためには具体的な楽しみの種類を見つける力をつけなければなりません。その力をつけられたとき,キレナイ経路へのスイッチが設置されたことになります。
小さな経験という部品をいくつ使えばスイッチが完成するかは分かりません。でも必要な経験がどんなものかはお分かりでしょう。子どもにたくさん揃えてやって下さい。子どもによいものとは,どこかで買って来れるものではなくて,親が厳選した素材で手づくりするものです。何も考えないままであれば,逆向きのスイッチができてしまうでしょう。体験の不足が指摘されている中で,何でも体験させればいいというわけでもありません。暮らしの中にある望ましい選択体験を見つけましょう。
【質問16-06:子どもは,自分を分かろうとしているんですよ】
○第6条:自覚権!
私は誰でしょう? 私はモリのクマさんです。私は男です。私は福岡県に住んでいます。私は元大学の教官です。・・・。皆さんも「私は・・・です」とできるだけたくさん書き並べてみて下さい。そうすることで,自分が何者か分かってくるでしょう。人は生きていく上で自分が何者かを自覚する権利を持っています。自分探しの旅が人生と言えるかもしれません。普段は意識する必要がないかもしれませんが,何かにつまずいたとき自分を定義できていることが大切です。
何のために生きているのか? そんな哲学的な大問題を抱え込むのは大変ですが,せめて自分は何者かを知っていると生きる励みになります。パパは仕事の場面で「こういう者です」と名刺を差し出すでしょう。何かの集まりで自己紹介をするというのも,人への説明と同時に自己確認になっています。肩書きが無くなると,途端に自己喪失感に襲われる人もいるようですが,多様な自己確認をきちんとしていないからです。社会的な肩書きは一つの「私は○○です」に過ぎません。
「そんなことをする子はうちの子ではありません!」。そのママのひと言は,「ボクはママの子どもです」というボクの自覚を無効にします。ボクは誰なのかという根底を覆すほどの一大事です。親子という自覚ほど絶対的なものはほかにありません。しつけのために叱る場面で人格を否定するような発言が禁じられるのは,子どもの自己確認である「ボクは○○です」を否定することになり,育とうという元気を薄めてしまうからです。
「こんなこともできないの,ダメな子ね」。このママの励ましも,「ワタシはダメな子なんだ」という間違ったワタシの自覚を植え付けます。自分をダメな子と思わされたら,本当の自分を見逃すことになります。自分を分かるとは,生きていく気力をかき立てるためですから,水を差すような自覚は禁物です。生きていてもしようがないという風に追いつめる言動を子どもに向けるべきではありません。
自分のことを分かって欲しいという思いは,子どもだって持っています。特にママには分かって欲しいと願っています。ママは子どもの保証人なのです。自分はこんな子どもということをママに認定してもらえば,もう一人の子どもは自分を見る目が正しいことを確信できます。ところが,そのママの鑑識眼が性急な期待感にゆがんでいることが多いのです。こうあるべきという物差しを当てられたら,どんな子もダメな子になります。
「やさしいね」。例えば,動物や草花に示す子どもの思いやり行動をきちんと認めてやります。その評価によって,子どもは自分のやさしさを分かることができます。やさしい子に育てたければ,やさしさを引き出すことがしつけです。その引き出し方は,子どものどんな姿や行動がやさしいのか,具体的に教えてやることです。それが優しさなのよ,と気付かせるようにします。やさしさとはどういうものか,その例題を数個自覚したら,後は容易に応用できるようになります。
・・・生きる心として確保すべきものは,第三に自覚する心です。・・・
○分かるために?
鳥さんにな〜れ。鳥さんになった。手をばたつかせて,鳥が飛ぶ真似をして遊びます。ブーンと音を響かせながら手を翼のように広げて部屋を飛びます。すっかりその気になっています。虫さんにもなれます。電車にもなれます。ままごと遊びでは,パパやママになれます。もう一人の自分が自分を何にでも見なして,空想の世界を楽しむことができます。このような体験をたくさんしていれば,もう一人の子どもに自分を生かそうとする意欲,自分を生かす可能性を見つける力が育ちます。
満天の星空を仰いだことがありますか? 星のことを少し学びます。今自分が見ている星の光は数百年から数万年昔に星から発した光であると知ったとき,星の世界の広大さに圧倒されます。そこでもう一人の自分が自分を分かる機会が訪れます。自分がどんなに小さく儚い存在であるかという自覚です。その小さな自分があくせくしていることの細かさを思うと,気持ちを大きく持つことができます。こだわりの呪縛から解き放たれて,自由な自分を発見することができます。
山の頂上から下界を見下ろしたことがありますか? 眼下に広がる箱庭のような世界,その一望の中に自分たちの暮らしの場があります。そんな狭い世界の片隅で仲良く暮らす人がいれば,いがみ合っている人もいるでしょう。いがみ合うことの虚しさをつくづくと分かるはずです。それが心が癒されるという山からの眺めなのです。世間は広いという視野を経験すれば,自分の中にある毒素を吹き払うことができます。悪意は狭い視野の淀みに蔓延るカビのようなものだからです。
人の振り見て我が振り直せと言われてきました。今時の意味は,人の振りを見て自分の振りを合わせろということのようです。個性を出すように言われながら,実のところコピー化が蔓延して,右へ倣えのように見受けられます。自分を人のコピーにして嬉々としているようでは,自分を分かることからは逆行しています。人と同じでありたいというコピー化が進むから,イジメや不登校などの副作用が現れてきます。自分に目を向けようとしていない不自然さのせいです。
人は自分のことは棚に上げるものです。政界での年金未払いの騒動など,大層なことでもありませんが,みっともない醜態でした。清廉潔白を他に求めるほど自らも清廉である人はいないはずです。誰しも叩けば埃が出るはずです。その弱さを分かっているから,人は自らを律しようと努力を続けています。親が子ども時代の自分の弱さを語る勇気を持てば,子どもは自分の中の弱さに向き合う力を分け与えてもらえます。自分を分かるためには良くも悪くも自分を直視すべきなのです。
子どもの目から見ると,大人は勝手に見えることがあります。自分ではいい加減なのに,子どもにばかりあれこれ偉そうに口うるさいと感じています。そんな子ども時代を経験しているのに,親になると記憶にありませんととぼけるようです。親を見ればボクの将来しれたもの,という本がありました。子どもは親の中に自分を見つけていきます。自分の未来の姿として親を見ているとも言うことができます。どんな子どもに育てたいか,それは親自身の後ろ姿に描かれているのです。
・・・親という原図がしっかりしていないとコピーは崩れます。・・・
《子どもの育ちは自分の良さを発見する課程と心掛けて下さい。》
○万引きはしてはいけないこと,そのことを知っていても万引きをします。お巡りさんに捕まるからしない,それも必要な歯止めです。それだけではまだ捕まらなければという逃げ道があります。万引きしたことは自分が知っているし,自分は万引きをする人間だと分かる,そんな自分でありたくないという自尊心が最後の歯止めにならなければなりません。
天知る地知る己知る,という古い言葉を知っているだけではなく,それを生かすことが大事です。悪いことをして反省するのではなく,反省しなくていいように悪いことはしない,その逆転ができるためには,自分を分かるという育ちが不可欠です。教えれば知ることはできますが,分かるようになるためにはそれなりに育てなければなりません。口で言って聞かせるのは教えるに過ぎないと限界を分かっておいてください。教育は教えの後に育てが付いてくるのです。