*** 子育ち12章 ***
 

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「第 16-10 章」


『育ちとは 喜び探し 追いかける』


 ■徒然子育て想■
『見えない予防?』

 8月下旬,ある事件の調査報告書が作成されました。報告者は教育委員会です。西日本新聞(8月26日)によると,「教師個々人の仕事の分担もあり,協力体制をつくるまでに至っていなかった」,「複数の教職員が加害女児の表情などに気になる側面を感じていたが,特異なものとは受け止めていなかった」,「事件は問題行動のある児童ではなく,ノーマークの児童間で起こった」といった記述があったそうです。

 物事は突然に起こります。人がそれと認知しようとしていないこともあります。分からなくても仕方がないという不可抗力もありますが,予測が可能な場合もあるはずです。振り返ると,「そういえばあのときに・・・」といったことが思い出される場合がそうです。いわゆる兆候はあります。ところで,その小さな兆候がすべて予測通りに進むかといえばそうでもないという難しさがあります。大したことにはならないことのほうが,普通でしょう。

 だからといって,等閑視してはいけないことがあります。危害が発生するようなことに対しては,無駄骨を恐れてはいけません。早めに手を打てば,どうということもない形に収めることができた,そんな後悔はしないほうが賢明です。過ちは二度と繰り返しません。それが人が持ちあわせている叡智であり,学びによって願いは実現可能になります。犯した手落ちや間違いを見極めて,きちんと学び,チェック項目を整えていけば,安全や安心が高まっていきます。

 ところが,実際には,同じ過ちが繰り返されます。どうしてなのでしょうか? 天災は忘れた頃にやってくるという言葉が語られます。喉元過ぎれば熱さを忘れると自戒されるように,人は忘れっぽいのでしょうか? 何故忘れるのか,弁えておかなければなりません。悪いことが起こらないように,予防という手はずを実践します。ところが,予防のお陰で何事もなく過ぎていると,予防しているからという大事なことが見えなくなります。予防の効果は見えないのです。

 たとえば,何事か起こると,子どものために地域の安全をという活動が始まります。その予防のお陰で何事もなく無事に過ぎていると,やがて何も起こらないからもう大丈夫だろうと感じるようになります。それが気の緩みになります。予防活動を止めると,元の木阿弥です。同じことがまたまた起こってしまいます。また,普段からきちんと手を洗っているから,病気に罹らなくて済みます。でも,手を洗っているお陰ということが見えにくいので,つい横着をします。

 嫌なことやいけないことが起こらずに安心して暮らしているのは,じつは周りにいろんな予防線が張り巡らされているからです。わが子が安全に暮らしているのは,周りの人がそれとなく安全に気配りをしてくれているからです。でも,それは自分もよその子のために気配りをしてやるというお互い様に支えられていました。そのお陰様が消えようとしている,あるいは面倒だからと消してしまったとき,安全のバリアは解除されます。予防は見えないということを忘れてはなりません。



【質問16-10:子どもは,自分を喜ばそうとしているんですよ】


 ○第10条:自愛権!

 プリーズ(please)を英和辞典で引くと,真っ先に「喜ばせる」とあります。どうぞというのは,喜んでもらおうという意思表示です。ところで,自分を喜ばせるのはわがままになりますが,だからといって完全に抑圧すべきことでもありません。逆に相手を喜ばせる自己犠牲は美しいのですが,常にそうではありません。物事には程があり,バランス感覚が大事です。たびたび述べてきたように,オール・オア・ナッシングではなくて,フィフティ・フィフティなのです。

 古代からの知恵は,自分がして欲しいように他人にしてあげなさい,ということです。自分は何がうれしいのかを分かっていないと,他人に喜んでもらうことをしてやることはできません。子どもは自分勝手でわがままから育ちはじめます。周りからいろんなことをしてもらって喜びます。もう一人の子どもが生まれると,自分を喜ばそうとします。やがて,もう一人の子どもは何が自分に喜ばしいことかを理解するようになり,そのときから,ドウゾが言えるもう一人の子どもに育ちます。

 親からたくさんの喜びを貰い,自分に喜びを注ぎ込まなければなりません。そのときに,心から喜ぶという一点を押さえておくことが大切です。クライマックスを迎えるような筋書きが用意されるといいですね。簡単に言えば,待つという時間が不可欠です。夕食まで我慢して待つ,それがあるから美味しく頂けます。種を植えて水をやり芽が出て葉が出て,やっと咲いた花だから,喜びが湧き上がってきます。お店で買ってきた花からの喜びとは比べようがありません。

 喜びは多種多様です。喜びを見つける感性が磨かれると,心は豊かになります。磨く方法は磨くものと磨かれるものとの擦り合わせです。ママの心が子どもの心と擦り合うことで,磨かれていきます。もちろんママの心が繊細でなければなりません。多忙な中で荒れた気持ちで子どもと擦り合えば,子どもはズタズタになります。見つかるはずの喜びはうたかたのごとく消えてしまいます。何をつまらないことをしているの,そんな大鉈で子どもの見つけた小さな喜びを粉砕しないでください。

 高い高いと持ち上げてやると,赤ちゃんは喜びますね。追っかけっこをすると,キャーキャーと喜びます。ママと一緒に散歩をすると,離れては走り寄ったりして喜んでいます。小さな虫を見つけて,突いてみたりしながら喜んでいます。電車に乗って景色の変化を喜びます。幼い頃は身体を動かすことが喜びになります。手足の機能を働かせることができる喜びというものがあります。だから,じっとしていられません。身体が喜ぶことをいっぱい体験させてください。

 自分を喜ばせるのは,周りの人から喜ばして貰うことではありません。欲しいものを買ってもらうと喜びますが,それよりも自分で買った方が喜びになりますし,大事にしようという気持ちもオマケとしてついてきます。幼いうちは喜ばしてやり,大きくなっていくにつれて,子どものできる範囲で喜びを掴む術を伝授してやってください。それを怠るといつまでも甘えてしまい,親は何もしてくれないという袋小路に入り込みます。

・・・生きる心として確保すべきものは,第五に自分の手で慈しむ心です。・・・


 ○喜びのために?

 人が何故いきようとするのか,という人生の大問題があります。その目的は人それぞれに見つけなければなりません。でも,目標は持っています。一言でいえば,喜びたいのです。楽しいおしゃべり,仕事の後の一杯などのささやかなものから,チームプレイの楽しさ,仕事の達成感など,あらゆる場面でいろんな種類の喜びを持っているでしょう。楽しいことがあるから,生きていこうという意欲が分泌されてきます。何の楽しみを見つからない,それでは生きていけません。

 車のフロントウインドウにゴーヤーマンの飾りがぶら下がっています。沖縄に出かけた頃,ちょうどNHKテレビの朝ドラ「ちゅらさん」が放映されていて,おみやげに買ってきたものです。子どもの頃,ニガウリは苦くて好きではありませんでした。最近は栄養面で注目されているようです。苦いのが良いそうです。苦いのは味覚としていい味ではありませんが,身体には良い働きをもたらしてくれます。良薬口に苦しです。苦み走ったいい男,甘い男より魅力的でしたが?

 自分を喜ばせるのに最も手っ取り早いのは,ご馳走を食べることでしょう。テレビ番組で日本だけではなく世界中の美味しいもの紹介がされています。素材の○○は××産でと,全国から集め回して作っています。最高級の素材を使った最高の料理?をタレントが食している姿を指をくわえて見ているしかありません。一流の素材が詰め込まれたら素材同士が自己主張して,とんでもないことにはならないのかと心配です。4番バッターだけでチームの編成ができるという思い違いと似ています。

 子どもはお菓子を喜んで食べます。ファストフードに馴染んだ口には健康な食事を喜ぶことはできないでしょう。食事の片寄りが栄養の偏りになり,分泌物質などの過不足にいたり,ジワジワと心身の健康を損なうことになります。きれやすいとか,我慢がないといった現代っ子の特徴もいくぶんかはその辺りから来ているそうです。美味しいという喜びばかりに浸ると,健康上の問題につながります。食育という問題は味の喜びに関わっているのです。

 人の喜びは健康のみならず安心や幸福への道案内です。お金の喜びに取り憑かれたら,守銭奴ですね。賭け事の喜びに嵌ると,破滅です。薬物の歓喜は,行き着くところは廃人です。人の喜びを喜びにできたら必ず素敵な人になります。思いやりのある子どもに育てたいなら,良かったねと共に喜ぶ心根が不可欠です。子どもがどんなことを喜んでいるか,しっかりと見極めてください。その喜びに向かって育っていきますから,とても大事なことです。

 何か面白いことないかな,子どもたちは喜びを見つける力が育っていません。ゲームなどの遊び場に見つけようとしていますが,それは一時しのぎの興奮でしかありません。生きるということに程遠いものです。親が持ち合わせている真っ当な喜びをきちんとお裾分けしてやりましょう。一緒に喜ぶというスタイルが見られるなら大丈夫です。親は親,子どもは子ども,そんな喜びであったら生き方の断絶です。世代を越えるような喜びこそが生きる歓びだからです。

・・・喜びは生きていく上での必須のビタミンになります。・・・



《子どもの育ちは生きる喜びに導かれると心掛けて下さい。》

 ○生きていると喜びばかりではありません。哀しいことやつらいことや嫌なことがたくさんあります。だからこそ,一輪の喜びが必要になります。ところで,喜びには質の良くないものと良いものがあります。喜びだからといってすべてのものが許されるわけではありません。殺してみたかったという動物虐待の喜びは,やがて人にまでエスカレートする恐ろしさを持っています。

 人をいじめて喜ぶという曲がった育ちもありますが,そんな日陰に咲く喜びを手にした不幸です。陰の喜びは,孤立した集団という特異な環境が産み出します。学級しか付き合いの世界をもたない子どもたちは,いつの間にか追いつめられているようなストレスの中にいます。仲間はずれにされたくないという恐れを共通に持っているから,そこを突いて喜びとする毒気がくすぶります。子どもの世界を開放する,多様な世界を同時に生きるという環境を与えることが求められます。

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