『育ちとは 触れる力で 導かれ』
■徒然子育て想■
『心は見えるもの?』
子どもの心が見えない! NHKのスペシャル番組がありました。親からの心ないひと言が,子どもの気持ちに冷水を浴びせているようです。驚かされたのは,死んでも生き返ることができると思っている子どもが多いということでした。よみがえりというフィクションの定着です。死という実感を持てないことは仕方のないこととしても,死ねば無に帰すということを知らないのは困ったことです。おそらく幸いなことに死という事柄が身近に起こっていないせいでしょう。
「産まなければよかった」。決して言ってはならない言葉です。吐き捨てるように言ってしまう言葉は,汚い言葉です。言う方ははずみでしょうが,まともに浴びせかけられた方は,心が凍ります。生存を否定されるのですから,当然です。大人は,子どもが木石のように心を持っていないと思っているのでしょうか? 親の心配が伝わらないのは,子どもの心が間違っているとでも感じるのでしょうか? 子どもには子どもの心があるということを認めていないと,踏みにじることになります。
子どもはこんな風に育つ,育たなければならない,育てなければならない,という固定したイメージを大人は持ちます。それは本当はそうあったらいいなという期待像に過ぎません。そうでなければならないと考え違いをしていることに,早く気がつかないといけません。大人の勘違いが子どもを不幸にしています。大事なポイントだけ押さえておいて,その他の部分はいい加減でいいのです。そこは子ども自身の裁量に任せる,言い換えると育ちの可能性に委ねるのです。
子どもを産む,つくる,育てるといった言い方がボタンの掛け違いになります。子どもは親の思い通りにどうにでもできるもの,つくることができると考えるようになります。子どもは,自分が生きていることを親の言うことを聞かないという反抗として突き返してきます。親はなんとか言いくるめてしつけをしようとします。子育てを優先します。ところが,子どもは先ず自分のことを分かって欲しいと願っています。どうして親は押し付けて来るばっかりなんだろう?
心が見えない? 心は見えるはずがありません。心を見ようと考えていることが間違っていることに気がつくべきです。心は心で触れて分かり合えるものです。親は口で話しかけて,子どもが思い通りに育っているかどうかだけを見ているのではないでしょうか? 親心が一段高いところにあって,子どもの心を見下ろしているのではないでしょうか? もっと子どもの心に心を素直に寄り添わせようとしてくれたら,どんなに子どもの心は救われることでしょう。
子どもの心は常に開かれています。大人の心が凝り固まっているから,通じないのです。心を開くとは,心に空白を用意することです。そうすれば子どもの心が入ってきます。それは必ずしも子どもの言い分を聞き届けるということではありません。心を共有することです。つらいけどがんばらなければならないことがあります。とにかくガンバレと突き放すのではなく,つらいという気持ちを共有することからはじめましょう。
【質問16-11:子どもは,自分で触れようとしているんですよ】
○第11条:触感権!
幼子がママにダッコをせがみます。パパが夕餉の後にくつろいでいると,背中からじゃれついてきます。つかまえて抱きしめると,はしゃぎます。疲れているときにまとわりつかれると億劫かもしれませんが,長いことではないので,しばらく付き合ってやりましょう。子どもはママのふくよかな胸の感触,パパの広い背中の感触を覚えていきます。親との触れ合いを通して,頼れる人はどのような感触を持つ人なのかを記憶していきます。
親子連れで道を歩いているとき,子どもが怖いと感じると手をつなごうとし,手を握りしめてきます。子どもはその小さな手のひらから,親の勇気を吸い込んでいきます。大丈夫という言葉かけよりも確実に伝わります。子どもを叱るとき,手をしっかりと握りしめてやります。叱られても嫌われない,それが子どもにはとても大事なことですが,手をつないでやることで信頼関係が確保できます。手はつなぐためにあるのです。
お店では,子ども連れのお客さんは歓迎されません。子どもは手当たり次第に商品に触りまくるからです。子どもがいるお宅では,子どもの手の跡があちこちについています。そういえば,ママもスーパーマーケットで野菜や衣類を買うときに,手で触っています。いったい何を確かめているのですか? 何が分かるというのではなく,なんとなく触ってみないと落ち着かないということでしょう。食物も衣類も身体に触れるものだからです。
手触り,肌触り,舌触りと言います。音は同じですが,目障り,耳障りは意味も用法も全く違います。目や耳,つまり視聴覚には触れるという機能はあり得ません。どうしても距離的に離れている,間接的な感覚です。視聴覚だけに頼ったイメージが仮想であると言われるわけは,触ることができないということです。現実世界の条件は手で触ることができるということです。子どもが何にでも触りたがるのは,自分の生きている現実の世界を自分の手で理解したいからです。
人が生きる条件は,衣食住ですね。衣は肌に触れます。食は舌から内蔵につながっている内壁に触れます。住は衣の補完であり,自然の厳しさから守られた家族という触れ合いをもたらします。人が生きる上で最も基本的な感覚は触覚なのです。正座をして足が痺れたら,立てなくなります。もし人が肌の触覚を失ったら,寝たきりになり身動きできなくなります。もちろん,ものを掴んだり持ったりすることなどもできません。普段は意識していませんが,触覚が第一の感覚なのです。
ふれあい。この言葉はとても温かいですね。どうしてなんでしょう? 人の心のふるさとにつながっているのでしょう。人は寄り添って生きてきました。そこにはふれあいがあったはずです。ふれあうことが生きることの証でした。今の子どもたちが求めているものは,人の温もりです。人付き合いが苦手という現状は,触れ合いによる信頼感が満たされていないからです。いつも傍にいて抱きしめてくれるという触れ合いは,もう望めないのでしょうか?
・・・生きる力として確保すべきものは,第六に触覚力です。・・・
○触れるために?
食事の際,熱いものが苦手な方は「猫舌で」と言います。猫に熱いものを食べさせようとすると,猫は苦労しています。どうして猫は猫舌なのでしょう? 当たり前のことを不思議がるというのもおかしなものです。動物はエサを温めることはしません。自然のままで食べるのですから。煮たり焼いたりする調理は,人だけがする食料摂取法です。それでも熱いものは熱いと感じないと,火傷をします。子どもに熱い食事を食べさせるとき,ママは冷まして唇で温度を確かめますね。
触れると何が分かるのでしょうか? 簡単に言えば,堅い,柔らかい,熱い,冷たいなどです。人が生きているところは,熱くもなく冷たくもない,ちょうどいいところです。触れて格別に何も感じない,そんなところが安心して生きるに相応しいところです。環境は平穏無事が一番なのです。舌の触感は特別で,味覚になっています。食物の良し悪しとバランスを判別する機能を持っています。もちろん健康に生きるためです。
尖ったものは痛いですね。トゲが刺さる経験をすることで,尖ったものを見ると怖いという警戒心が起こります。炎に近づくと,熱いという触覚が危険を察知して身を引きます。自分の身を守る本能が反射的に呼び覚まされるようになります。転んで膝小僧をすりむくと痛いですね。人は傷つくと痛みを感じます。痛みを経験するからこそ生きていることの実感があるのかもしれません。自然に触れるということが勧められますが,自然の厳しさという痛みから生きる意志を引き出すためです。
どんなときに生きていると感じますか? 夕食時にキュッと一杯が胃の腑に触れるとき,入浴時にまろやかなお湯が肌に触れるとき,仕事時に結果の手応えを握りしめるとき,幼子をぎゅっと抱きしめるとき,愛する人と抱擁のとき,いずれもそこには触れるという条件が成立しています。生き甲斐というとらえどころのないものがありますが,それを手にするのは生きているという実感があってこそです。触れ合いを疎かにしている限り,見つからないのです。
野球はテレビで見るよりも球場で観戦するほうが,演劇はテレビで見るよりも舞台を観劇するほうが,演奏はCDで聞くよりも生の肉声で鑑賞するほうが,食事は食堂で味わうよりもママの手づくりのほうが,良いに決まっています。映像や文章で知り得たとしても,現実のものとは程遠いものですね。触れていないからです。暮らしや子育てを触れるというポイントから見つめ直してみませんか? いろんなことが見えてくるはずです。
できるというのは手ですることです。どんなにいいことを考えて口で言えても,自分の手で実際にできなければ意味がありません。分かっているけれどもできないことがありますね。その壁を乗り越えることが育ちです。ママがいくら口を酸っぱく言っても,子どもはなかなかできません。そこには大小の壁があることを知っておいてください。そうしないとママだけではなく子どもにも焦りが出てしまいます。手で触れるという実現化プロセスを重ねる時間と体験が必要なのです。
・・・触れることはあまりに大事すぎるから,意識されないのです。・・・
《子どもの育ちは触れる力を養うことと心掛けて下さい。》
○子どもたちは小動物に触るのが好きです。フワフワした毛触りを記憶していきます。今では大の大人もペットに癒しを求めています。懐いてくれる動物を友だちと思っています。人との触れ合いが疲れるという子どもたちが現れてきたのは,どういうことでしょう。自立という目標に向けた無理な飛び出しのために,早すぎる突き放しがあだになっています。たっぷりと触れ合っていないと,触れ合いのノウハウを体得できないからです。
人が身体を触れ合う競技に柔道やレスリングなどの格闘技があります。そこにはしてはいけない禁止技が設定され,ルールに従うという約束があります。日常の触れ合いでも同じです。例えば,逆鱗に触れるということがあります。竜のあごの下にある逆向きの鱗に触ると,竜が激高するという故事です。弱点を責め立てる卑怯なことはフェアプレイに反します。手当たり次第に触りまくるというのは,いけないことです。セクハラやイジメに通じます。