*** 子育ち12章 ***
 

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「第 16-12 章」


『育ちとは 自分の足で 登るもの』


 ■徒然子育て想■
『家族参画?』

 NHK朝のドラマ「天花」の中で,最近のままごと遊びの傾向として,子どもが演じたい役柄は,赤ちゃん,ペット,兄姉であり,父と母の役はやりたがらないということが語られていました。このことは,よく耳にすることです。赤ちゃんやペットは何もしなくて,ただのんびりとしていればいいということです。兄や姉は好き勝手に遊んでいる,お姉さんはきれいに着飾ってお出かけすればいいのです。

 お父さんは遅くまで働いて,家ではくたびれています。お母さんは仕事,家事,育児に追いまくられてとても大変です。ちっとも楽しく見えません。楽な方がいいに決まっています。昔は,お母さんが大変だから,手伝おうと思ったり,早く大きくなってお母さんを楽にしてあげたいと願う方向に育っていました。今の子どもたちは,どうして逃げようとするのでしょう。最も大きな気がかりは,家庭が一丸となってまとまるという気持ちを持てなくなってきたのではということです。

 家族がまとまるには,求心力が必要です。動物の世界では,母親が中心にいます。母系家族です。封建時代の仕組みとして家制度を維持するために,父系家族が生まれましたが,家族の自然な形は母系家族と思われているようです。家を動かすのは父親で,まとめるのは母親の役割と言われることもあります。奥さんを山の神と呼ぶのも豊穣を願う家族の結束であったのでしょう。そんな家族のイメージが時代の変化で薄れてきたのかもしれません。

 求心力が現れるためには,中心として受け皿になる存在が不可欠です。気持ちを受け止める人がいれば,家族の思いを束ねることができます。母親の包容力がその役割を受け持ちます。そんな目に見えないものを求められても困りますね。例えば,夕食の団らんといったありふれた暮らしの営みを,家族の気持ちを寄せ集めて作り出そうという意思を共有することです。時間を合わせて皆で手伝って用意します。そのとき,母親は「ありがとう」とひと言の感謝を述べるだけでいいのです。

 もしも子どもたちが母親を慕っていれば,慕われる母親のようになりたいと思うはずです。ままごとの主人公になれるはずです。今も昔も子どもたちは,お母さんの大変さを見ています。そこで,大好きなお母さんを助けてあげようと思うか,お母さんにはなりたくないと思うか,分かれ道があります。お母さんの力になりたいと願うほど母親を大事な人と思っていないのではと危惧されます。ママがいないとご飯はどうするのという心配しかしない子どもが現れています。

 お手伝いなどの機会を普段からふんだんに持っていれば,子どもの自分でも暮らしの手助けになれることがいっぱいあることを知ります。家族で暮らすことの最も重要なしつけは,ボクもワタシも家族の一員としてそれなりの役柄を引き受けることができるという自覚です。その差配をしてくれるのが,母親なのです。もしもあなたは役立たずだからあっちの壁際にあるテレビでも見ていなさいと,家庭内リストラ状態に追い込まれたら,ままごとではそんな薄情なママ役を嫌がるでしょう。



【質問16-12:子どもは,自分を高めようとしているんですよ】


 ○第12条:自育権!

 成長や発達のイメージは,山登りに擬せられます。先人が踏み固めた細道を辿るのが普通です。先人に倣うという学びの道です。それでは,その登り方はどうなるのでしょう。高い山であれば,適当な間隔でベースキャンプを設けます。○合目というステップを想定します。取りあえずあそこまでという目標です。育ちでは,幼稚園,小学校,中学校,高校,大学といった学制が使われます。もうすぐ一年生,一年生になったら,という節目です。

 取り組むべき課題は細分化し,今目の前のできることを意識することで進展が可能になるものです。そのペースはどうなんでしょう。三歩進んで二歩下がるという繰り返しです。辿る細道が行き止まりになることもあります。出直しが必要です。そんなとき,高みを見上げるはずです。育ちでは歳の近い先輩を見れば,あそこに行けばいいという目当てがあるので,迷うことはありません。傍にいるよそのお兄ちゃんやお姉ちゃんと付き合っていることがとても頼りになります。

 親が示す目標は将来という遙かなものです。雲がかかって見えない遠い山頂です。あんな所まで行かなくてはならないの,うんざりしてしまいます。一歩一歩が無駄に思えて,気持ちが萎えてしまいます。達成感が遠のいていきます。子どもは子ども時代を生きることが大事だといわれますが,目の前にある丘を登ることが子どもに相応しい育ちだからです。大人として育つのではなく,子どもは子どもとしての育ちをしなくてはならないのです。子どもは自分の身の丈の育ちをしています。

 子どもの身の丈の育ちとは? 積み木を積み上げていますが,ゆがみに無頓着なので倒れます。できない自分にいらつきます。それでも思い直してまたやってみようとします。虎を描いていても,かわいいネコねって言われてじれったい思いをします。自分のイメージは人に簡単には伝わらないことを知り,虎とネコの違いを探そうとします。片づけているつもりですが,向きが不揃いなのでちゃんと収まりきれません。なんとかしようと頭をひねります。

 することなすことは中途半端ですが,その中でもできることがちょっと増えたら,一つ高みに登ったことになります。できるというのは,失敗しなくなることです。たくさんの失敗をしなければできるようにはなりませんが,それはすぐに目に見えるわけではありません。自分でも気がつかないうちにできるようになるものです。今日たくさん食べても明日に大きくなるはずもないのと同じです。

 思い通りにことが運ばないというのは,大人でも感じています。思いはいつも先走りします。一つひとつできることを積み重ねていかなければなりません。手順を見極め計画を立てて実行するしかありません。子どもにそんな計画性を求めるのは無理です。子どもはただできるようになりたいという思いに突き動かされて試行錯誤を繰り返します。それでいいのです。できないことがいけないことではありません。自分にはできないことがあると知ることが育ちの扉なのです。

・・・生きる心として確保すべきものは,第六に自らを育てる心です。・・・


 ○育つために?

 育ちのプロセスは,「失敗」して立ち止まり,そこで振り返って「反省」し,どうしたらいいのか「学習」をして,もう一度「挑戦」するという4行程のサイクルと考えることができます。この連続した行程が円滑に進んでいけばいいのですが,やはり不調になります。出直しを繰り返すことになります。ところで,今の子どもたちが持てなくなっているものは,「反省」というサイクルが不得手ということです。反省を促すという子育てが滞っているためです。

 「どうしてできないの?」,「できないことはしなくていいの!」。その言葉が,立ち止まりを許してくれません。反省というのは,ちょっとだけ後戻りをすることです。先を急ぐ気持ちが強いと,後戻りなどしたくないものです。でも,それが次のジャンプへの助走になります。バネがはじけるためには,いったんギューッと縮こまることが必要なのと同じ事情です。失敗をきちんと受け止めて直面する勇気が必要です。親が支えてやる激励はこのときです。

 親や大人は教えこもうとします。ところが,教えるというのは思うほど簡単ではありません。まずは,反省している者でないと,教えても聞く耳を持ちません。子どもに何度言っても聞かないという状態は,教えているつもりでも教わろうとしていないからです。反省してどこがいけなかったのかなという気持ちになっていれば,教えられることに耳を傾けようとします。学ぼうという学習意欲は,反省をしないと出てきません。いわゆる頭ごなしに教えても効果はありません。

 教える内容にも留意しなければなりません。してみせるということが一般的な教え方ですが,どんなことでも大人と子どもでは格段の違いがあります。大人のやり方を見ているだけでは,どこをどうすればいいのか見えません。「分からないところはどこ?」と尋ねても,「どこが分からないか分からない」という返事が返ってくるはずです。子どもが失敗したところをゆっくりとしてみせます。こうしたらうまくいく,こうしたから失敗した,二通りの違いを見せてやればいいでしょう。

 「そうか」という納得を得られたら,子どもは自分からもう一度挑戦しようとします。「そうかな?」と半信半疑の場合には,「やってごらん」といっても躊躇するでしょう。そのときは,失敗してもいいという余裕を持たせてやります。すぐにはできないけど練習すればできるようになるから,と期待を持たせてやればいいでしょう。もちろんそれでもなかなかできません。ちょっとしたコツは,ちょっとしているだけに,分かりにくいものです。そこに根気が必要になります。

 なんとかできるようになりたいと思っていれば,ある日思いがけなくできるようになります。そのときは大いに喜んでやりましょう。がんばった甲斐があったということを印象づけてやれば,次からの頑張りが苦にならなくなり根気が身に付きます。がんばればなんとかなるという経験は,大きな育ちの力になるからです。最近の子どもにはその頑張り体験が不足しているから,根気も引き出すことができません。根気は外から注入できるものではありません。

・・・育ちには基本的な4つのステップが連動しなくてはなりません。・・・



《子どもの育ちは小山を登り切った喜びに誘われると心掛けて下さい。》

 ○先日体験学習に関するシンポジウムを聞く機会がありました。小学校で田植えと稲刈りの体験をすることが広く行われていることについて,問題提起がありました。体験とは一貫したまとまりでなければ意味がないという指摘です。実際は田植えをして,あとは放置して,実ったら刈り取りだけの体験です。最初の苗作り,途中の草取りなどのたくさんの手間は人任せにして,出来上がりだけを掠め取ります。それは「泥棒教育」という言葉で表現されていました。

 子どもたちの食事も同じ状態です。「お腹が空いた」といえば食事が頂けます。用意する手間暇はお母さん任せです。いいとこ取りだけで暮らせるというしつけが行われているのです。食事を頂くにはそれなりの苦労が必要だということを知らないのは,育ちにとって間違ったイメージを持たせることになります。育ちは細々した苦労を自分で引き受けることだからです。苦労しないと育ちは止まるということを思い出すべきでしょう。

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