*** 子育ち12章 ***
 

Welcome to Bear's Home-Page
「第 16-13 章」


『育ちとは 今を生き抜く 苦楽から』


 ■徒然子育て想■
『子育てのコツ?』

 子育てはそっと寄り添うことです。木々の中に入ると心身共に癒されます。木々は人に対してことさら何をしてくれるわけでもありません。人が木々の環境に適応しているだけです。同じように,親は子どもの身近な環境になります。親がことさらに余計な働きかけをすると,子どもの育ちにとっては邪魔になります。もしも森の木々があれこれと指図をしてきたら,人は癒されるどころではないですね。

 子育ては環境を整備することです。どんな家庭で育つかが大事です。子どもを見れば親が分かるのは,家庭の姿が子どもに写し込まれていくからです。子どもの仕草が親に似るというのは,その一部です。ものの見方や考え方など,基礎になる部分は家庭にあるものを取り込んでいきます。言葉遣いについても,乱暴か優しいかはママの口調に似ています。逆に言えば,家庭のありようと異なる子どもの姿があれば,それは家庭が子どもの環境として機能していないということです。

 子育ては素直に関わることです。こんな子どもであれという下心を持ち出すと,結局は決裂に至ります。親には育ちのゴールが見えています。何歳では何ができるはずという物差しがあり,早くできるようになって欲しいと思ってしまいます。子どもは今の育ちをしているのに,親は明日の育ちをさせようとします。そのギャップに直面して子どもがちゃんと育ってくれないと思い違いをして心配します。親の独り相撲です。ありのままの子どもと素直に付き合っていけばいいのです。

 子育ては気負わないことです。子育ての役割は母親にあるという押しつけが強固に生き延びています。社会の体制がそのようにできあがっているので,改めていくのは簡単ではありません。少しずつよい方向に動かそうとする気運がありますが,一朝一夕には進展していません。母親は目の前にいる我が子を放り出すことはできません。自分が引き受けなければという気持ちになるのは仕方ありませんが,自分を追いつめるとつらくなり,子どもにもよくありません。無理をせず周りに頼ることです。

 子育ては揺れ動くことです。子どもは思いも掛けないことをしでかしてくれます。どうしてという問いかけは無意味です。子どもにもわけが分かっていません。何があろうと親は受け止めるしかありません。でもその心境に至るまでには,親はどう対処したらいいのかという迷いに苛まれます。自分の扱いが間違っていたのではと不安になります。あれやこれやと考えが揺れ動きます。そんなときは経験者に尋ねることです。それができないときは,迷うことをあっさりと止めましょう。

 子育ては感謝をすることです。望まれて生まれてきたかわいい赤ちゃんですが,子育ての実際はそんなに甘いものではありません。手の掛かりようが想像を絶している現実に直面します。四六時中付き合わされ,しかも思い通りになってくれません。あらゆることが子ども中心に引き回されるようになります。でも一つの命がやってきてくれました。愛くるしい笑顔を向けて,全身全霊を預けて頼り切ってくれます。親になれる喜びを手にしていることに早く気付いてください。



【質問16-13:子どもは,自分を生かそうとしているんですよ】


 ○第13条:生存権!

 大人は生きるためにどんな苦労をしているのでしょう? 生きるためとは食べるためにという時代が20世紀まででした。今でも食べられない国がありますが,日本は豊かな国の仲間になりました。生活が苦しいというのは庶民の実感ですが,昔に比べれば裕福です。食べるためだけの苦労はなくなっています。ホームレスをしても生きていけるとまでは言いませんが,太らないために気苦労をする暮らしはやはり豊かです。

 今の子どもがしつけられていないことは,食べるということに対する自己責任です。自立するというのは,食い扶持は自分で稼ぐということです。それができない間は半人前であり,わがままや贅沢はお預けになるという暗黙の不文律がありました。自分を生かすのに,食べさせて貰っていては何をか況わんやです。卒業して就職しても食い扶持は親がかりで寄生していても平気だというのが,大きな甘えです。親が甘えさせているからです。

 もちろん子どもが稼ぐのは無理ですが,家事に関わることはできるはずです。「おつかい」という季節毎のテレビ番組があります。昔の子どもにはおつかいは日常的なことでした。だから,自然に家事に関わりながら,生きる力を養っていました。おつかいに限らず,昔の子どもにできたことが今の子どもにできないはずはありません。生きることは親任せで,塾や習い事さえしておけばいいという放任が,子どもから生きる自己責任をそぎ落としています。

 お出かけにしても,ママに車で送り迎えして貰うのが当たり前と思っています。30分ほど歩けば行ける距離でも,車でなければイヤという甘えです。用事で手が離せないとなると,ママの責任を追及します。何もしてくれないと。あなたの用事なら自分で行きなさいと突き放せばいいのですが,ママがごめんねと謝ることもあります。子どもがご主人に成り上がっています。自分のことは自分でするという基本的なことをしつけないと,生きる力が育ちません。

 少し昔話が過ぎると感じておられるでしょう。今時そんなことを言われても時代が違うのだから聞けないと思われるでしょう。同じことをしてほしいという押しつけをするつもりはありません。ただ,何が失われたか,そのせいで若者が食べることなど生きることに対する自己責任を持てなくなっていることを知って頂きたいのです。あまりに暮らしの場から追い出している子育ては,子どもに生きることの厳しさを教え損なっています。青年の時期になって無責任な行動に走らせる子育てです。

 子どもは,お金さえあれば生きていける,そのお金は親をはじめ大人からむしり取ればいいと簡単に考えています。そのためにパパがどれほど苦労しているかなど,思いも及びません。子どもであっても子どもなりに生きることの苦労を味わう機会があれば,パパの背中の大きさが分かるはずです。たった数日の宿泊体験(食事作りなど)であっても親の苦労が分かったという感想を聞かせてくれますが,それは本来家庭の暮らしで身に浸みていなければならないことなのです。

・・・生きる力として確保すべきものは,生きる自己責任力です。・・・


 ○生きるために?

 生きるためには,お互い様という原則があります。一方通行では生かしてもらえません。親は臑をかじられても仕方がありませんが,それは子ども時代に限られます。子どもがかじる程度はたかがしれているからです。ところが,今はそうもいってはいられません。例えばクリスマスのプレゼントにしても,パパの背広よりも高価です。それは理不尽です。それが当たり前であることが,子どもを甘やかすしつけになります。

 親は保護者ですが,保護することと甘やかしとは似て非なるものです。また,あれこれ構い過ぎると過保護や過干渉に紛れ込みます。入学前までに基本的な生活習慣はつけておくように求められます。それが求められるということ自体が,既に今の子育てはなっていないという警告なのです。親であればそんな失礼なことを言われることに怒りを持つべきです。生活習慣とは生きるための自己責任を引き受けるということです。自分のことは自分でするというそれだけのことです。

 生活のお互い様への入口は,先ずは親の手を煩わせないようにすることです。その次に,親の助けになることができるということです。普通にはお手伝いと言われていますが,家庭生活という家族が生きる営みへの参画です。パパの生きることに関与すること,弟や妹の生きることに参加すること,飼いイヌやネコの生きることへの世話でもいいのです。生きることを衣食住と考えれば,山ほどすることはあります。いくぶんかは子どもでもできるはずです。

 生きる喜びというものが求められます。それは生きようとしていなければ手に入りません。生かされていては喜びがあるはずもありません。子どもたちは生活の中でいいとこ取りをして育っています。美味しいものを食べたいと思っていても,台所のゴミや汚れがあるから美味しいということを知りません。レストランで美味しいものを食べても,それには高い代価が支払われています。お互い様なのです。悪銭身に付かずと言われているのも,喜び抜きの銭だからです。

 ところで,生き方という言葉があります。生きる形が選べるということでしょう。最も大きな選択は,どんな仕事や職業に従事するかということです。生活の基盤を確保するという意味が強いですが,それだけではありません。職業柄といった独特の世界に住み込むことになるので,興味や関心といったものが専門分野という形で選ばれて深まっていきます。とにかく社会的な関わりのあるような何かに打ち込むという姿がなければ,生きていることにはなりにくいのです。

 子どもが求める楽しく暮らす,その果実は生きてこそです。もしも一人でゲームに嵌って暮らしていて楽しいという感性しか持てないとしたら,それは不幸でしょう。人としての楽しさから程遠いものだからです。どんなことが本当の楽しさなのか,親はしっかりと伝えてやらなければなりません。その最も簡単な方策が家族として共に生きるという生活そのものです。家庭が食べて寝るだけというホテル暮らしと違わないようなら,生きることについて考えてみた方がいいでしょう。

・・・家庭は生きる喜びを生み出し子どもに授ける力を備えています。・・・



《子どもの育ちは生きることをベースにしていると心掛けて下さい。》

 ○なぜそんなにあくせくと生きているの? 豊かになって将来ゆったりと暮らすために。それならあくせくせずに今からでもゆったりと暮らしたら? ゆったりと好きなことをして生きていけたらいいなと思いますね。でもおそらくそんな生活には喜びや感動はないでしょう。あるのはスリルという一過性の興奮だけです。ゲームセンターで画面の中とはいえ破壊行動に興奮している子どもの姿を見ると,危険な道草を食っているような気がします。あくせくする道に戻って欲しいと願います。

 地道に平凡に生きていくことをベースにしているから,華やかなひとときが感動を生みます。真面目にコツコツと生きているから,人の温もりや喜びが生まれます。ご飯とおかずの関係に似ています。ご飯やパンには味がありませんが,主食という飽きない特質を備えています。おかずの美味しさは,ご飯の味の無さがあるから生まれているのです。心を白紙にするから,美しい想い出が描けます。

「子育ち12章」:インデックスに進みます
「子育ち12章」:第16-12章に戻ります
「子育ち12章」:第17-01章に進みます