*** 子育ち12章 ***
 

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「第 17-01 章」


『子育ては 育ち促す 添い歩き』


 ■徒然子育て想■
『背中で見る?』

 お母さん。背中が見えていますか? ミラーの前に立って半身になりながら,背中のラインを気になさっていることでしょう。それ以外には普段から背中を意識することはありませんね。まっすぐ前を見てさっさとことをこなしていると,背中はがら空きです。それが普通です。でも,子どもは,お母さんが背中も見えていると思っています。子どもとお母さんの間合いとは不思議なものです。

 子どもに背を向けていても,子どものちょっとした気配を読み取れるためには,気持ちを向けていなければなりません。難しいことではなくて,お母さんであろうとしていれば自然にできるようになります。ただ,赤ちゃんのときにオンブをしていれば背中の感性を育てられるのですが,ダッコが多いと十分ではないかもしれません。触れ合いは全身でするものであり,背中も含まれています。ところで,背中背中と,いったい背中がどうしたというのでしょう?

 もちろん背中そのものを取り上げているのではなくて,もののたとえです。目で見えていなくても,子どものことがなんとなく分かっているということです。そこには二つのポイントがあります。一つは,子どもを四六時中見ていることはできないということです。目を離さなければならないことがあります。そんなときでも,気配りを欠かさないということです。目を離した隙に風呂場で・・・といった事故を防ぐためにも,どこにいるかだけでも感じていて欲しいのです。

 もう一つは,なんとなく分かる程度でいいということです。お母さんは子どものことは何でも知っていないといけないと思い込む傾向があります。赤ちゃんのときは神経を傾ける必要がありますが,育ってくるにつれて肝心な点だけ分かっておけばいい,なんとなく分かっている程度でいいと思って欲しいのです。背中で見える程度ということです。お母さんが真っ正面からにらみつけるように見えていないと気が済まないと思うと,子どもは監視されているようでとても息苦しくなるからです。

 子どもは親の背中を見て育ちます。でも,背中を見て親の何が分かるというのでしょうか? 親が何を見ているのか,何をしようとしているのかが分かります。もしも親の前にいて向き合っていたら,親が見ている世界は子どもの背中の方になり子どもには見えません。親と同じ向きである,それは親の背中が見える位置なのです。さらに,背中に現れる親の気持ちが分かります。疲れたお母さんの背中に,子どもはそっと手を当ててきます。「大丈夫?」。



【質問17-01:お子さんが,言うことを聞かないことがありませんか?】


 ○母子分離!

 赤ちゃんはおっぱいを飲んで眠って遊んで育っていきます。わがまま気ままですから,付き合わされるお母さんは大変です。少しは母親の苦労も分かってくれてもいいのにとため息も出ますが,詮無いことと諦めざるを得ません。赤ちゃんが朝早く目覚めて,眠たい顔を突かれることもあります。いい加減にしてと邪険に振り払って泣かしてしまいます。その泣き声にビックリして目が覚めてしまいます。赤ちゃんは自分勝手な主張を親に向けてきます。親が聞かなくてはなりません。

 言葉を覚えてきて,なんとかコミュニケーションが取れるようになると,お母さんは自分の言いたいことを子どもに伝えることができるようになります。「ハーイ」という返事が返ってくると,分かってくれていると思います。とっても素直ないい子に育ってくれていると一安心です。そんな時期はすぐに終わります。やがて「イヤ」という返事が突き返されてきます。「お母さんの言うことがどうして聞けないの?」という言葉が,甲高い声で子どもに向けられます。

 子どもの育ちには,反抗期があります。反抗期は母親によるしつけや指図を拒否する形で現れます。好き嫌いといった好みに関することは,子どものわがままに見える場合もあり,力ずくでねじ伏せてしまったり,なんとかなだめすかして目的を達します。嫌いなおかずを食べさせたり,洋服を選ぶようなときです。このような好みに関することは,年齢と共に変わっていきますので,そんなに無理をして変える必要はありません。

 反抗には,もう一つのパターンがあります。自分で靴下を穿く,ボタンを留めると主張したりすることです。お母さんの援助の手を振り払おうとする反抗です。出かける時間が迫って,モタモタされる暇がないという状況では,さっさとしなさいという催促がでます。できずにグズグズしていると,取り上げてやってしまうということになるでしょう。子どもがふてくされていることなど気にしてはいられません。でも,このときのお母さんの我慢が,子どもを育てることになります。

 この反抗は育ちにとってとても大事なことなのです。母離れということがありますが,離れて誰が子どもの面倒を見るのでしょうか? それがもう一人の子どもです。もう一人の自分が自分をコントロールするということです。言い換えると,お母さんに言われてするのではなくて,子どもが自発的にするということです。反抗できるということは,もう一人の子どもがちゃんと育っているという証です。言うことを聞かなくなったときから,子育ての対象はもう一人の子どもに替わるのです。

・・・反抗することは育ちの節のようなもので,なくてならないものです。・・・


 ○指導と干渉?

 育ってきた経験という財産をお母さんは持っています。先に読んで推理小説の結末を知っているようなものです。子どもは今から読もうとしています。一日一ページをめくりながら,あれやこれやと思いを巡らせて展開を楽しもうとしています。育ってしまえばいいというのではなくて,プロセスをじっくりと歩んでこそしっかりとした育ちになります。お母さんのしつけは,気をつけないと,小説の結末を教えてしまおうとすることになります。子どもは嫌がって言うことを聞こうとしません。

 子どもたちの根気が育っていないという面があります。子どもが根気を紡ぎ出すようにするには,どのように育ててやればいいのでしょう? 根気はあれやこれややりながら上手くできる道を探そうとする意欲です。探すこと自体が楽しいことなのです。その楽しさは,自分でやろうと決めることから生まれます。もしも,やらされていたら,楽しさはないでしょう。教科書を読まされても楽しくはありませんが,読んでみようと決めて選んだ図書は楽しく読めるのと同じです。

 お母さんは遊びよりも学習をしてほしいと思っていませんか? 何か有益なことをしてくれればいいのにというお母さんの思いとは裏腹に,子どもはくだらない遊びに夢中になります。そんなことよりもこっちをしなさいと言っても,ちらっと見るだけで無視されます。その場はそれで済ましてください。気が向いたらするだろうという程度にして,選ぶチャンスに掛けてやります。選択肢を加えてやればいいのです。今すぐしなさい,それは干渉になり,指導とは別物になります。

 しつけは,赤ちゃんのようにまだもう一人の自分という判断者が育っていない時期にするものであり,親がよかれと思うことを押し付けることになります。しかし,幼児や児童になれば,もう一人の子どもが選んで決めることができるように,いくつかの選択肢を与えるようにしましょう。選択肢とは,するかしないかではなくて,あれをするかこれをするかという形がいいでしょう。ニンジンを食べなさいというのではなくて,ニンジンとピーマンのどちらかを食べてみようというやり方です。

 乳幼児期から児童期への子育ての転換は,干渉的であるしつけから,選択決定を旨とする指導へ急がず一つひとつ変えていくことです。一言でいえば,決定権をお母さんからもう一人の子どもに移譲するということです。子どもを占領するのではなくて,独立させるのです。そのプロセスは確かにじれったいのですが,それを耐えて待つことのできるのは親しかいません。しつけをし続けているといつまでも甘えてばかりな子どもに育ちます。決めさせていけば,考える子どもに育ちます。

・・・もう一人の子どもを思えば,子育ての新しい展開が見えてきます。・・・



《子育てには,子どもの成長に合わせたバージョンアップがあります。》

 ○子どもが親に望んでいることは,自分のことを分かって欲しいということです。その自分とは,もう一人の自分の存在です。お母さんは子どもを見ています。でも,もう一人の子どもは自分とお母さんを見ています。お母さんはお仕事で忙しいから,もし自分の寂しい気持ちをぶつけたら,お母さんはきっと気にするだろうと考えて我慢しています。我慢しなくていいのよ,ごめんね。もう一人の子どもの気持ちを分かってあげてくださいね。

 子どもは何も考えていないのではありません。子どもなりにあれこれとお母さんのこともしっかりと考えています。それをあからさまに表す力がないだけです。不幸にも虐待をしてしまうお母さんであっても,子どもは自分のためを思って叱ってくれているのだとお母さんを信じきっています。その信じる気持ちを分かってもらえないことが,虐待の痛みより遙かに子どもにはつらいことです。

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