*** 子育ち12章 ***
 

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「第 17-03 章」


『子育ては 安心の場を 整えて』


 ■徒然子育て想■
『働く喜び?』

 フリーター。定職に就かず,アルバイトをして生きている若者たちが270万人います。自分の好きなことをするために,比較的時間に余裕の持てるアルバイトを選んでいます。生活費を得るだけなら,アルバイトで十分というわけです。しかしながら,それは自分一人を養うという以上にはなりません。親がかりであるパラサイト(寄生)の生き方よりも,多少はましかもしれませんが,五十歩百歩です。そんな道草を喰える若いうちも,それほど長くは続きません。大人にならなければ,社会人として受け容れてもらえないからです。

 職についても,3年以内に辞める割合が,中卒で7割,高卒で5割,大卒で3割という七・五・三現象があるそうです。仕事は甘いものではないという先輩たちの声も聞こえる一方で,時代が違うという仕事に対する意識の変化を若者は持ち出そうとしています。どちらが正しいという尺度はありませんが,働くという職業意識を通して大人になるというプロセスは健在なはずです。単なる金稼ぎの手段ではありません。

 ニート(無業者)。学校に通わず,職探しもせず,かといって家事手伝いもしない若者が52万人にものぼるそうです。働かない,働けない若者が現れてきたのには,いくつかの理由があります。企業は即戦力を求めて派遣やアルバイト労働者を雇用し,かつてのような企業内での養成という余力を無駄と切り捨てて,若者の採用枠を狭めています。高校や大学を卒業した後専門学校に再入学して,即戦力を身につけようとする若者も増えてきています。

 若者の気質として,社会の常識という呪縛から逸脱することが自由であるという通過理念があります。ところが,そこから先に突き進もうとする自信や気力が養われていないようです。子育ての中で,働くことに付随している価値を実体験させることが疎かになっていたということです。責任や我慢などの苦労があるから,その先に周りの人との喜びの共有があります。喜んでもらえた,それが働く=端を楽にするということでしょう。

 子育て真っ最中の皆様にはずいぶん先の話ですが,子育てには最後の仕上げがあります。今の若者にはその仕上げがなされていないことが不幸なのです。これから社会に出て行こうとする前に,大人の責任や意気込みをきちっと伝えて教えこまなければなりません。父親が担える最後の子育てです。かつては,下宿生活などで他人の飯を食べるという青年期の経験の中で,大人が教えてくれました。今は独身アパートで気ままに暮らすといった放任状態です。青年期のしつけが抜けたら,子育てが台無しになります。



【質問17-03:お子さんが,傍を離れたがらないことはありませんか?】


 ○安心!

 ママー。泣きべそをかきながら走り寄ってきます。どうしたの? その問には答えずに,ママの懐に向かって飛び込んできます。しっかりと抱きしめられて,ママの温もりをたっぷり吸収して落ち着いてから,やっと何があったか訴えてきます。ママは真っ先に子どもに何が起こったのかを知りたいはずです。その気持ちは待たされますが,そのちょっとした待ちが子どもに安心を与えます。急かされたら,抱え込んだ不安の出口を失います。ママは何よりも安心の源なのです。

 ママが幼稚園や学校の先生と同じ目で子どもを見る傾向が強まっています。この子は大丈夫だろうかという心配の目で見ていないでしょうか? 母親の目はこの子は大丈夫,私の子どもだから,といったあくまでも子どもを信じてやる目です。考えてみて下さい。ママから心配されていると感じている子どもが,自信を持てるはずがありません。ママから不安を注ぎ込まれているのですから。逆にママから信頼されていると思えば,がんばろうという気持ちが湧き上がってくるものです。

 ひとりでお外に出て行けない,園に出かけられない,独り立ちできない子どもを気遣う気持ちは分からないでもありません。でもちょっと待ってみませんか。我が子が出て行けないというとき,それを責めるのが親の役目でしょうか? 出て行けない子どもを支えてやろうとするのが親です。あくまでも親は子どもの味方でなければなりません。黙って気が済むまでついていけばいいのです。よその子どもはちゃんとひとりで行っているのに・・・。よその子どもはあなたの子どもではないのです。

 子どもは今の自分に最も必要なことをして育っていきます。傍を離れたがらないというのは,子どもにとっては今大事なことなのです。それをママが邪険に奪ってしまうと,育ちの段取りが狂うことになります。幼い子どもはとても育ちが速いので,今は出遅れているように思われても,あっという間に追いつき追い越せるはずです。育ちのレースを想定することはあまり意味がありません。今を大事にすることのほうが賢明です。

 心の不安を抱えていたら,何もする気が起こりませんし,何に対しても臆病になります。気持ちは内に向かいます。そんなときには何はさておき安心を得たいと願うはずです。子どもにとって安心を得る唯一の方法は,ママにくっついていることです。ママのそばにいれば安心できます。安心できたら,気持ちは外に向かいます。子どもを育てるのではなく,子どもが育つようにしてやるためには,ママが子どもを思いっきり抱きしめて安心させてやることです。

・・・すくすく育つ子どもは,安心という居場所を持っている子どもです。・・・


 ○受容と溺愛?

 お母さんがしつけようとしても,おばあちゃんがぶち壊しにするというパターンがあります。祖父母は孫を甘やかすものと相場が決まっています。かわいくてしようがないみたいです。自分の命が子どもを経て孫という世代までつながっているという直感が堪らないのでしょう。ちっちゃい孫が見せるあどけなさも可愛さに拍車を掛けます。いきおい目の中に入れても痛くないという溺愛になります。嫁と姑の確執の種になる場合もあります。

 溺愛には歯止めが掛かっていないので,子どもを甘やかすことになります。甘えん坊程度ならまだいいのですが,わがままにまで進行してしまうと後のしつけが大変です。そこで,ママは対抗上ワンランクアップの厳しさを持ち出さなくてはなりません。お父さんが間に入って緩衝の役割を果たしてくれるといいのですが,巻き込まれまいとする逃げや面倒がってしまう投げやりさが出るケースが多いかもしれません。

 しつけは,子どもにとっては嫌なことを押し付けることが多くなります。好き勝手をしようとしても,社会的なマナーとして抑制されます。したことのないことに不安を持っていても,成長課題として背中を押されます。失敗したら叱られると分かっていても,しなければならないと無理強いされます。幼い子どもにとって,ママは口うるさい人というイメージを持ちやすくなります。ママの前ではいい子になるという処世術を覚え込んでいきます。

 しつけを請け負うのは損な役回りに見えますが,やり方次第という面もあります。たとえ子どもには嫌がられても,母親としてちゃんとしつけをしなければというママ自身のプライドを鼓舞して乗り切るやり方があります。そんな頑張りの必要な場合もありますが,そればかりでは親子共に疲れてしまいます。どうすればいいのでしょうか? 先ずは子どもの意向を聞いていたら甘やかすことになり,しつけにならないという思いこみを止めることです。

 人はこうしたいという気持ちを抱きます。そこで大事なことは,したいことができない場合には,少なくとも気持ちは分かってもらえるということです。子どもの場合でも同じです。ママは子どもの気持ちを受容するようにします。言うことを聞く,つまり適えてやるということではありません。欲しい! ダメ! むげに却下するのではなくて,欲しいという気持ちは受け容れてやります。それから,今はダメだけど,後でねと続ければいいでしょう。受容ということを大事に使って下さい。

・・・ママが受容してくれたら,子どももママの言うことを受容します。・・・



《子育てには,分かり合える優しい人間関係という宝があります。》

 ○子どもにできないことがあるとき,親がやってしまうのは甘やかしです。かといって,しなさいと命じるだけでは放任になります。例えば,靴下を穿かせるとき,片方は穿かせてやって,もう片方はやってごらんとやらせるようにします。子どもの世話を半分に留めておくという目安を持てば,子育ての加減が見えてくるでしょう。やりたいという子どもの気持ちを受け容れることにもなります。

 子どもが母親に求めていることの第一は,ママに受け容れて貰っているという実感です。厳しいママにオロオロしながらも逃げ出さずにいるのは,ママに受け容れて貰おうという気持ちがあるからです。その気持ちを逆手に取っていると,虐待につながるまで暴走しかねません。子どもの気持ちを受け容れるという優しさを失わないようにしていれば,ときには厳しく当たっても大丈夫です。受容されているから安心という居場所を得て,素直な育ちに向かうことができるのです。

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