*** 子育ち12章 ***
 

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「第 17-04 章」


『子育ては 信じてやれば すくすくと』


 ■徒然子育て想■
『ご近所の底力?』

 距離的には近隣でありながら,付き合いは絶縁という奇妙な人間関係が普通になりましたが,その隣人の中にとんでもない悪意を秘めた方が紛れ込んでいます。事件報道の中にそんな驚きが珍しくなくなりました。むしゃくしゃしたからという,理由にもならないことを臆面もなく口にする幼稚さが罷り通っています。付き合ってみれば簡単に底が割れるはずですが,そうだからこそ当人は付き合いを拒んでいるのでしょう。

 電車やバスに乗るとき,触れ合うほど近くにいる見知らぬ人を一応は信頼しています。もちろんたまには,痴漢やスリなどの不純分子も潜んでいるので,気をつけなければなりません。それでも,大方は危険性はないと思っていないと暮らしていけません。「秋深き 隣は何を する人ぞ」という芭蕉の句があります。旅の宿で隣室の方はどんな人だろうという人恋しい思いを表しているのですが,今の人は無関心の現れだと逆に解釈して引き合いにしています。

 遠くの親戚よりも近くの他人。核家族で親元から離れている若い家族は,確かに電話で身近につながっているような感じを持っているのでしょうが,いざというときにはその距離はとても遠くで間に合わないことに気付かされます。ちょっと走っていける範囲の中には,さまざまな技能を持った方が住んでいます。もちろん普通の場合には,専門職としての仕事になりますが,いざというときにはご近所の誼でとても力になってもらえます。

 子どもは家の近所で育ちます。通園バスで遠くの園で過ごすことが普通であっても,近所世界から遊離していたら,しっかりした育ちはできません。子どもはどれほど多くの人が見守ってくれているかによって,育ちの質が左右されます。人との付き合いが育ちの栄養をもたらしてくれるからです。親と先生との付き合いしか知らない子どもの不幸はちょっと考えれば推察できるはずです。ご近所に我が子を見守ってくれていると信じられる方が何人いますか?

 人とのお付き合いが地図の上で見たときに点状になっていたら,子育て環境としてできるだけ面状にするようにしてください。現状で小学生の子どもたちが最も孤立して危険な状態になるのは,自宅から100m以内だそうです。そこまでは友だち同士の連れの関係が成り立ちます。家の近くでは誰の目にも触れなくなるというのは,とても怖いことです。近くにお年寄りがおられるなら,子どもがあいさつを交わせる顔見知りになっておくことをお勧めします。



【質問17-04:お子さんから,裏表を見抜かれることがありませんか?】


 ○信頼!

 よく言われることですが,子どもが世話になっている園や学校の先生の悪口や陰口を,子どもの前では言わないほうがいいようです。いろんな意味で,マイナスになるからです。親が悪く言っている先生には,子どもが素直についていこうとはしません。教育的な信頼関係が無いところでは,ほとんど効果は失われます。また,子どもは親が言っている陰口を親が口止めしていても簡単に先生に披瀝します。そうなれば,誰でも良い関係は結べません。

 家でテレビを見ながら,政治や経済の分野についていろんな批判をすることは日常的でしょう。父親は勤め先の上司などについて愚痴ることもあるでしょう。ご近所の方も噂話の種にされるかもしれません。自分の思い通りにならないことが,誰それのせいであると責任を貼り付けていけば,気持ちが楽になるのでしょう。そんな雰囲気の家庭で育つと,子どもが小さい間は表立ちませんが,児童期になると,人のせいにばかりして自分はどうなのという親批判が芽生えてきます。

 お母さん方とお話しすると,決まって父親への愚痴や非難が出てきます。子どもも母親と同じ気持ちだとおっしゃいます。母子連合ができているようです。そうなったら,父親が割り込もうとしても無理です。家に帰っても居場所がないということで,父親は帰宅拒否に向かいます。人が結びつきを深める手段として採る最も簡単なことは,第三者という敵を作ることです。シカトというイジメも同じパターンです。家庭では,父親に対する母と子どもという結束が生まれます。

 実はこの結束は成長後に破綻をします。母親の身勝手さ?を見抜かれるのです。確かに,父親の家庭を振り向かない無理解もあるでしょう。でも,父親の事情は一顧だにせずに一方的に悪者にする母親の単純さが,愛し合って結ばれたはずの親夫婦への不信感を抱かせるのです。騙されていたという気持ちになる子どももいます。人間関係は非難することからは生まれません。ましてや,非難すべきではない人を非難するのは,どう考えても不可解なのです。

 電話で話す声はとても親しげできちんとしているのに,受話器を置いた途端にぶつくさ言う場面があります。もし子どもが傍にいたら,きっと面食らうことでしょう。でもそれが当たり前になって慣れてくると,仮面を被ることを覚えていきます。口では陰日向のないことがいいことだと言い聞かせていても,そのご本人がぶち壊していてはどうしようもありません。確かに大人社会は素直な形の付き合いができかねる面もありますが,最小限にしないとひねくれた子どもが育っていきます。

・・・人の気持ちの裏を勘ぐる癖をつけると,信頼ある居場所を失います。・・・


 ○予測と心配?

 子どもって頼りなげで,それが可愛さなのですが,育ちを考えると親はあれこれと心配になるものです。そんな心配をよそに子どもの育ちはあっちやこっちにうろついています。見ていると,そっちじゃないでしょと思うことがいっぱいあります。子どもに任せてはいられないと思うようになります。園や学校に行っている子どもの様子は見えません。そこで,心配な親は,帰宅した子どもに「どうだった」と細々と問い質したくなります。

 子どもは,お母さんがいちいち細かいことを言ってくるのでうるさいなと思っています。少し黙って見てるだけにして欲しいと目で訴えています。幼い子どもでも,自分のことは自分でするという生きる本能があります。ところが,大人の能力や都合に合わせて作られている暮らしの場では,思うようにできません。それが大人の目にはダメなことと思われます。決して欠陥などではなくて,ただの未熟さに過ぎません。心配する必要はないのです。

 「どうしてできないの?」。ママに詰め寄られて,子どもは困ってしまいます。できない理由が分かっていれば,なんとかなるはずです。大人にはどうということのないことでも,子どもには初体験という事情があるので,急にはうまくいきません。何度か練習する期間が不可欠です。その間にどうすればうまくいくのか分かるようになります。育ちはできない状況をどうすれば抜け出せるかというプロセスです。できない理由探しはできる理由探しに転換すべきです。

 子どもは生きる力に満ちていて,それが育つ力として発揮されることを信じてやりましょう。できるようになるはずですから,信じて待ちましょう。ただ,育ちの道を踏み外さないように見守ることは大切です。白紙である子どもは,黒い育ちに染まる場合も無いわけではありません。わるい子,いけない子に育つかもしれないと心配になります。その心配はほどほどにしないと,子どもに悟られてしまいます。心配の度が過ぎると疑いの目を向けることになり,子どもは安らぎを奪われます。

 心配を控えるにはどうすればいいのでしょう? それは子どもをよく見ることです。子どもたちを見回すことです。子どもの育ちを見て知って,明日の育ちをちゃんと予測することです。予測とは明日を考えることであり,決して遠い将来を意識しないことです。今こうでなければ大人になってから困る,そんな数十年先のことなど予測できるはずはありません。分からないから心配になります。もっと近くの育ちを見るようにすればかなりの程度まで予測可能になり,心配しなくて済むはずです。

・・・親の心配は控えめにしておかないと,子どもを信じてやれません。・・・



《子育てには,信頼されるという安心の居場所があります。》

 ○世間には裏と表があります。それはあくまで世間のことであり,家庭には似つかわしくありません。特に親子の間では,表が基本です。親子の間に裏があったら,子どもは確かな居場所を失い,育ちを逸脱するようになります。親夫婦の仲の良さが子どもの育ちに不可欠なのは,仲の良さが表の価値だからです。いがみ合うという裏の価値が満ちている家庭では,裏の育ちが促進されます。人を信じるという根源が裏返るからです。

 人から邪魔にされているかも,疎んじられているようだ,そんな疑いの気持ちを抱いたら,つらい淵に追い込まれます。でも,大方は疑心暗鬼であるものです。自分で自分を追い込んでいます。子どもはいつも親からどう思われているかを気にしています。ちょっとしたすれ違いから,自分の立場を暗く不幸なものと思い違いをしかねません。明るい家庭であれば,小さな心の闇も乗り切れるはずです。気兼ねなく素直でいられる場所,それを整えてやるのが親の仕事です。

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