*** 子育ち12章 ***
 

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「第 17-05 章」


『子育ては 言葉に命 吹き込んで』


 ■徒然子育て想■
『文字は記号?』

 ネットの世界では,文字言葉が主流です。言葉は最低限の情報を抽出していますが,それが宿命だからです。例えば「食事」。その内容はごまんとあります。和食,中華,フランス,イタリアとありますね。食事という言葉は,語る人と聞く人とでそのイメージするものは異なるはずです。先生が子どもたちに,「朝ご飯を食べてきましたか?」。「は〜い」。でも,その内容はどうなんでしょう? 映像であれば,もっとたくさんのことが伝えられるのは経験済みです。

 話し言葉には,書き言葉である文字情報に口調や音程による付加情報を重ねることができます。意味の限定がかなりの程度までできます。「大嫌い」。いきなりこんな文字に出くわしたら,どきっとするでしょう。同じ言葉がちょっとすねた風に口から声として出てくると,甘い意味合いになります。厳しい声できっぱりと言われると,文字通りの意味になります。言い方で意味はコロッと変わってしまいます。でも,文字だけだと,そのような意図は消されてしまいます。

 文字は本来記号です。記号は簡単明瞭であることが真髄であり,余計なものをそぎ落としています。それだからこそ,数千個の文字であらゆることがそこそこに表現できています。このメールの文も平仮名と漢字で成り立っています。「愛」。この一字は,親子の愛,男女の愛,夫婦の愛,隣人愛,人類愛と多様ですが,愛そのものはどれも同じと了解されています。しかし現実には,愛を書き出そうとすると,分厚い本でも足りません。

 個々の文字が表せることはわずかであり,何か大きなものに貼り付けたラベルのようなものと考えておいたほうがいいものです。肉声で伝えている言葉であっても,そんなつもりで言ったのではないという受け取り方をされることがあります。ましてや文字化された言葉は,虚実の判別が不可能です。どんなに美文であったとしても,悪意を持って書かれていることもあります。いわゆる洗脳の手段にもなり得ます。

 何かを伝えようとするとき,文字数を少なくすると,相対的に文字にインパクトを持たせたくなります。強い言葉を使う傾向が出てきます。くだくだ説明するよりも,ひと言激しい言葉を口走りたくなるのと同じです。メールのような限られたスペースでは,伝えたいことを凝集するために強烈な言葉遣いになり,はき出された言葉が記号として残るために,逆に目に飛び込んできて気持ちを高ぶらせるという悪循環が起こります。言葉遣いの未熟な子どもが,書き言葉に片寄ることは危険なのです。



【質問17-05:お子さんが,黙って口を開かないことはありませんか?】


 ○独白!

 子どもたちはパソコンやメールを介してコミュニケーションを取っています。真意という気持ちを伝えるためには,見る,聞く,感じるという総合的な感性が働かなければなりません。その条件が整っていないと意味のずれが紛れ込んでいきますが,そのことを子どもたちはよく分かっていません。ちょっと以前の若者たちは,意味のずれを直感して,「なんちゃって,・・・とか」という語尾のぼかしを入れて,ずれをわざと織り込もうという工夫を編み出しました。それが伝授されていません。

 親は子どもの頭上から言葉を押し付けてきます。慣れ親しんでいるテレビは,こちらのペースにはお構いなしに言葉を被せてきますし,気持ちの流れをCFが寸断してくれます。画面中のあっちの会場だけが楽しんで,こっちはモザイク画面を見せられて置いてけぼりです。興味関心を持続させることが拒否されて,結果として感動に盛り上がっていく素直なプロセスが崩壊します。言葉によって共感を得ようという期待は裏切られ,聞かされる言葉は拒否的だと思い込まされます。

 言葉は語る側の独白であるというイメージを持ってしまうと,聞かなくてもいいと思うようになります。自分に向けられているように感じられても,テレビの音声と同じで無視して構わないと思います。学校の授業では,先生が勝手にしゃべっているだけと思って,真剣に聞くという態度が現れません。親が口を酸っぱくしてあれこれしつけの言葉を向けても,聞く気がないので伝わりません。返事だけしておけばいいということで終わります。

 人の言葉は聞かなくてもいいということであれば,逆に自分の言葉を聞かせよう,聞いて貰おうという気持ちは出てきません。言葉を自分の中で閉じこめて,自分だけに聞かせるようになります。自分に対しては自分の都合のいい言葉だけを向けることができるので,とても気持ちがいいものです。自分が喜ぶ言葉は分かっているので,気に入った言葉を反芻させていればいいのです。「あいつなんか死んでしまえ」。そんな呪文が湧いてしまうと,繰り返すことで自己増殖しかねません。

 言葉はもう一人の自分が自分に向けるためだけにあるのではありません。元々はコミュニケーションの手段です。もう一人の自分が自分と他者をつなぐために用いるものです。親愛なる他者である親との分かり合いがあれば,分かり合うことの喜びを覚えます。ところが,その先にいる他者の存在とつながりが希薄になっています。親以外は見ず知らずの人,通りがかりの人,単なる係の人であり,付き合いなどは想定できません。あいさつもしない人たちと,言葉の喜びなどあるはずもないのです。

・・・聞きたい,聞かせたいという気持ちがないと言葉は荒れてきます。・・・


 ○理解と曲解?

 対話はお互いに伝え合うことです。その条件を整理しておきましょう。伝える相手がいて,伝える機会があって,伝える雰囲気があり,伝えたいことがあり,それを伝えたい気持ちがあって,きちんと伝える手段があるということです。どれが欠けても,コミュニケーションは成立しません。対話の場合には,双方の条件が一致する必要があり,一方的であれば対話にはなりません。発した言葉がちゃんと相手に伝わったかどうかを見極めることが大事です。

 子どもとの対話の条件を考えておきましょう。子どもは小さな感動体験や不思議体験をいっぱいしています。それをママに伝えて分かって欲しいと思います。お家に帰ると真っ先に話したいのです。「ママ,あのね」。「な〜に」。こうして対話が始まります。何気ない風景ですが,ポイントを整理しておきます。伝えたいことがある,ママに伝えたいと思っている,ママがそこにいる,すぐに伝えたい,ママはちゃんと聞いてくれる,そして伝える言葉を持っている,以上のすべてが必要なのです。

 ところで,対話ですからお互いに伝え合わなければなりません。子どもの話を聞かされるママは,何を伝えたらいいのでしょう? 伝えることは,ちゃんと聞いて理解してやるということです。対話は話すことと聞くことのペアで成り立ちます。聞かせてもらうという気持ちを伝えるのです。人は話を聞いてくれる人を話し上手と思うものです。変な逆説のようですが,営業の分野では周知のことです。もちろん聞くためには,相づちや質問をして聞く側の作法を守らなければなりません。

 親が伝えたいことを持ち込もうとすると,子どもの話を中途半端に聞いてしまいます。「でもね,・・・」と切り返すからです。親の側が聞く気を閉じてしまうから,子どもは分かってくれたという気持ちにはなれません。さらにひどいのは,「忙しいから後で,そんなくだらないことはいわないの」とすげない態度を向けられることです。子どもは大事なことを伝えることも諦めていきます。話さない子どもにしつけてしまうことになります。

 対話が成立しないと,お互いを曲解するようになります。それは相手からの正確な情報が伝わらないので,勝手な思いこみで補おうとするからです。子どもの帰りが少し遅れたときなど,あれこれ心配なことが思い浮かびます。「どうして遅くなったの。いつもさっさと帰るように言ってあるでしょ」。連れだって帰っていた友だちが転んで泣き出したので,慰めていたことなどを言える雰囲気ではなくなります。道草を食ういけない子と思われた悔しさが残ります。

・・・聞く気持ちを大事にしさえすれば,子どもの育ちを理解できます。・・・



《子育てには,子どもをきちんと理解する大切な心掛けがあります。》

 ○人間は言語によってのみ人間である,とシュタインタールが語っています。子育ちとはもう一人の子どもが誕生して育つことだとお話ししておきました。赤ちゃんが母乳で育つように,もう一人の子どもは母語によって育ちます。このことが,言語によってのみ人間になるという意味です。いわゆる人間らしさは,もう一人の自分がちゃんと育つということなのです。そのためには,豊かな言葉をたっぷりと与える授乳ならぬ授語が大事な子育てであると考えて下さい。

 世代が異なると言葉が通じなくなるという現状は,人間としての共通理解が失われていることです。子どもたちが不可解になってしまったのは,子どものせいではありません。言葉の環境が貧しくなったために,子どもたちの言葉の偏食が現れたためです。世間という大人社会で行き交う言葉が,聞いていてうっとりするようなものとは程遠いと思いませんか? 言葉のおしゃれを忘れたら,心の見栄えはよくないのですが・・・。

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