*** 子育ち12章 ***
 

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「第 17-09 章」


『子育ては 今日を明日に 受け渡し』


 ■徒然子育て想■
『意味がない?』

 小賢しいという言葉があります。大人が提示するアドバイスを意味がないとあっさり言ってのけます。自分の見識の不足を棚に上げて,他者を否定するという天動説的な思考に染まっています。また,自分が分からないのは,教え方が悪いという幼児的な発想法であり,自分のせいではないのです。自分の至らなさを弁えることが賢さへの入口なのですが,その入口から先に進まないうちに,自分を見失っています。持って回った言い方を止めて直截に言えば,学ばなくても大丈夫と甘えています。

 辞書で言葉を探せない若者がいます。探せても,ページをめくる回数が多すぎます。順序よく1ページずつ開いていったりします。普通の辞書なら黒い目印がついているので,多くても4,5回もめくれば探し出せるはずです。大まかに開いて,徐々に追い込んでいけばいいのですが,それを知らないようです。教材として新学期に辞書を購入しても,卒業までにほとんど開いたことがないということで,きれいなままでお蔵入りしています。

 情報化社会の中で,子どもたちはたくさんの情報の流れの中にいます。しかし,生きることに関わるものは,面白くないという理由で除外されています。子どもたちが知っていることは,知らなくても生きていく上で困らないものがほとんどです。読み書きそろばんという旧い言い方を持ち出せば,国語力と計算力という基礎能力が軟弱なままに置き去りにされています。特に国語力の育ちが十分ではなく,大人ときちんと対話のできる態勢が取れなくなっています。言葉の偏食の結果です。

 若者言葉は,感情世界の表現が多くなっています。ムカツク,キモイなど,気分を表す言葉なので,どうしても過激な方向にずれていきます。感情的な言葉を使うことに馴染んでいるので,抽象的な言葉が異物のように感じられるのでしょう。苦いものを口にしたときのように拒否反応が現れ,意味がないと切り捨てようとします。言葉に対するアレルギー反応と言ってもいいでしょう。食育という食事の偏食を憂える動きがありますが,心の食事である言葉の摂取も大事です。

 感情語は幼児世界の言葉であり,抽象語は大人世界の言葉です。子どもの回りに大人世界の言葉をもっと豊かに溢れさせておきましょう。大人はわけの分からない言葉を使っている,自分の知っている言葉だけでは理解できない世界があるということをしっかりと意識させることが出発点です。おそらく「今なんて言ったの」と尋ねてくるでしょう。そのときが大人世界を垣間見るチャンスになります。説明されて分からなくてもいいのです。なにか意味があるんだ,その受け止めが大事です。



【質問17-09:お子さんが,諦めてがんばらないことはありませんか?】


 ○見切り!

 諦めるのか諦めさせられるのか,二つの場合が想定されます。いずれにしても,諦めが早いという言い方に注目しましょう。何事でもさっさと済ませるのがいいのですが,諦めはさっさとしてはいけません。諦めは遅いほうがいいのです。ところが,モノを買ってとねだるときには諦めは早くして貰いたいですね。いつまでもしつこいと言わされていませんか。子どもにすれば,どうすればいいのか迷ってしまいます。

 遊びでも勉強でも,うまくいかないときには「もう止めた」と諦めます。気分転換が必要な場合もあるでしょう。ちょっと気晴らしということです。ずるい子が逃げ出すのに使う口実です。それは意地悪な勘ぐりですが,その諦めがいつも早いと気になります。ところで,諦めるのはどういうときでしょう? とてもできそうもないと感じるときです。自分の力と目標の難しさを分かった上で,そのギャップにたじろぐときです。

 それでは,がんばれるのはどういうときでしょう? 「もうちょっと」と思うことができるときです。とても遠いと思えばげんなりしますが,もう少しと思えばがんばることができます。スモールステップ。その見切りをすることががんばりに必要な条件です。その見切りができるためには,似たようなことをしたことがあるという自己体験や,友だちがちゃんとできているという観察をしていればいいのです。

 親のほうの問題として,早くできるようになって欲しいという過度な期待の目があります。当然なこととして,ダメだという否定の方に傾くことになり,子どもは自分を見限らされるようになっていきます。親の期待通りにいかないのは自分が無能なせいだと思い込まされ,ドウセという開きなりになっていくしかありません。こうしてがんばらない落ちこぼれは否定的な環境が育てていくことになります。親の期待も小出しにするようにしてください。

 ブタも煽てりゃ木に登る! 乱暴な言い方ですが,一理はあります。任せると言われたらがんばれるのは,任されることが一種の煽てだからです。信じているよという言葉が人を励ますのと同じです。もちろん煽てるには下心がありますが,任せるについても心配があります。その心配を抑え込むためには,子どもの育ちを信じることです。今の子どもではなく,明日の子どもを信じてやるのが親心だからです。

・・・もうすぐそこにあると見切れる目標を持つことががんばりの源です。・・・


 ○我慢と断念?

 子どもは本来しつこいものです。小さい頃は,もういい加減にしなさいと言わなければならなかったでしょう。止めさせる最も大きな要因は時間です。出かける時間,食事の時間,寝る時間といった生活のリズムが,中断を余儀なくします。そのことは生きていく上で必要なことなので,「後で」とか,「また明日」といった接続の習慣を持たせるようにしなければなりません。人の記憶という機能を利用するのです。

 がんばるというのは,やっていることをもう少しだけ続けることだと述べました。もう止めようかなと思うときに,もうちょっとやってみようと自分を動かすだけでいいのです。そこにある言葉が「継続は力なり」です。もうちょっとのがんばり,それがコツコツ励むことであり,地道に力を育てる方法です。子どもには先が見えないのでかなりきついことです。今すぐできないと嫌,そんな幼児性を徐々に卒業させなければなりません。

 ボタンを押せばパッと出来てしまう環境にいれば,すぐにできるのが普通だと刷り込まれます。いったんそうと思い込んでしまうと,抜け出すのはたいへんです。ホットケーキが食べたいというとき,粉から練り上げてフライパンで焼くという手間暇をママのそばで見ながら,まだかまだかと心待ちにする体験があれば,自然に我慢を身につけていきます。袋をバリッと破れば済むおやつでは,我慢など必要ありません。物事には手順という手間暇があってできあがる,それが当たり前なのです。

 小さな種を蒔いて水をやり,陽にたっぷり当てていると,少しずつ伸びていきます。種が大きく育ってきれいな花を咲かせます。一日一日の少しの成長がやがて実りを見せるという育ちの過程を身近に体験しておくと,今日できることをしていけばきっと目標に届くはずと信じられるようになります。明日につながる今日を知っている子どもは,我慢をする意味を自然に理解することができます。我慢の中に楽しみを見つけられるようになるといいですね。

 今すぐということにこだわり,時間の流れを止めて刹那に生きていると,我慢はできません。今できないときには,断念するしかありません。断念は後がないので,育ちにはつながりません。何をやっても投げやりで中途半端になります。今すぐというのは,済んでしまったことにつなぐことをしようとしません。実際にはこんなに極端に割り切れるものではありませんが,我慢と断念の違いを弁えて子どものしつけに臨むことが大切です。

・・・明日があれば我慢を,今日だけなら断念を子どもは身につけます。・・・



《子育てには,明日に向かうという動きがあります。》

 ○子どもは今を精一杯に生きています。その今が明日にきちんとつながることを感じていれば,明日を楽しみにできます。子どもが生き生きとしているときは,そんなときです。今日も明日も同じと思っていれば,ただ生きているだけ,生きている喜びなど湧いてきようがありません。大人でも明日が見えないと,生き甲斐など感じるはずもありません。「また明日」,そんな声が出るように育てたいものですね。

 明日には辛いことや嫌なことが待っている場合もあるでしょう。それでもどこかに小さくても楽しいことがあれば,さらには明後日はいいことがあると見つけることができたら,我慢してみようという力が湧いてくるものです。朝の来ない夜はないと,もう一人の自分が自分に言い聞かせることもできます。明日のために今日を生きるのではなくて,今日を生きたら明日が来ると考えてみませんか?

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