*** 子育ち12章 ***
 

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「第 17-11 章」


『子育ては 行きつ戻りつ 無駄があり』


 ■徒然子育て想■
『分断社会?』

 コミュニティ,コミュニケーションの第一音節com−は「共に」という意味を持ちます。人が共感,共存,共同するという言葉と通じています。暮らしの場では,同じ釜の飯を食うとか,盃を飲み交わすといった形式が分かりやすい例であり,共通する何かを持ち合わせていることが条件です。同じ体験を持っていたり似たような境遇にあるから共感できます。同じ仲間だから共存できます。同じ目的を持つから共同できます。

 豊かさに向けて早い進展をしてきた社会では,世代毎の体験や境遇が全く違って重なり合うことが少なくなってきました。親が体験してきた子ども時代の遊びは,今の子どもには全く通じません。祖父母の世代の竹馬やおはじき遊び,親世代の超合金合体ロボット,子ども世代のゲーム機,お互いに遊びを語っても共感できるはずがありません。祖父母世代の真空管や鉱石のラジオ,白黒テレビ,親世代のカラーテレビやカセットテープ,子ども世代のCDや携帯電話,歴史的な3世代です。

 育った環境に共通性が見られない世代間では,つながるものが見当たらないので,いきおい勝手に同居しているというだけになり,成人すると核家族のほうが暮らしやすいという選択をするようになります。地域の人間関係も,世代毎に分断されたり,勤め先や通学先といった所属縁のほうに引きつけられていきます。子どもと大人が別世界に住んでいるから,子どもは大人を異世界のものと感じてどう付き合っていいか分かりません。

 会社に入って,上司という世代間の付き合いを迫られても困惑し,できれば離れていたいという気持ちになります。傍にいると気詰まりになります。アフターファイブの付き合いはごめん蒙りますということになります。最近は社員食堂も敬遠されるそうです。上司と一緒になるのが嫌なのです。また,上司が仕事上の注意として言ってくることが理解できないと語ります。社会的価値観が違っていて受け入れがたい,嫌なことは嫌,嫌なことだから聞く耳持たないということのようです。

 世代が細切れになったせいで,お互いに住む世界がとても狭くなっています。親子の分かり合いが希薄になり,親が鬱陶しいという気持ちが育ちやすくなっています。例えば親自身が親父の所に行きたいと思っているかというと,おそらく余程の用事がなければ行かないのでは? 親が断絶していれば,子どもも断絶を学ぶしかありません。子育てをしにくい社会になっています。意識して世界を広げるようにしなければ,とても窮屈で,子どもは引きこもるしかなくなります。先ず親から・・・。



【質問17-11:お子さんが,失敗しても考えないことはありませんか?】


 ○ポイント!

 前号で,過去に学び明日に向けて考えるということを述べておきました。今号では何をどのように考えるかについて話を進めておきましょう。もちろん,子育ちにおいて必要なことに限定します。何もできなかった子どもが,特別に教えなくても何やかやとできるようになります。子どもは育つものです。ところで,幼い育ちは早いのですが,それは一応できるようになったという段階です。上手にできるとか,ちゃんとできるとか,一人前になったのではありませんね。

 育ちの道を歩むためには,足が必要です。どんな足でしょう? 考える足です。デカルトの考える葦ではありません。そんな高尚な話ではなくて,考えるから育つことができるという簡単なことです。考えなければ育てないということです。考えるといえば,勉強の世界のことのようですがそうではありません。子どもにとって,育ちは常に課題と直面することです。すべてが初体験であり,ちゃんとできないことばかりなのです。考えないとどうにもなりません。

 高いところにお菓子があります。ママのいないときに,見つけてしまいました。何度か背伸びをして手を伸ばしますが,届きません。そこであきらめたら,それまでです。周りを見回します。リビングに椅子があります。踏み台にしてみようと考えます。引きずってくると,楽に届きました。考えたから,できました。お菓子を勝手にご褒美にしています。後で叱られることも知らずに,考えたらどうにかなるという大事なことを覚えていきます。

 踏み台という知識がなかったら,考えることはできませんでした。椅子の上に乗ったとき,背が伸びたようになって,パパと同じ高さになったことがあるという記憶があったから,踏み台という言葉を知らなくても同じ知恵を思いつくことができました。考えるというのは,経験を別の方面に大事なポイントとして応用することから始まります。似たようなことを以前にしたことがある,そんな記憶がたくさんあれば考えるポイントが増えてきます。

 子どもが成長してくると,課題の難度は高くなってきます。何度も失敗します。あれこれ記憶を絞って考えても,うまくいかないことがあります。同じ失敗を繰り返して考えていないように見えますが,子どもは繰り返しの中で一つひとつの作業を確認しています。自分がどのようにしているかを分析しています。ここまではできているが,ここで失敗するというポイントを探そうとしています。それが見つかったら,少しやり方を変えてみようと考え始めます。見守っていてくださいね。

・・・経験記憶を引き出し,確認しながら分析することが考える流れです。・・・


 ○保護と過保護?

 走ったら転びます。転んだら危ないので,走らないように注意します。走らないままにしておくと,走れなくなります。箸を使うとこぼしてしまうので,スプーンを使わせます。箸が使えなくなります。こぼさないように箸を使えるようになるための練習ができません。練習期間とは失敗することが許される期間です。子どもはどこで練習するのでしょう。家庭と学校です。粗相をしてもいいというゆとりが無くなると,子どもは育つことができません。

 ちゃんとできないといけないという強制が働くと,子どもは萎縮してやろうとしません。失敗したらどうしようと恐れるからです。失敗したときのことを考えます。考えるのは,どうすればできるか,できた結果に向かうことでなければなりません。考えることは楽しいことなのです。失敗してきたことができるようになったら,うれしいですよね。そういう楽しさは失敗の後からやってくるものです。育ちが楽しい,そういう育て方をしてやりましょう。

 親は保護者として,子どもの世話をやきます。子どもができない部分を補うことで,きちんと暮らしています。靴下を穿かせ続けていると,子どもはいつまでも自分で穿けません。忘れ物はないねと親が毎朝注意していると,どうすれば忘れ物をしなくなるかを子どもは考えません。考えるのは失敗したときですから,忘れ物をするという失敗が必要です。忘れ物をしたらどんなに困るかを経験して身に浸みて分からなければ,真剣に考えることをしません。

 親のほうが心配して先回りするのが過ぎた保護です。普段の忘れ物程度の失敗はさせておき,試験の時などのいざというときだけちゃんと注意してやるのが保護の適正な範囲です。保護と過保護の境目は,ちょっとした失敗を子どもに与えているかどうかにあります。親にとっては小さな心配をグッと飲み込めるかどうかです。育ちとは失敗しないことではなくて,失敗しなくなることです。失敗体験をすることが育ちのスタートだと考えておいてください。親とは気苦労なものですね。

 子どもの育ちは自転車の運転と似ています。きちんと決められた真っ直ぐなラインの上を走ろうとしても無理です。ラインから右に左に少しずつはみだしては修正を繰り返して,進んでいきます。その修正ができるというのが,自転車に乗れるということです。倒れないようになるのです。次第にはみだしも少なくなっていくでしょう。もし,最初からはみ出してはいけないと強いると,修正の仕方を身につけることはできません。

・・・失敗体験が育ちを,成就体験が喜びを生みます。・・・



《子育てには,失敗してもいいという不可欠なゆとりがあります。》

 ○ゆとりの教育ということが言われています。子どもにゆとりを与えるというよりも,親がゆとりを持って欲しいということかもしれません。子どもともっとゆったり付き合って欲しいと願います。生活の忙しさをそのままに子どもにぶつけているような気がします。暮らしのペースが速くなっている中で,スローライフという動きが出てきました。食事も手づくりのゆっくりしたものにすれば,添加物の少ない材料を使えるはずです。子どもの育ちはゆっくりなのです。

 もちろんすべてをペースダウンすることは現実的ではありません。大人社会は変えようがないかもしれませんが,せめて子どものまわりの暮らしはゆとりを取り戻して欲しいと思います。大人のペースについていけなくなって,育ちをあきらめる子どもが現れています。追いつめられて反逆する若者,萎えて引きこもってしまう子ども,享楽に逃げ込もうとする子どもが増加している背景には,管理された子育てに走り余計な失敗を与えずに急き立ててきた大人社会のゆとりの無さがあります。

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