*** 子育ち12章 ***
 

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「第 17-12 章」


『子育ては 後悔でなく 反省で』


 ■徒然子育て想■
『光明?』

 若者の集団自殺が少なからず報道されています。インターネットでつながっているだけで死出の道連れになり,車中で練炭火鉢という旧いガス中毒の手法をもって実行しています。何不自由なく育ててやって,その先で生きることを諦めてしまわれたら,親はたまらないでしょう。ここ二十年ほどの間の一般の子育てが,気がつかないうちに子どもにゆがみを織り込んできたのではないかと疑わなければなりません。

 諦めるときは,行き詰まって出口が無くなったという閉塞感に囚われているはずです。真面目できちんとすることにこだわりを持っていると,つまずいたときにそんな崖っぷちに立ちやすいのかもしれません。年配の人であれば,今時の若者は堪え性がないとあっさり切り捨てることでしょう。そう言ってやることで若者を救えるのであれば,それもいいでしょう。でも,実際には詮無いことです。早く適切な手を打たなければ,これからも続いていく流れを変えることはできません。

 どんな手があるのでしょう? 肝心なことは,どんな状況であれ,出口はあるということです。あるはずの出口を閉ざしているのは,現状を守ろうとするからです。状況に応じて必要な分だけ担いでいるものを下ろしてしまえばいいのです。荷物があるから行き詰まっていることが多いからです。疲れたときには荷を下ろしてしまえば楽になり,出口がいくつか見えてきます。その上で,ドアを開ければいいのです。

 昔から,自分が不幸だと思ったら,自分よりもっと不幸な人がいることを思えといわれています。上を見ても下を見ても,きりがなく人の幸不幸は紡がれています。同時に,今不幸でもやがては状況は逆転していきます。もちろん,座していてはどうにもなりません。最も確かな方法は,誰かに相談して助けてもらうことです。話すだけでも気持ちが楽になります。荷物には,気持ちの上での重苦しい荷物もあるからです。

 稼ぐに追いつく貧乏無し。コツコツと前向きであり続ければなんとかなるというのは,人生の鉄則です。ただし,その平凡さが結構難しいものではあります。焦るからです。開き直って覚悟を決める,そういう正念場を踏まなければ,光明に続く道に飛び込むことはできません。あれこれ悔やんでどうにかなるのなら,それもいいのですが,深みにはいるだけです。前がふさがったら,思い切って横に向かって飛んでみます。そんな手があることを,子どもに教えておかなければなりません。



【質問17-12:お子さんから,助言を求められることがありませんか?】


 ○後顧の憂い!

 片づけのできない子どもがいます。ママは「また散らかしっぱなしで,しようがない子」と愚痴りながらも,バタバタと片づけてやります。それでは,いつまでも片づけのできる子に育ちません。それを過保護といいます。育ちの芽を摘み取っているからです。散らかしたら,その後始末ができて,一つの育ちが完成します。育ちは一つひとつのことにきちんと自己責任を果たすようになることです。育たないままにしておくと,やがて親の手に負えない散らかし=浪費を持ってきます。

 園や学校で,ものを壊したり持って帰ったり,ちょっとした悪さをしてしまうことがあります。ついやってしまうことですが,次の日になると見つかるかもしれないという怖さが膨らんできます。「もう行かない」と尻込みするようになります。訳を聞いても言えるはずもありませんし,いじめられるからと嘘を言うかもしれません。日が経つにつれて,言い訳もまた重くなってきます。どうしようもなく,事態はもつれていきます。ごめんなさいという最初のひと言が言えたら,済むことです。

 幼いときは,自分がしでかしたことに向き合うことをしないものです。お漏らしをして床に水たまりを作っても,知らんぷりです。パパが帰ってきて,「玄関に水がこぼれてるぞ」とママに告げることもあります。何をしたのかという意味が分かっていないので,仕方がありません。子どもと一緒に後始末をしてみせると,どうすればいいのかということを見習うことができます。余計な手間を持ち込まないためにはトイレに行けばいい,ということを指導助言する機会になります。

 不手際は叱るというパターンのしつけは,物心のついた年頃からの子どもにはあまり効果的ではありません。大切なしつけは,失敗をしたときにどのように修復できるかということです。迷惑になることであれば,自分でできない部分は「ごめんなさい」と謝ることです。できる範囲では自分で始末をすることです。そのためには,「こうすればいいのよ」と,子どもにできる形でちゃんと教えてやらなければなりません。そうすれば,しでかしたことにきちんと向き合うことになります。

 何か失敗をしても,それに対して自分なりに対処できる,こうすれば許してもらえる,いよいよの時はパパやママが引き受けてくれる,そう感じていれば,子どもは失敗を恐れなくなります。失敗したらどうしよう,どうすればいいのか分からない,そんな不安があると何もしなくなります。挙げ句が指示待ちになって育ちを保留するようになります。隠された失敗という後顧の憂いを無くすにはどうすればいいのか,そのための助言がしつけの始まりなのです。

・・・失敗を放置・隠匿すれば,後顧の憂いとして重くのしかかります。・・・


 ○激励と非難?

 キツネが頭上にぶら下がっているブドウの実を採ろうとしています。何度か飛び上がってみますが,もう少しのところで届きません。すごすごと立ち去りながらつぶやきます。「まだ熟していないから・・・」。負け惜しみを言っているのは,気持ちの整理をするために仕方のないことですね。勇んで安売りに出かけたのに売り切れになっていたりすると,そんなに欲しいわけでもなかったし,と自分を慰めることがありますよね。

 人が努力するときには,一つの条件があります。手に負えるかどうかという判定です。なんとかなると思えば,がんばる気になります。高望みをしてもくたびれもうけになるだけです。子どもは自分のできる範囲を見極めることができていないので,大人から見ると相当の無茶を平気でします。それでもやがて,ちょっぴり痛い目に遭いながら,自分の力を弁えていくようになります。その育ちを大切にしてやらなければなりません。

 思ったようにできないことが度重なると,子どもはできない自分を過剰に意識するようになります。いわゆる引っ込み思案になります。あるいは,何かと言い訳を考えたり負け惜しみを言って,できない自分を隠そうとします。いずれにしても,自分を真っ直ぐに見ていないことになります。親は,子どもが今できることを見つけて,できたらほめてやり,やり損じたら「できるから」と激励してやりましょう。できると親が保証してやることです。

 注意しなければならないことは,親ができて欲しいと思うこと,あるいはできなくてはいけないと思い込んでいることが,かなり高いものになりがちであるということです。その証拠に,できない子どもを叱ることのほうが度重なります。子どもの短所は幾つでもすぐに思いつくのに,長所はすぐには口に出てこないのも,親の高望みがあるせいです。もうちょっとでできると親の目がきちんと見開かれていなければ,激励はできませんし,子どもは努力できません。

 しつけに対しても,例えば,歯磨きをしないと虫歯になると脅すことがあります。虫歯になってしまったら,言うことを聞いてちゃんと歯磨きをしないからよと非難します。そうではなくて,人の歯は弱いからすぐ虫歯になりやすいけれど,歯磨きをすれば大丈夫だから,と防ぐことができることを教えてやります。こうすればうまくいく,こうすればなんとかなるといった可能性を見つける向きに育ててやりましょう。

・・・後押しする姿勢が激励を,引きずり出す姿勢が非難を生みます。・・・



《子育てには,子どもの能力をちゃんと見極める責任があります。》

 ○子どもを毎日激励できていますか。尻を叩くことになるかもしれませんが,それでいいのです。ただし,親のほうは大丈夫かなとちょっぴり心配になるはずです。その心配はグイと飲み込んで下さい。心配のあまりに,安全なことだけに閉じこめていると,子どもはもう少しでできるという育ちの最先端からリストラされることになります。人は努力しているから,生きている実感があるはずです。子どもは育ちの実感があります。

 親が子どもの力を見極める最も簡単な方法は,お買い物やおつかいなど,あらゆる暮らしに巻き込むことです。あっちに行っていなさいと言っているかぎり,子どもを見失います。できるだけ傍にいて,一緒にあれこれさせてみましょう。大人しく一人で遊んでいる子どもからは,何も見えてきません。生きるということは人と関わることなので,関わりがなければ子どもの生きる力も発揮されないからです。

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