*** 子育ち12章 ***
 

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「第 17-13 章」


『子育ては 一褒め二褒め 三叱り』


 ■徒然子育て想■
『学力の地盤?』

 日本の子どもは言葉の理解力が諸外国との比較で相対的に低下してきたそうです。義務教育の段階では世界に冠たる評価を得てきたのですが,高等教育並みに弱さを露呈してきたということです。実のところ,学力に関しては学校だけが責任を負うものではなくて,国全体の教養程度が土台になります。教育は栽培に似ていて,いくら教育ががんばってみても,育ちの土地が痩せていてはその効果は期待できません。

 全ての人が新聞という文字情報を日常的に活用できていた時代の基礎的な学力は大したものです。その上に教育があったのですから,優れていて当たり前でした。ところが最近は活字離れが進んできて,頭脳回路が感覚的な機能だけに片寄って発揮されています。感覚的な能力は数値として捉えることができません。学力評価としては理性的な機能の発揮が必要です。読解力の低下は,子どもたちが感じる人になっていて,考える人にはなっていないということを示しています。

 文化教養という言葉はすっかり廃れています。大衆迎合文化が定着している現状では,学力の低下は地盤沈下のあおりを受けて当然の結果です。教育現場がゆとり教育や学力向上と揺れ動いている混乱のせいであるというコメントもありますが,それは大局を見失っています。この国全体の知的沈下が起こっていることに目を向けるべきです。みんなが沈めば怖くない,この国のものは誰も気がつかないのです。外国と比べて始めて見えてきたということです。

 この羅針盤の立場で考えると,大人はこれまで子どもを育ててきたのですが,もう一人の子どもを育て忘れてきたということができます。もう一人の子どもは言葉を糧にして育っていますが,言葉は知恵の糧でもあります。言葉の理解力が低下しているということは,言葉という糧を十分に租借できないことであり,当然のこととして知恵も身に付かないということになります。もう一人の子どもが人としての育ちであることを思い出すと,大人になるための教養はすっかり廃れています。

 そんな大きな状況があるにしても,私はどうすればいいのということが問題です。できることから着手するしかありません。暮らしの会話を豊かにすることです。誰かが話しているときはおとなしくじっくりと聞く,その上で自分の意見をつないでいくという基本スタイルを守ればいいのです。お互い相手の話とはつながりもなく,ただ自分の意見だけを言い合っている,それでは言葉の醸し出すニュアンスの個人的限界が体感できません。会話はお互いの言葉を確認しあいながら展開するものです。



【質問17-13:お子さんは,自分で自分をほめることがありませんか?】


 ○自尊感情!

 1990年の2月,小学一年生の男の子を殺害した17歳の少年が,少年刑務所から28歳になって出所しました。2001年に住居侵入で実刑となり,2004年7月に下校中の女児にいたずらをしたという強制わいせつ容疑で逮捕されています。彼の生い立ちを追っている記事が「西日本新聞」に連載されています。「褒めてほしかった」という見出しの下に,小学2年生の運動会で一等賞になったとき「すごい,すごい」と褒められ,たった一度の笑顔を見せたと伝えています。

 人が人生の中で選択をする場面に入り込んだとき,自分の中にあるものを拠り所にします。それは親や先生,友だち,周りの大人の中の誰かが褒めてくれた自分です。褒めた当人は忘れているかもしれませんが,褒められたほうはじんと心に刻み込んでいます。自分を褒めることができるからです。自尊心,自分を尊ぶとは,褒められる自分を意識することです。自分のことは分かりにくいものです。人に褒められてはじめて自分が見えてきます。

 「上手ね」と声を掛けてやると,「すごいでしょ」と得意げな様子を見せてくれます。もちろん褒め殺しというあくどいことはいけませんが,きちんと褒めてやることが子どもを大きく伸ばします。子どものよいところを伸ばすという子育ては,なかなか定着しません。それはできないことがいけないことであるという刷り込みがあるからでしょう。さらに,子どもには褒められるようなことをするのは簡単ではないという事情が重なっていきます。叱る育ては手抜きです。

 年配の大人は「今時の若者にはハングリー精神がない」と,覇気のなさを取り上げて批判します。時代の背景が替わっていることを見落としています。昔の人が飢餓の恐れからの脱出意欲に駆られているときには,叱咤激励というしつけの手法が有効でした。叱られても今に見ていろという反発力を貧しさが育てていました。負けたらそれは食べられないことを意味するような切羽詰まった状況であったのです。生きることに直結した厳しさがありました。

 今の時代はがんばらなくても生きていくことができます。親がいつまでも抱え込んでやれるからです。そんな豊かな状況では,叱咤激励という手法は反発を招くか,落ち込ませるだけの効果しか持ちません。できなくても逃げていればなんとかなると見越しています。面倒なことを言う親元を離れても,食べていくのに苦労しないと甘い見通しを持たされています。伸ばす子育て,褒めてやることで,子どもが自分を褒められるようにし向けることが求められています。

・・・叱って追いつめるのではなく,褒めて伸ばす時代になっています。・・・


 ○育ちの青信号?

 ものも言いようで角が立つ。世間のお付き合いでは,気配りをしなければなりません。「寒くなりましたね」,「冬ですから」。そんな返事を頂くと,ちょっとばかり出鼻をくじかれますね。「うちの子は元気すぎて」,「そうでしょう,うちの子が突き飛ばされたんですよ」。たとえ親しくしていてもケンカになります。乱暴な子=元気のよい子,内気な子=優しい子,のろまな子=慎重な子,性急な子=機敏な子,物差しを換えれば,心配な面も伸ばしたい面に塗り替えることができます。

 よそのお宅にお出かけしたとき,我が物顔でソファーの上を飛び回る子どもがいます。やんちゃな子どもを叱りつける親に,「男の子は元気があるほうがいい」と取りなしてもらえます。でも,それは本心ではないでしょう。行儀の悪い子と思われています。行儀をしつけるときに,「ダメよ,おとなしくしていなさい」と言ってはいませんか。おとなしくなったとき,それ以後のしつけが滞っていませんか。

 おとなしくしているのはちゃんと我慢できているからです。その我慢をきちんと認めてやって,「偉かったね」とフォローするしつけが無くなっています。おとなしくしている子どもは,「お利口にしてるね」と褒められて,お菓子がもらえるかもしれません。ちゃんとできたらいいことがある,少なくとも褒められるという快感が得られる,そこまで届くしつけが求められています。おとなしくしていても何にもない,それではおとなしくしている意味が見えなくなります。

 褒めるというしつけによって,子どもは自分の育ちの正しさを認知し,自信がついてきます。逆に叱られてばかりだと,自分はどう育てばいいのか,先が全く見えません。自分を不安に思い,心を閉ざしていくか,「どうせ」と開き直っていくしかなくなります。そっちに行っちゃダメ,その黄色の指示は足を止めさせます。そっちはいいことよ,その青色の助言は背中を後押ししてやれます。叱るのは赤信号,褒めるのは青信号,そして育ちは前進を続けることです。

 子どもが自分を褒める,それは育ちのアクセルを踏むことになります。育ちにも進入禁止や一方通行,飛び出し注意や制限速度といった守るべき標識があります。それらを守った上で,やはりアクセルを踏まなければ,育ちの道を走行することはできません。走る楽しさを知ることが,最も大切なしつけになります。育って当たり前ではなくて,育ってうれしいという気持ちが育ちを促します。褒めることがないという言い訳が聞こえますが,それは親としての役割放棄になります。

・・・ママ,できたよ,そのうれしい声が自分の育ちを褒めています。・・・



《子育てには,自走する育ちを整備してやる褒め言葉があります。》

 ○大きくなったね。その言葉を子どもはうれしく聞いています。お兄ちゃん,お姉ちゃんになれたんだと,自分に言い聞かせることができます。まだまだできないことがいっぱいあるけど,ちゃんと育っているんだ。その自信が次の育ちへのスタートになります。目覚まし時計を与えると,自分でちゃんと起きてきます。「起きれたね,偉いね」。「明日も自分で起きてくるからね」。「いつまで寝てるの」と起こしていては,叱るばかりです。褒めることができるように,仕掛けが必要です。

 幼い頃は自然に褒めていたはずです。それは我が子の育ちがうれしかったからです。でも,大きくなってくると,育てなければという責任のようなものにいつの間にか変質しているからです。子どもが自立できるような環境を整えてやらなければなりません。片づけができるように箱や棚をかわいく整えましょう。靴の脱ぎっぱなしが無くなるように,靴の絵を床に描いておきましょう。こうすればいいのよ。その誘いに乗れたら褒めてやる。育ちを楽しく演出しましょう。

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