*** 子育ち12章 ***
 

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「第 18-01 章」


『子育ては いのち奏でる シンフォニー』


 ■徒然子育て想■
『絆?』

 昨年一年の間に,お子さんはずいぶんと成長なさったことでしょう。大人の一年はさして変化は見えませんが,子どもの一年は見違えるほどです。それだけに育ちの姿がよその子と比べるときに大きく違って見える場合があります。うちの子はもうできるとか,まだできないとか,子育ての優劣を見せつけられるようで,何気ないやりとりでも気になってしまうものです。育ちのペース配分は一人一人の子どもによって違いますので,大して気にしないで下さい。かえって焦りが出て逆効果です。

 子育ては,さあ子育てと構えることではありません。また暮らしの邪魔になるからと家庭では子ども部屋に追い込んだり,専門家のいる園や学校に押し付けることでもありません。子育ては親が暮らしの中で行うことです。親以外の人が子育てという行為を行うことはできません。簡単に言えば,家族として共に日々を暮らすことが,子育てそのものになります。世話をしなければという発想,育ててやっているという意識,それは親の持つべきものではありません。

 どんな生い立ちで育ったか,それが人の一生を左右します。生い立ちとは家庭や地域の暮らしです。家族として育つことが,人の育ちの土台になります。もちろん,大人と子どものけじめは必要ですが,その上でできることを持ち寄るという共同生活を営めばいいのです。この話を持ち出すと,子どもにできるお手伝いなど見当たらないという反論が必ず出てきます。お手伝いと改まって考えるからです。家族が自分のことは自分でするということから始めればいいのです。パパも!!

 家族としての絆は,どこにあるのでしょうか? 家族は寄り添って生きていくものです。子どもは親を頼って育っていきます。夫婦はお互いに助け合って生きていきます。助けてもらうから家族になれるのでしょうか? 確かに家族のありがたさは,そこに見えることでしょう。でもそれは絆ではありません。夫婦がお互いに相手がいなくても生きていけると感じたら,離婚することになることからも推察できます。お互いに相手のために何かしてやれることがあるという気持ちが絆なのです。

 誰からも必要とされなくなったら,生きてはいけません。誰からも頼りにされなかったら,生きる気力は出てきません。誰からもいて欲しいと思われなかったら,生きる喜びはありません。必要とされる,頼りにされる,いて欲しいと願われる,それは常に心を開いて相手のためにできることを求め続けることで実現します。愛は受け取るものではなく,与えるものであり,それが絆を編み上げます。子どもが親の愛を受け取るだけではなく,与えることを覚えたとき,親子の絆が結ばれます。



【質問18-01:お子さんから,大嫌いと言われることがありませんか?】


 ○壁となる親!

 子どもの成長は早いので,去年の衣類は今年は小さくなってしまいます。経済を考えると,大きめの衣類を購入することになります。今年は袖と裾を巻き込んで着せておき,来年は解けばいいという案配です。今時はそんなみっともないことはしないでしょうね。第一子どもが贅沢になってきて嫌がることでしょう。少子という事情はお下がりという便法も使えなくしています。アルバムを見ている弟が,お兄ちゃんがボクの服を着ていると言う場面もなくなってきました。

 親は子どもの思い通りにしてやれません。お菓子が欲しいといった駄々に,いつも付き合っているわけにはいきません。何やかやで親の壁に阻まれたとき,子どもは「ママなんか大嫌い」と言ってのけます。親の都合ばかりではなく,子どものためによかれと思っていることもたくさんあります。それなのにそんな言葉を返されたら,やさしいママは落ち込んでしまいます。どうして分かってくれないの? その壁を乗り越えることが親と子の両方に課せられた一つのハードルです。

 女は弱し,されど母は強し。そんな言葉がありました。人は誰かを守ろうとするときに強くなれます。諦めるわけにはいかないという固い意志が湧いてくるからです。子どもを守りきろうとする愛が母親を強くします。それを慈愛と呼びます。ところで,子どもを猫かわいがりすることが親の愛と勘違いする場合があります。子どもの喜ぶ顔が見たい,それが愛の証であるからです。たしかにわがまま気ままをさせれば,子どもは喜びます。しかしそれは親の愛とは似ても似つかないものです。

 子どもが崖っぷちに立って飛んでみたいと願っているとき,親は無理矢理にでも引き戻すはずです。そんな大げさなことではなくても,災禍につながる危険を避けること,社会生活上してはいけないこと,人として恥ずかしいこと,家族の暮らしのために我慢すべきことなど,思い通りにならない現実の壁を,親は自分を壁にして子どもの前に立ちはだからなければなりません。それが子どもを守ることになるからです。悲しむことがないように育てることも大事なのです。

 子どもはママのせいで思い通りにならないと思ってしまいます。当然気分を害されるのですから,その不快感を解消しなければなりません。その処方箋としてママに言葉をぶつけてきます。黙って受け止めてやればいいのです。いったんストレスをはき出せたら,そこから育ちが始まります。どうしてママは自分の思いを拒むのか? もう一人の子どもが必ず考えます。なぜなら,思いを遂げるためにはママを説得できる理由を探さなければならないからです。

・・・もう一人の子どもは,親を壁に見立てて育っていきます。・・・


 ○親離れ?

 この頃子どもが外であったことを話してくれなくなった。心配なので,部屋の掃除の折につい子どもの机の引き出しを開けてしまったところ,買ってやった覚えのないオモチャがあります。「このオモチャはどうしたの?」と,帰ってきた子どもに詰め寄ります。「勝手に人の引き出しを開けて覗くなんて,ママなんて大嫌い」。思いもしない反撃をされて,ママはカッときます。してはいけないことをしたという後ろめたさを突かれたからです。

 許されることと許されないことがあります。我慢できることと我慢できないことがあります。ちょっとしたこととちょっとでは済まないことがあります。してはいけないことにも程というものがあります。ふうてんの寅さんが「それを言っちゃおしめえよ」と言いますが,「それをしちゃおしめえよ」ということもあります。たとえ親であっても子どもの人権を踏みにじるようなことはしてはいけません。人権? 一人前でもない子どもに,いっぱしの人権なんか認められるわけがない?

 人権の法解釈といった小難しい話はさておいて,子どもの育ちを大切にするという立場での子どもの権利と考えてください。もう一人の子どもは,自分を大切にしようとする自尊意識を持ち合わせています。その現れとして自分のものという所有権を意識するようになります。「ボクの机」であり,ボクしか触ってはいけないものなのです。掃除のためにママが机に触るのは,ボクにとっては許されることです。引き出しの中を見られることは,許し難いことになります。自尊権を侵されるからです。

 親離れとは,親の支配からの離脱です。親からもう一人の子どもへの支配権移譲なのです。自分のことは自分で考えて決めるということであり,その考える自分がもう一人の自分ということになります。このもう一人の子どもの誕生と育ちが,子育ての出発点になります。たとえ未熟で頼りなげであっても,もう一人の子どもとできるだけ対等な形で付き合っていく人権の尊重が,子離れになります。大嫌いという宣言は,内政干渉するなというプライドを掛けたメッセージなのです。

 悪い芽は早く見つけて摘み取らなければなりません。その大義名分を振りかざして子どもを監視検閲していると,子どもの中に反発を生み,度重なっていくと憎悪にまで凝縮しかねません。長じたときに暴発すれば,悲劇を招きます。皆さんがしているように普段の様子を見守っていれば,子どもに悪い芽があれば必ずぼろが出てきます。心配は程ほどにしておいたほうが無難です。子どもの心理的な領分にズカズカと踏み込んではいけないということを,気に留めて置いてください。

・・・親であっても,子どもの城に土足で踏み込んではいけません。・・・



《子育てには,気をつけないと親の身勝手が紛れ込むことがあります。》

 ○「早くしなさい,愚図なんだから」。後半が余計なひと言で問題です。子どもを否定しているからです。しつけは行動を正すことですから,「早くしなさい」はいいのです。愚図という言葉は子どもの存在をマイナス評価しています。自尊心を傷つけているだけで,逆効果です。どういう点で逆効果でしょう? 自分にいい感情を向けてこない人の言うことは聞きたくないと思うのが自然だからです。

 イヤイヤすることは身に付きません。嫌いなおかずを無理矢理食べても,身体が拒否するのと同じです。子どもが楽しくなるような仕掛けを編み出してください。遊びの形を取ればいいのです。「どっちが早くできるか,ママと競争!」。子どもは喜んで巻き込まれていきます。手加減して負けてやります。「すごい!」。子どもを褒めてやる機会が自然に訪れてきます。忙しくそんな悠長なことはやっていられませんか? いつでもということではなく,たまにでもいいのです。

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