*** 子育ち12章 ***
 

Welcome to Bear's Home-Page
「第 18-02 章」


『子育ては 光を目指す 一歩から』


 ■徒然子育て想■
『子育て守備陣?』

 昨年は女児の連れ込み事件が相次いで,通学路の安全が脅かされました。子どもをターゲットにする淫らな不心得が噴き出してくる時代とは,心の荒廃をいやが上にも見せつけてくれます。被害に遭うのは女児や女生徒に決まっています。娘さんをお持ちの親御さんは先行きを考えると不安を抱えてしまうはずです。帰宅時間には親が仕事で在宅していないという家庭では,ご近所や地域に見守ってもらいたいと思っておられることでしょう。

 地域の人びとはどう思っているのでしょう? 近くで事件が起これば地域ぐるみでの見守り活動が実施されますが,普通にはそれほど熱心な取り組みはなされていません。せいぜい月に一回のあいさつ運動といった活動などの事業が行われる程度でしょう。どこの子か,誰の子かも分からない子どもを見守りようがないとか,地域と関わりを持とうとしないで子どもだけを押し付ける親の身勝手さなど,地域はそれほどお人好しではないという本音を抱えているのです。

 お父さんたちはどう思っているのでしょう? あどけない笑顔を摘み取る犯罪は,人として許されないことです。それを臆面もなく実行できるような人が育っていることは,これまでの子育てが取り返しのつかない手抜かりをしたことを示しています。心の育てをないがしろにしてきたツケは,償いきれない罪につながります。加害者は男の子です。弱い者に手を掛ける卑怯さを男児たちに教え込んでこなかったのは,父親の無為の罪なのです。男児が将来加害者にならないように育児を・・・。

 子どもを見守り育てていく主役は,あくまでも親なのです。野球で言えば,投手と捕手というバッテリーが両親です。学校は内野手,地域は外野手です。子育てという野球はピッチャーである親が投球をしなければ始まりません。もちろんバッターは子どもです。ところが,バッテリーが所用で忙しくて野球場に登場してくれないと,どうしようもありません。仕方がないので,先生という一塁手が投手,二塁手が捕手の代わりをしますが,結果として内野はがら空きになって守備はガタガタです。

 観客である世間は,ピリッと引き締まったゲームであれば,ちゃんと見守ってくれます。ところが,乱れたゲームを見せられるとヤジを飛ばしはじめ,終いにはグラウンドに飛び込んで来て引っかき回すようになります。子どもを取り巻く雰囲気がざわついて落ち着かないのは,子育てというゲームが成立していないからです。学校,地域が受け持っている役割を果たすためには,バッテリーが打者ときちんと向き合うことが不可欠です。



【質問18-02:お子さんが,人の悪口を言い募ることはありませんか?】


 ○悪口の本音!

 砂場で遊んでいたら,「しんちゃんが叩いた」といって子どもが駆け寄ってきます。はじめてのことではないので,一度はちゃんと注意しておいたほうがいいかなと考えます。しんちゃんの傍に近寄って,頭上からいくぶんこわい顔で,「しんちゃん,叩いたらダメでしょ。怪我でもしたらどうするの?」と問いつめます。しんちゃんは砂を掘っていた手を止めて,見上げながらきょとんとしています。ママの後に隠れているかずちゃんを見つけて,やっと事情を察しました。

 「かずちゃんがボクの頭に砂を掛けたから,しないように払っただけなのに」。ママは困りました。先に手を出したのは,かずちゃんのほうだったのです。もちろん叩くということはいけないことですが,しんちゃんは叩くつもりではありませんでした。叩かれたと思ったかずちゃんの勘違いでした。幼い子どものぶつかり合いは,いわゆるケンカではありません。単なるトラブルであることがほとんどです。お互い様ということですから,黙って見守っておけば良かったのです。

 友だちと遊んでいるとき,自分の思い通りにしようとしても,友だちが邪魔になったり,友だちから邪魔をされたりすることがあります。子どもは相手を咎めるつもりではなく,邪魔をする子の悪口を言い募ります。そんなとき,ママはどうしていますか? 一緒になってお友達を悪し様に切って捨てていますか? そんなことはしてませんね。もちろん,子どもの訴えを無視してはいけません。きちんと受け止めてやらないと,不快感というストレスが解消できません。

 「そう,邪魔をされたの。嫌だったのね」。気持ちの裏にある本音を引き受けることだけをすればいいのです。決してお友達のことに言及してはいけません。ママがお友達の悪口を言ってしまうと,もう一人の子どももお友達は悪者だと思ってしまいます。自分の邪魔をする者は悪者であるという価値観が植え付けられてしまいます。そのような体験から学ぶべきことは,自分の思う通りにはならないということが社会の現実であり,決して相手が悪いのではないというお互い様のルールです。

 人はしたことは覚えていませんが,されたことは忘れません。マイナスの体験は生きていく上できちっと避けなければならない教訓になるからです。思いやりを教えるときに,「あなたがされたら,どう思う?」と言って聞かせますね。その場合に,されたという経験がある子どもはすぐに理解できます。もう一人の子どもが育っていれば,自分の嫌な思い出を介して相手と自分の立場を入れ替えることができるようになるからです。

・・・子どもの言う悪口は,自分の不快感を伝えようとしているだけです。・・・


 ○不信の波?

 勤め先の同僚と飲むときの話の肴は,上司の悪口と相場が決まっています。どうしてなのでしょう? 悪い人?を共有することで,仲間意識が生まれるからです。古来の独裁的政治家が利用してきた人間の奇妙な心理であり,隣国を悪い国に見立てることで国民の結束を謀っていました。今でも,隣国なのに仲の悪いペアというのが見かけられますね。身近な付き合いでも,同じ手が使われます。誰か適当な標的を見つけて悪口で色づけして,他の皆が仲良くなろうとしています。

 子どもたちも似たようなことをします。イジメです。揚げ足を取るような些細な種を穿り出して,ほとんど言いがかりでしかない悪口を生け贄に被せます。仲間づくりの幼稚な手段なのです。いじめることが目的ではありません。大人の目がイジメと見るから,状況判断を誤ります。もちろん,深入りすると本物のイジメに突き進んでいきます。いじめる快感を覚えてしまうと際限がないので始末に困ります。人の悪口を言うという芽は早く摘まなければなりません。

 人の悪口を言う癖が付くと,人間関係が結べなくなっていきます。表面では愛想良くしながら,陰では貶しているという二重生活は破綻します。必ず巡り巡って心底がばれてしまうものです。それよりもなお怖いのは,人を信じられなくなることです。人が自分の悪い噂を話しているのではないかと,疑心暗鬼に陥ります。それは自分がそうだから,人もそうだと考えるのが普通の成り行きだからです。信頼することを基盤にしている人間関係が持てるはずがありません。

 最近,学校の先生の悪口を言う親たちが増えてきたということを耳にします。子どもたちが先生の言葉を信用しなくなり,不遜な雑言を返すことが増えてきて,学級の統制が取れないこともあるそうです。先生が自分の子どもを学校にやるのが怖いと言っています。一部なのでしょうが,先生を信頼しないように扇動された子どもがいるのは教育を壊すことになります。また,人は自分が信頼されていないと分かると,やることがいい加減になります。自滅的な悪循環です。

 悪口は自分に他者への不信感としてはね返ってきます。それを避けるためには,自分も含めて人は100点満点ではないという自覚を持つことです。お互いに五十歩百歩であって,人のことは言えないという自制を利かせることです。悪口を言うことで清い心が育つはずもありません。もう一人の自分が自分を育てる上で,せいぜい他山の石とすること,人の振り見て我が振り直せという程度に留めておきましょう。その方が明るい気持ちで生きていけます。

・・・悪口の波は増幅しやすく,我が身の内外に揺り戻してきます。・・・



《子育てには,常用すると囚われてしまう危険な感情があります。》

 ○欲はなく決して怒らずいつも静かに笑っている・・・。宮沢賢治はそういう人になりたいと言っています。人は欲もあり怒ることもあります。そんな自分だから,静かに笑っていられるようになろうと願っています。いつも日向の方を向こうとすることで暗い気持ちに包まれていても日差しを感じることができます。人の気持ちは統制しづらいという意味で複雑ですが,目線を変えることで視界が広がれば,案外簡単に気分転換が可能です。明るい方を向くから明るい気持ちになれます。

 ある小学校で,雨にも負けず風にも負けずの詩を皆で朗唱していました。心づもりになる言葉を普段から口にしていれば,心の動きが真っ直ぐに向かうことができるからです。そんなことをしてどれほどの意味があるのかという疑いの目を持つとしたら,既に悪口病に罹患しています。信じてやってみる,それが前向きに取り組むという態度であり,決して無駄にはなりません。人は意味や効果を完全に見極められるほど利口ではないのです。いいことをしようとする,それが子育ての道です。

「子育ち12章」:インデックスに進みます
「子育ち12章」:第18-01章に戻ります
「子育ち12章」:第18-03章に進みます