*** 子育ち12章 ***
 

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「第 18-03 章」


『子育ては 泣きと笑いが 綾をなす』


 ■徒然子育て想■
『男と女の間?』

 幼女に対する猥褻目的のいたずら。目にするのも不快な言葉ですが,報道されない未遂を含めると,かなり身近になってきました。日本では性情報がほとんど野放し状態です。にぎわいを見せるショッピングセンターにあるレンタルビデオ店には,アダルトコーナーがあり,膨大なテープが直視できないような写真カバーをまとって一面に配架されています。健全育成組織による定期巡回の折に見回るのですが,生業を侵すことができないという壁の高さを恨めしく思います。

 スポーツ紙や週刊誌,さらにはネット内のエロ・グロサイト,一歩踏み込めば届くところに,淫らな情報が溢れています。メールを開けるとその手の勧誘がひっきりなしに飛び込んできます。見境のない発信が津波のように押し寄せてきます。その勢いに飲み込まれてしまう若者や中年男性が,バーチャルなヒロインにのぼせて,やがては弱い幼子女に手を出したくなっていきます。スカートの中を盗撮するなど破廉恥なことをする,歯止めの利かない自分が情けなくはないのでしょうか?

 心の教育という言葉が叫ばれている一方で,現状は心の腐敗が急速に進行し拡大しているようです。男女7歳にして席を同じくせずという故事は,カビの生えた戒めですが,その気持ちの上での隔離によって男女の性的な関係の乱れが抑止されていたとも考えられます。男女平等,参画という動きは人権という意味で大切なことですが,そこに男女の感性も同一視してしまうというバグが紛れ込んでいます。

 自分が好きだから相手も好きなはずというストーカー行為,手を伸ばせば待っているはずという痴漢行為。それは男性の思い違い。一方で,挑発的な仕草や装いを楽しむという無防備さ。それは女性の小さな思い違い。男女ともに異性の持つ感性を知らないという幼稚さが放置されています。男と女は違うんだ,男は怖いんだ,女は怖いんだ,だからこそ,仲良くできたら素晴らしいんだ。それを教えてやるのが家庭における父母の補い合って協力する姿です。もっとも基本的な性教育です。

 性犯罪者の再犯率は40%の高率だそうです。再犯毎にエスカレートすることを考えると,男の子の育てでは根っこが歯止めなく蔓延らないうちに切り取っておかなければなりません。子どもの育ちには思春期や性徴といった節目がありますが,そのことは男女お互いの生理や感性の違いをじっくりと吹き込む性教育が不可欠である証です。性というのは深いところにあるためにしつけが届きづらいのですが,だからといって無為のままでは抜きがたい禍根を残します。夫婦仲良くして下さい。



【質問18-03:お子さんから,後追いで泣かれることがありませんか?】


 ○後追いの本音!

 パパやママには生活があります。幼い子どもを四六時中べったり構ってやるというわけにはいきません。独りぼっちにさせたり,園やよそに預けたりしなければなりません。当然子どもは嫌がります。放り出される不安を訴えて泣きすがります。かわいそうだからといって,いつまでも抱え込んではいられませんし,それでは子どもの育ちも先に進めません。いずれは乗り越えなければならない試練なのです。もちろん,適切なフォローを必要とします。

 ママの姿を見失うと,子どもは慌てて探し回ります。いつも傍にいるものと思っています。乳幼児には,このような母子一体感がまとわりついています。気持ちの上ではまだ胎児の状態です。人の赤ちゃんは動物に比べて早産で産まれるので,仕方がありません。いつまでも,そのままではいけないので,母と子どもは一体ではないと思い知らせることが必要です。自分の思い通りにはなってくれないママの登場です。でも,泣けばすぐにそばに来てくれることを学習させておきましょう。

 子どもにとっては親の思いやりはなくてはならないものですが,いつまでも頼りっぱなしというわけにはいきません。親離れということは,親の思いやりを滑走路にして飛び立つということです。いきなりは無理ですから,小さな親離れを繰り返しながら独り立ちに向けた育ちをしていきます。親の姿が見えなくなっても,親がどこにいるかを知っていれば,帰っていく温かな懐がそこにあるという安心感を持つことができます。「ここにいるからね」,それが滑走路としての親からの信号です。

 傍にいて欲しいのに,ママが離れていく。その置いていかれるという不安が泣き声になって噴き出してきます。現実にはすぐ傍にいなくても,気持ちの上でママがついていると思えたら,十分ではありませんがなんとか我慢できることでしょう。「あのね,ママ」,「な〜に」。子どもはがんばったんだよという思いを分かって欲しいと語りかけてきます。「そう,がんばったんだ,えらかったね」。自分のことをいつも気に掛けていてくれるというママの笑顔が,ホッとさせます。

 親元を離れた不安と,親元に飛び込んだ安心。このセットを整えてやることが大事です。ママとの再会,思いっきり抱きしめてやります。がんばったら,ママがしっかりと受け止めてくれる,その繰り返しによって,ママとのつながりを時間的にも空間的にも伸ばしていけるようになります。気をつけることは,ママとのつながりを断ち切るのではなく,伸ばしていくという意識です。「ママ,お帰りなさい。あのね」,「後でね」。そのとき,つながりはプツッと切れます。

・・・ママの懐が開かれていると信じて,子どもは不安の旅を耐えます。・・・


 ○大事なもの?

 人は失ってはじめて何が大切かを悟ります。それまでは在って当たり前という甘えがあります。どこが甘え? 大切なものは自然に在るものではなくて,自分に向けてわざわざ与えてもらっているものです。それぞれの方の温かい思いやりと努力によって生み出されているものなのです。そのことに気付いたとき,人は自分がどれほど慈しみを受けているかを実感でき,自分の存在価値に思い至ります。「もし居なくなったら」。その想像ができれば,大切な人は見分けることができます。

 親元を離れて一人暮らしをするようになったとき,ホームシックにかかり家庭の温もりを思い出します。でも後戻りすることはできません。その温もりは自分の手で造り出さなければなりません。それが育ちの目的です。家庭を持ってはじめて一人前と認められるのは,温もりを発することが自立の資格だからです。月ではなくお日様になるということです。成人の資格はともかくとして,子どものうちは優しさを持って人と接することが育ちの目標になります。

 幼子の笑顔は,周りを明るくしてくれます。見ず知らずの人でさえ,気持ちを和ませてしまう力を持っています。その笑顔を絶やさないようにしてやりたいものです。でも,本当の笑顔は,哀しみを乗り越えた後に現れるものです。大事なことは共感をベースにしているかどうかということです。哀しみを受け止める笑顔は,それほど簡単には獲得できません。なぜなら,たくさん泣かなければならないからです。

 子どもは泣きながら生まれてきます。泣かなくなることが育ちです。幸いなことが一つあります。今泣いたカラスがもう笑うという,子どもの早変わりです。泣いている間は大丈夫です。泣けないほどのストレスをもたらすことは避けなければなりません。泣くことは,気持ちの方向転換をするときの軋み音だと思えばいいでしょう。泣けば哀しみをいくぶんかは解放することができます。育ってくるにつれて,泣かずに涙一筋に抑えることができるようになります。

 泣きたいときは泣かせておけばいい,それが育ちの階段です。それを妙に慰めようとすると,気持ちが横滑りしてしまいます。最近の子どもは泣かなくなったといわれます。哀しい目に遭わずに済んでいるということでしょうが,そのままの育ちでは芯を形成できません。何が大事なことであるかを心に刻む機会が失われているからです。体験不足という昨今の指摘には,哀しさを遠ざけていることも含みます。毒は薬ですが,同じように哀しみも育ちの糧なのです。

・・・涙の数だけ優しさに輝く宝石が増えていきます。・・・



《子育てには,喜怒哀楽という心の味付けがあります。》

 ○年若い両親が,赤ちゃんが泣きやまないからという理由で折檻するということはあり得ます。その折檻が程度を越えてしまうと傷害や致死になっていきます。泣き声は負の感情の発露ですから,聞かされるほうにも不快感を与えます。他人であればイライラすることになります。親の場合には,泣く理由を解消してやろうと願いますが,泣き声の届けるメッセージが読み取れないと,そのことにイライラすることがあります。「どうして泣きやまないの?」。

 普段の生活が規則正しく営まれていれば,そこから外れたことがなかったかを思い浮かべると,原因が見つかります。いつもとは違ったものを口にした,いつもとは違ったところに出かけた,いつもとは違った時間に寝たとか起きた,いつもと違って暑いとか寒いなど,全般をチェックしてみます。子どもが生きている環境に目配りをすることが,親の保護役割なのです。食べさせていればいいといった簡単なものではありません。少なくとも衣・食・住を考えるようにして下さい。

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