*** 子育ち12章 ***
 

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「第 18-04 章」


『子育ては 人の触れ合い 育ち合い』


 ■徒然子育て想■
『無関心の逆流?』

 保育学会で問題になっているテーマの一つに,気付かない子どもというのがあるそうです。気付かない子ども? 隣で泣いている友だちがいても,どうしたのと傍に駈け寄っていかずに,自分の遊びを続ける子どもが増えているというのです。動物的な本能として,他者の不幸に寄り添い助けようとするパターンが組み込まれているはずだという精神医学者もいます。猫や犬などの動物が,傷ついた仲間の傍に寄り添っているシーンを見たことがあるはずです。

 関わりになりたくないから,知らんぷりをするというのは大人の卑怯さです。幼い子どもの場合には,関わりになるという思考はできませんので,気付かないふりではなく,正直に気が付かないのです。人の危機に気付かないという感度の鈍さは,生きる本能を曇らせていることになります。育て忘れているということです。さらには,人が泣いているということは,傍にいる自分にもその危機が降りかかってくるかもしれないという危機感に触れるべきことでもあります。

 普段の暮らしの中で,快適な場に育っていると,周りへの気配りが退化していきます。いくぶん快適さに欠ける程度の環境が育ちには必要です。もっとも手軽には,普段と違った場に入るという経験です。よそのお宅にお邪魔するとか,公共施設に出かけるとか,新鮮な場の雰囲気や流れを感じさせることです。慣れた家の中だけでは,五感を働かせる機会がないので,いきおい感度も低下していきます。使わない機能は眠ります。

 もう一つは,泣き声に対する共感の発動です。泣き声に心を動かされて身を案ずるという一連の感情のパターンがきちんと作動するとき,人と人は共感というつながりを持つことができます。泣き声は助けを求めているメッセージであるという意味の感じ取りが必要です。赤ちゃんである弟や妹がいれば,幼い子どもでも自然に泣き声の意味を弁えるようになります。少子化の中で十二分に慈しまれあまり泣かずに済んだ子どもは,泣き声を雑音としか感じていないのかもしれません。

 人との関わりを面倒なものとして最小限に抑えている現在の暮らし振りは,自分の必要なときだけ関わるというパターンになっています。人から関わられることには鈍感になろうとしています。困っている人のための募金箱は,できれば避けて通りたいと思うものです。私がしなくても,誰かがするだろう? そんな風に手を拱いている者を人は仲間と見なしてくれるでしょうか? 人に関心を向けないと,いずれ人からも関心を寄せられなくなっていきます。子育てご用心?



【質問18-04:お子さんが,ひとりぼっちでいることはありませんか?】


 ○人恋しさの本音!

 集団の中でぽつんとたたずんで,いかにもひとりぼっちになっているように見えることがあります。孤独は集団の中で感じられるものです。群衆の中の孤独という都会的な感情は,現代人が抱えている共通のものかもしれません。乗り物の中の乗客のように,お互いに何のつながりもない群衆,人の中にいながら孤独を味わっています。家庭でも個室化し,食事でさえも弧食化しているといわれています。ひとりぼっちになろうとしているのであれば,それもいいでしょう。

 誰も自分のことを見向いてくれない。それは自分の存在を保証してくれる者がいないということです。いてもいなくても一向に構わないという冷たい仕打ちを感じるはずです。自分の気持ちの中に他者を組み込めないとき,人は孤独の苦しみを味わいます。普通には,そんなことは現実的ではありません。ただ,感性が鈍いと,見えるものが見えなくなるので,仮の孤独を真性の孤独と錯覚することがあります。

 家に帰っても,誰もいない。ママやパパはまだ仕事から帰ってきていません。独りにおかれた子どもは,孤独です。テレビをつけます。流れてくる人の声を受け止めることで,人との仮のつながりに一安心できるからです。でも,家にはママの臭いがあり,パパの洋服があり,家族のあらゆる形があります。一時停止の映像のように動きはありませんが,想像力が働けば,ひとりぼっちは孤独とは違ってきます。待っていれば家族は揃うという我慢に転化していきます。

 家族としての役割があれば,つまり,留守の間に子どもがやっておく用事を持っていれば,孤独感は現れないはずです。具体的な暮らしの用事を介して,気持ちの中に家族が明確に組み込まれているからです。自分のする行為の先に家族が意識されており,家族の一人としての自分を実感できるからです。ハウスを自分たちのホームと意識できていれば,孤独を感じることはないでしょう。親がいないときにするお手伝いは,孤独を寄せ付けない予防薬になります。

 誰も自分のことを? その気持ちの淵に落ち込まないためには,一人とのつながりで十分です。子どもの時は,ママとのつながりです。世界中の人が無視しても,ママだけは自分とつながっているという絶対的な確信です。親友ができて,信頼関係を結びます。好きな人ができて,夫婦関係になります。月満ちて親子関係に広がっていきます。家族関係がガッチリとしていれば,世間とのつながりが揺らいでも,孤独に追い込まれることはありません。

・・・母子関係と夫婦関係が揺るがなければ,孤独という鬼は外です。・・・


 ○多様なつながり?

 少しは一人にして欲しい! 子育てをしているママはそう思うことがあります。「パパにお外で遊ぼうと言っておいで」,頼りになるのはパパです。遊びに出かけるパパの背中に,「休みの時ぐらいゆっくりさせてあげたいけど,ごめんね」と気持ちを重ねながら,開放感に包まれていきます。だからといって,のんびりしてはいられません。一週間分の家事が貯まっています。どうしてこんなに追いまくられないといけないのかしら? 私だけ? めげないで下さいね。

 自分から望んで独りぼっちになりたいことがあります。それはいいのですが,関わりを持とうとしたときに拒否されたら,辛い立場に追い込まれます。最も身近な例では,ご近所の方だからと思って朝の挨拶の声を掛けたら,返礼がなかったといった場合です。そんなあからさまな拒否でなくても,なんとなく人がよそよそしいと感じると不安になります。人がひそひそ話をしていると,自分のことではないかと思います。自分が噂をされると思うことが錯覚であり,迷いを引き寄せているだけです。

 大人でもひとりぼっちを押し付けられると,気持ちが滅入ります。子どもはなおさらです。仲の良かった友だちが急に離れて行ったら,すごいショックを受けることでしょう。子どもたちの交友関係は,クラスメイトが主流です。ところが,2年ほどでクラス替えがあり,付き合いが途絶えます。新しいクラスで交友関係を組み直さないと,気まずいことになります。やがて,別れを避けるために,はじめから仲良くなることを拒むようになっていきます。みんながひとりぼっちになります。

 子どもたちにいろんなつながりを持たせるようにしましょう。近所の友だち,趣味やクラブの仲間,塾仲間などです。すべてのつながりに仲良くする必要はありませんが,複数であればどこに行ってもひとりぼっちという事態は免れます。因みに,かつてのようにきょうだいがたくさんいれば,一つのつながりは保証されていることになります。少子化はきょうだいという長期で強力な人間関係を与えないことになることを知っておいてください。

 現在社会は,人の移動がかなり頻繁です。人とのつながりは出会いと別れの連続です。幼なじみが一生続くということは少なくなりました。成長の節目毎につながりは更新せざるを得ません。人間関係はじわじわと作られていくものです。情報化の中で簡単につながりができるように思っているようですが,心の底から付き合いができるというものとは違います。浅い付き合いに漂う危うさや脆さが,傷つきを恐れた引きこもりを生んでいます。人間関係という居場所の重要性を再考してください。

・・・落ち着きたいという本能は,安定した人間関係を求めます。・・・



《子育てには,豊かな人間関係という居場所があります。》

 ○場違いな自分。そんな経験は誰でも持っています。その場の雰囲気に馴染めない,話について行けない,流れが読めないなどの不協和を感じるときです。大人の場合には,そんな職場からは逃げ出したくなります。辞める理由のトップは人間関係といわれます。子どもの場合にも,クラスに馴染めないというとき,行きたくないという気持ちになります。ことさら皆と仲良くできなくても,いい雰囲気だと感じられたら,しばらく居てみようということもあります。

 場所を自由に変えることができれば,移るという手があります。しかしながら,居続けなくてはならない場合には,時として,自分の弱さと思って,自分を追いつめることがあります。学校に行けないのは,自分がダメだから! 「今のあなたのままでいいんだよ」。誰かがそう言ってくれたら,ずいぶんと楽になります。仲良くするということは,いろんな人が居ていいんだという了解です。もちろん,我慢を越えた嫌なことをしたりされたりすることは問題外ですが。

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