*** 子育ち12章 ***
 

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「第 18-06 章」


『子育ては 母の言葉で 磨き上げ』


 ■徒然子育て想■
『余白?』

 「昔々,あるところに・・・」と,おとぎ話が始まります。今の子どもは,昔っていつ頃? ある所ってどこ?という疑問を持つことでしょう。昔の子どもは素直だったのでしょうか? 昔という時間感覚を持っていました。おじいちゃんやおばあちゃんの向こうに仏となったご先祖さまという昔が,暮らしの中にあったからです。山奥に通じる道の向こうにどこかがあるという実感がありました。具体的なイメージはありませんが,何かしらがあるという感性が育っていました。

 情報化の進展と共に,映像による具体性に頼り切った感性が育ってきました。曖昧なイメージを抱えることが不安になっています。自分の想像力を働かせる余地が,かえって落ち着かない気持ちを誘い出すのでしょう。これは欧米の文化の特徴です。例えば,欧米の建築は細部にまで豪華な装飾で埋め尽くされます。ところが,和風建築は白木の木目だけが露わで,余計な飾りはありません。洋画の鮮やかさに比べて,墨絵には真っ白な空白があります。

 曖昧さを受け入れてきた文化が,細部にこだわる緻密さを求める文化で上書きされました。そのことが精神的な窮屈さを持ち込んできました。人との付き合いでも,好きか嫌いかというはっきりした形をとろうとします。適当に付き合うという曖昧さがありません。みんな仲良くすべき,そんなことは無理ですが,無言のうちに押し付けられています。あるいは,誰のものでもない,みんなのものという曖昧な意識が持てなので,公共意識も疎かになっています。

 言葉の世界も,抽象的な言葉が実感を失いかけています。単刀直入な言葉遣いが若者の世界を席巻しています。ムカツクやキレルという,深みのない言葉で感情を表現するしかないという窮屈さが,人間関係の余裕を奪っています。ぐさっと切り込む言葉を平気で人に向けるというケースもあり,穏やかに言葉をやりとりすることが苦手になっています。直感的な言葉だけに頼っているから,人情の曖昧な機微が人間関係からこぼれてしまいます。

 ズバリ言うわよ。あなたが悪い! それでは,そう言われた人は悪人ですか? 善人ではないから,悪人になるかも? 言った人と言われた人の思惑がすれ違います。ただ判断や行動が不適切であるだけなのに,人格に関わる言葉が持ち出されて指弾されるからです。善でも悪でもない,曖昧なところで人は生きています。それを良し悪しという際立った言葉で表現しようとするから,無用な痛みを巻き込んでしまいます。ものも言いようで角が立つのです。



【質問18-06:お子さんが,汚い言葉を口にすることはありませんか?】


 ○言葉の味わい!

 若者の言葉の乱れは,いつの時代にもいわれることです。いわゆる流行語をやり玉に挙げて糾弾しても,それは詮無いことです。言葉は次々と生まれてきますが,一方で忘れ去られていきます。残っていくのはわずかです。ゆっくりとですが,言葉の体系は動いていきます。明治に生まれた標準語はすっかり定着し,方言がいつの間にか年寄り世代にだけ残されているということになりました。辞書に古語辞典というものがあるのも必然です。

 残してはいけない差別用語というものがあります。びっこやちんば,つんぼといった蔑称は耳にしなくなりました。ごく最近のことでは,痴呆症という言葉は認知症と言い換えられています。障害者という言葉は害という字を嫌って,障がい者と筆記されるようになっています。言葉が当事者に押し付けるイメージを改良しようという動きですが,逆に言えば発言者に差別する意識を芽生えさせしまうことを避けるためでもあります。

 学校で共に学んでいる仲間である障がい者を,子どもたちは陰で「ガイシャ」と呼んでいます。漢字で書けば「害者」となります。人を蔑んで溜飲を下げるという心根が卑怯です。もちろん,そのような言動を悲しみ,憎んでさえいる子どももいます。それが真っ当ということです。言い出した子どもはちょっとした悪ふざけのつもりであったかもしれません。それが汚い言葉だと気が付いて反省できれば,災い転じて福となすと考えることができます。

 もう一人の子どもは言葉を糧にして育ちますが,悪意のある言葉を常用していれば,自然に染まっていきます。だからといって,きれいさっぱり無くしてしまえばいいということでもありません。汚い言葉を口にして,苦い目に遭うという経験が必要です。言葉には口にしていけないものがあると認識させるための試薬が必要なのです。どういう種類の言葉が汚いのか,いくつかの例題を持っていないと判断できないからです。

 ハイハイ時期の赤ちゃんが何でも口に放り込むのと同じで,手当たり次第に言葉を拾ってきて口にします。ママがどんな反応をするかで,言葉の味を確かめようとします。言葉は自分の感性だけではなく,相手の感性ともつながっているからです。相手が喜ぶ言葉か嫌がる言葉か,それが言葉の意味として最も大切な要素です。その味加減をきちんと教えてやることが,言葉のしつけです。子どもの言うことだからと対応を疎かにしてはいけません。

・・・ママの子どものための手料理は食事だけではなく,言葉もあります。・・・


 ○汚れた言葉?

 汚い言葉といえば,罵詈雑言とか,いわゆる下半身に関わる言葉が思い浮かびます。それらが汚いということは誰にとっても明らかです。幼児期の言葉の採集時には,子どもたちが口にしてママに叱られることになります。気をつけるのはその先です。人のよいのにつけ込む詐欺や,人の弱みを暴き立てる噂,冗談に紛れて仕掛ける中傷,程度の差はありますが薄汚い言葉遣いです。真っ黒の汚さではなく,灰色の汚さです。その汚さをきちんと感じ取れることが,人間性への入口です。

 言い過ぎたと悔やむことがある一方で,そこまで言われなくてもと悔しい思いをすることがあります。大人の社会でも珍しいことではありません。言葉には人との関係を作るだけではなく,壊す力もあります。トラブルの中には,言った言わないという行き違いによるものも少なくありません。感情的な興奮状態で口にされた言葉は,ほとんどが余計な言葉,それも人を傷つける汚い言葉になります。そんな不注意なことが無いように,子どもの時からの訓練が必要です。

 世の中は甘くはないと言われ,正直者が馬鹿を見るという処世訓もあります。馬鹿にはなりたくなかったら,正直者であることを止めなければなりません。「人がしているから自分も」という言い訳を担ぎ出して,不正直の入口をあっさりとくぐり抜けます。「ちょっとぐらいいいじゃない」という呪文を唱えて,越えてはいけない一線を跨いでいきます。その先は坂を転げ落ちていきます。馬鹿を見ても正直者である方がいいという清々しさの選択が,言葉の重みを教える目当てです。

 小賢しいという言葉があります。口先だけの言葉を上手に操っても,心根が灰色に濁っていると馬脚を現します。口のなめらかな人より,言葉少なく訥々と話す人に信用がおけるという生活感覚が,暮らしの堅実さをもたらしてくれます。言葉は色に似ています。言葉をたくさん混ぜ合わせ過ぎると,終いには汚い真っ黒になるということです。必要な言葉を適正に連ねておけば,言葉の色がくっきりと鮮やかに伝わります。美辞麗句のいかがわしさも要注意です。

 野に咲く花と造られた花は,どちらが美しいかは歴然としています。美しいという言葉は生きることに根っこがあるからです。同じように,言葉は生きること,現実とつながってこそ本来の輝きを発します。今,子どもたちが楽しいという言葉を現実の生活とどれほどつなげて語っているでしょうか? ゲーム遊びの世界にしか楽しさがないのであれば,楽しいという言葉は浮き草と化します。一つ一つの言葉の現実味が薄れていれば,やがて感性や思考も薄汚れていくことでしょう。

・・・健気に生きている人の言葉を大事にしましょう。・・・



《子育てには,本物の言葉を見分ける感性の伝授があります。》

 ○話せば分かるということが,コミュニケーションへの期待です。しかし,一つの言葉が共感を引き出さなければ,話しても無駄という仕儀になります。共感は体験を母とします。同じ釜の飯を食うという共通体験が,つながりを共感させてくれます。家族という言葉は,団らんと結びついています。そこでの食事には美味しいという言葉が相応しくなります。贅沢な食事が美味しいのではありません。お金では買えないものが本物だということを思い出してください。

 ところで,言葉のエキスパートであることが運命づけられている女性は,泣き落としをはじめとして多様なテクニックを持ち合わせています。一方で口べたな男性は,口では太刀打ちできず,分が悪くなると手足が動き始めます。行き過ぎるとドメスティックバイオレンス(家庭内暴力)に進みかねません。どちらも,お手柔らかにお願いします。結婚は幸せになるためではなく,一緒に苦労できるためだったのですから。ごめんなさい,余計なことでしたね。

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