*** 子育ち12章 ***
 

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「第 18-08 章」


『子育ては いのちの魅力 磨き上げ』


 ■徒然子育て想■
『本当のこと?』

 長崎県教育委員会が1月24日に,小中学生を対象にした生と死に関する意識調査の結果を発表しました。西日本新聞17年1月25日朝刊の記事から,抜粋しておきます。「死んだ人が生き返ると思いますか」の問に「はい」と答えた割合は,全体では15.4%でした。年齢別では,小学4年生17.4%,小学6年生13.1%,中学2年生18.5%であり,中学生の方が高くなっていました。中学生の方がテレビや映画に多く興味を持つ中で,生への関心も高いために影響を受けているのであろうというコメントが付記されています。

 そう思った理由については,「テレビや本で生き返る話を聞いたことがある」が全体でほぼ半数の49.3%,「テレビや映画で生き返るところを見たことがある」が29.2%,「ゲームでリセットできる」が7.2%でした。また,中学2年生を対象にした「人を殺したときにどんな罰を受けるか,法律や制度について知っていますか」の問では,47.3%が「いいえ」と答えました。抜粋は以上です。

 いろんなところで語られている「ゲームでリセットできる」からという理由が,思いの外に少ないと思われませんか? テレビや本は本当のことを語り書いていると素直に信用していることを伺わせます。不思議な事象を取り上げる番組や記事がありますが,ありえないことだから楽しめるという逆転の鑑賞法を知らないようです。本や現代版講釈であるテレビからだけ知識を得ている危うさが見えてきます。論語読みの論語知らずという古い言葉が生き残っています。

 子どもたちはぬいぐるみを友だちと実感しています。クリスマスのサンタクロースを信じている子どもは,心いっぱいに温もりを育てています。でも,それは幼児期までです。児童になれば現実世界に向けた修正をしていく必要があります。夢のようなことと言いますが,想像の世界では不可能なことはありません。動物とお話ができるといったおとぎ話が,幼児期には当たり前の事実になっています。お話の世界はあくまでもお話であるという目覚めが,幼児期の卒業科目になります。

 情報社会のまっただ中で育っている子どもたちは,情報に洗脳されていると考えていた方がいいのです。言葉や画像で伝えられている情報は真実のほんの一部に過ぎません。例えば,テレビを見ている犬が画面に出て来た犬に当初は興味を示したにしても,すぐに無視するようになります。犬ではないと分かるからです。見たままを信じるのではなく,嗅覚という別の知覚を働かせているからです。簡単に言えば,視聴覚オンリーではなく,五感による情報認識が生きる力を発揮させてくれるのです。



【質問18-08:お子さんが,生きものをいじめることはありませんか?】


 ○いのちの教育!

 台所に出没するゴキブリ。逃げていくママと,追いかけ回すママ。どちらでもいいんですが,ゴキブリは害虫なので抹殺して当然と思っていますね。おおむねママは虫が嫌いです。小さくてゴソゴソ動く生きものなので,子どもは興味を持って掴まえたりします。外に出てわけの分からない虫を手に掴んで,「ママ,こんなのがいたよ」と目の前に突き出してきます。「な〜に?」とのぞき込んで,「キャー,捨ててきなさい!」。

 子どもは背が低いので,大人より地面が近くに見えます。動くものは目に付きやすく,突いてみたくなります。アリが行列をしていると,その整然とした行動を乱してみたくなり,足で踏みつぶします。アリの行列はひとたまりもありません。大騒ぎを見下ろしているとしてやったりと征服欲が満たされます。虫けらという言葉があるように,虫に命があることなど思いもしないのが普通でしょう。セミやトンボを追いかけて,狭い虫カゴに閉じこめて遊びます。命を弄びます。

 魚釣りにいきます。エサに針を忍ばせて魚をだまし討ちです。無理矢理水中から引き上げて,飲み込んだ針をむしり取って,窮屈なバケツに放り込みます。やがて魚は息が続かず,アップアップしてひっくり返っていきます。料理の際には,生きたまま切り刻まれたり,熱湯に落とし込まれたりします。人は生きるために生きものを食材と名付けて食べています。ニワトリではなくかしわと呼びます。牛ではなくビーフなのです。仕方のないこと?

 周りにはたくさんの生きものがいて,人は否応なく関わりを持っています。害虫という切り捨て,虫けらという玩具,食材という身勝手,何重にも価値尺度を設けて,生きものをランク付けしてきました。人の歴史の中でできあがった生きもの観ですが,そこには人の哀しさが込められていたはずです。食物連鎖という自然の過酷さを意識して背負うことで,人は生きる意味を弁えることができます。命をありがとうという感謝,いただきますという言葉は,生きている呪文なのです。

 小動物を友だちとして育っていく子どもが,時には悪ふざけでいじめてしまいます。動かなくなった生きものが何を失ったのか,自分が何をしたのか,きちんと後悔をする機会を持たなければなりません。スーパーで食材に化した姿しか見ていないから,いただきますの気持ちが育ちません。いじめることをしないから,哀しさの気付きが無くなります。犬や猫やウサギにまで酷い仕打ちをする子どもは,いのちから隔離されて,いのちの教育を受けていないのです。

・・・失われた命を感じることで,いのちは無駄にはなりません。・・・


 ○一度っきり?

 子どもは一度は小動物を身近で飼いたいという気持ちを抱きます。「面倒をみるから」と約束をしますが,永続きはしません。そのときは本当に固い誓いをしますが,時が経つと興味関心が移るという変化を自覚することができません。子どもが持っている時間感覚は今現在であり,明日という遠い将来のことなど見通す力はまだありません。同時に,昨日のことも昨日に置いてきますから,約束は守られません。今やりたいことの足枷になる昨日の約束はなおさらです。

 生きものの面倒をみないという放置は,ネグレクトという虐待行為になります。人の世界に連れ込まれた小動物は,自分で生きる道を閉ざされているので,人の世話を受けないと生きていけません。面倒をみるといった中途半端なことではなくて,まさにいのちを預かっている重大事なのです。「忘れちゃった」と簡単に言えるものではありません。そこでついママが「仕方がないわね」と肩代わりをすることになります。でも,できればギリギリまで,その手は畳んでおいて欲しいのです。

 エサをやるのを忘れていたら夕食抜きという厳しさから,おやつ抜きにするという注意喚起まで,子どもの年齢と状況に応じて責任を引き受けさせるための手だてが必要です。エサを食べられなかったらどういう感じがするかを実感させるためです。口で言って分からせたつもりでも,それが心に刻まれることはありません。共感という定着作用が働いてこそ,忘れ去ることを免れます。お仕置きといえば大げさですが,心に焼き付けるための熱い教育です。

 次のステップがあります。どんな小動物でも飼育は難しいものです。普通は短い期間で死なせてしまいます。夜店で掬った金魚や,かわいいひよこなどがそのような運命を辿ります。子どもは小動物が眠っているとか,ただ動かなくなったという程度の理解しかできません。いのちというイメージは,二度と動くようには戻らないという死のイメージでしか伝えることができません。死んでいない間が生きているという逆説です。お墓を造って,いのちの終わりを見届けるセレモニーをして下さい。

 身近にいる小動物や虫などの生涯を見届ける機会を持つことが,いのちの教育になります。確かに楽しいことではありませんが,目をそらしてばかりいると,子ども自身のいのちへの執着が育ちません。最近の傾向として,青春期の迷いから逃れる道としてあっさりと自分や他人の死を選ぶ事例が増えていますが,本当は選ぶ意味のない道だという自明なことが教えられていないからです。いのちの尊さを教える数少ない機会を逃さないようにして下さい。

・・・生きている尊さを教えておかないと,自他のいのちを軽んじます。・・・



《子育てには,いのちの在りようをしっかりと教える責務があります。》

 ○転んで痛い思いをする,小さな傷を負う,熱を出して苦しい思いをするといった,生きている中で味わう負の経験は,大事ないのちの教育の機会になります。生身の自分を実感することで,生きている自分を感じることができます。不安定な気分に落ち込んだ若者がリストカットをするのは,痛みを感じることで自分の存在を確認できるためのようです。生きているのは肉体があるから,そんな単純なことを見失う若者が増えてきたのは,快適環境の中での育ちになっているせいかもしれません。

 暑い夏,寒い冬,遠い道,きつい坂など,身体が生きる努力をしなければならない環境が激減しています。楽に暮らすことに慣れているから,身体という自分を感じなくなっています。肉体感覚を使わなくなったことは,肉体という実体を黒子のような存在に変質させてしまいます。精神的な弱さという特徴も,身体から精神が遊離しているために,いかにも頼りない自分という気持ちに追い込まれてしまうからです。

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