*** 子育ち12章 ***
 

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「第 18-10 章」


『子育ては 思い適える 道求め』


 ■徒然子育て想■
『集団による学び?』

 パソコンによる学習ソフトがいろんな形で提供されているようです。自分のペースで進められるので,習熟度に合わせた学びができるというメリットがあります。この学び形式が家庭から飛び出さず,学校での集団による学びを駆逐することのないように願っています。あくまでも一昔前の学びにあった家庭教師の替わりであってほしいのです。最近,教室での学びに対する信頼が失われているような風評が気になっています。集団であることの意味が見落とされていないでしょうか?

 一斉授業のデメリット,それはすべての子どもに合致するレベルの設定が不可能であるということです。つまり,できる子どもに合わせるとできない子どもは置いていかれ,できない子どもに合わせるとできる子どもは物足りない,という言われ方をします。そこで習熟度別の学習を取り入れ,複数のレベルの授業をすればいいという対応がなされます。その考え方には,集団で学ぶという広い学習価値が欠落しています。教わるということに固執しているからです。

 先生は先頭集団を引っ張るペースメーカーです。後尾が付いて来られないのは,当然。そこに集団という機能が効き始めます。理解できた子どもに対して,理解できていない子どもに教えるという新しい課題が発生します。子ども同士ですから,先生よりも上手に理解を助ける説明ができます。理解への段差がどこにありどれほどなのかを経験したばかりですから,適格にアドバイスできます。理解という波がクラス中に広がっていく,それが集団による学びです。

 できる子どもは,教えるという課題を追加されることで,物足りなさなど感じる暇がありません。実のところ,教えるというプロセスを経ることで,学びは完成していきます。できない子どもも,友だちの助けで理解できるようになります。もちろん,科目が違えば立場が逆転することもあります。集団では教え教えられ学び合うという教育効果が期待されています。そこには,自分よりちょっとだけ先に理解した者からの体験に基づいた助言が得られるという特長があります。

 こんなことも分からないのか? そんな感想を口走るのは,理解の力にあまりに開きがありすぎるから,無理な指導助言をしていることに気付かないためです。今さっき分かったばかりの友だちは,自分がつまずいていたところ,勘違いをしていたところが分かっているので,最も適切な助言ができます。じつは,人に助言をするとき,自分がつまずいていたのは何であったかを考えなくてはなりません。それが大事な学びになります。教えることで学びは深くなるものです。



【質問18-10:お子さんが,ふてくされて逆らうことはありませんか?】


 ○ふてくされても!

 親の都合や規格に適っている家庭生活では,子どもは不適合を起こします。例えば,家具類は大人の背丈サイズですから届きません。時間にしても大人のペースが優先されて,気ままというわけにはいきません。思い通りにならないのですから,ふてくされたくなるのも無理もありません。何かと不自由な思いをしていることを分かってもらいたいという態度表明です。ふてくされても仕方のないことが分かるまで,見守っておくしかありません。以上は,大筋としての考え方です。

 ママから気に入らないことを言われて,子どもがドアを乱暴に閉めて出ていきます。「壊れるでしょ!!」と鋭い声が,子どもの背中を追いかけます。「すぐふくれるんだから」とつぶやきながら,「言われたくなかったら,ちゃんとすればいいのに」と気持ちの揺らぎを収めようとします。子どもの八つ当たりを突きだしたために,ママもいらついてしまいます。ママのいらつきはそのまま子どものいらつきと同じものだと知っておいてください。

 もう少し説明が必要ですね。売り言葉に買い言葉というマイナスのコミュニケーションがあります。小さないらつきが行き来する内に段々と増幅して激しくなっていきます。いらつきがいらつきを生み,怒りにまで至る悪循環です。もちろん,お互いのいらつきの内容は違っていて変化もしますが,いらつき状態は同じです。この連鎖反応を放っておくと,収拾がつかなくなります。どちらかが抜け出さなければなりません。ふてくされた子どもに真っ当に反応しないことです。

 子どもの場合は,ふてくされるという態度を見せてくれる方が,精神衛生上は適っていると思ってください。感情の表現が拙いだけであって,こもらせないことの方を良しとしましょう。ふてくされるのは自分に対する怒りであることが大半です。無理に抑え込もうとすると,反発することの方に方向転換します。その対応が続くと,やがて人のせいにすることで,ふてくされのエネルギーをその人にぶつけてくるようになります。

 ふてくされることのない暮らしは,かえって育ちには相応しくないでしょう。我慢を覚える種になるからです。耐性を育てるためには,不自由さに直面しなければなりません。宝くじに当たるためには,券を買わなければならないのと同じです。欲望が通らないという現実を受け入れなければ,わがままに歯止めが掛かりません。そのブレーキの軋みがふてくされるという症状として現れているのです。ふてくされて,それをグッと飲み込みながら,我慢できるように育っていきます。

・・・適当にふてくされて,乗り越える体験がたくましさになります。・・・


 ○現実の扉?

 ふてくされる子はかわいくないですね。ご機嫌を取ろうと,「かわいくないよ」と言うと,「かわいくなくていいもん」。パパはこうして嫌われていきます。子どもながらに,ふてくされていることとかわいさとは関係がないと知っています。はぐらかされているという気付きがあるからです。余計なお世話という感覚です。それどころではないのです。自分の中の葛藤をどうしようもなくもがいているときに,冗談を投げかけてくる思いやりの無さがやりきれないことでしょう。

 ふてくされている中味は局面毎に多様ですが,パターンは同じです。しようと思っていたのにできなかった,思いもよらず叱られた,期待していたのに裏切られた,気にしていたことを突かれた,よかれと思ってしたことが拒否された,などです。思いと現実が違ったとき,思いの勢いを持って行き場がなくなるのです。現実に合わせて思いを修正するためには,気持ちの軋みを持ちこたえなければなりません。表情や態度を整える余裕がないので,ふてくされたという態度になります。

 物事にはやってみなければ分からないということがあります。砂場で穴を掘っていたら,もう少しというところでドサッと崩れます。砂が思い通りにならないので,ふてくされて砂遊びはもう嫌だと投げ出します。友だちの家に遊びに行って遊べないと断られたら,ふてくされたくなります。やってみるとうまくいかないことがたくさんあります。いちいちふてくされていたら,八方ふさがりになります。そこをどう切り抜けるか,とても大事な育ちの課題になります。

 自分の思いを現実とすり合わせようとすることで,人は成長していきます。大人が持っている「世間なんてそんなもの」という達観も現実の前では自分が無力だという諦めですが,幾多のふてくされを味わった末のことです。もちろん,子どもの行く末がそれでは寂しいですが,少なくとも我を通すことは無理だということは納得した上で,現実とのすり合わせをする力をつけなければなりません。ふてくされるエネルギーを前向きに変えるということです。

 このふてくされた気持ちを現実に振り向けて,どうすれば現実の壁にある扉を開けることができるかを考えるようにします。そのためには現実の中にある約束事を学んで利用するようにします。「して!」というよりも「してください」と言った方が人は動いてくれる,できなかったら「助けて」と頼めば手伝ってもらえる,分からなかったら「どうしたら?」と尋ねれば教えてもらえる,友だちと遊べなかったら「あしたね」と約束することができる・・・。寄り添って導いてやってくださいね。

・・・現実の扉を開けるには,小さな鍵を見つければいいのです。・・・



《子育てには,現実と仲良く付き合うという必須科目があります。》

 ○最近,自分という存在に確信を持てずに精神的に彷徨ってしまう若者が増えているそうです。生きている実感が持てないとか,本当の自分が分からないとか,明日が見えないで不安であるとか,いろんな不安定な気分を抱え込んでいるようです。確かな自分とは,現実世界の中であくせく生きていることで得られるものだと思います。現実にきちんと直面していれば,現実という壁とそこにある扉を手探りで探しているという自覚が生まれます。

 スーパーで買ってきた出来合いのおかずを食べている暮らしでは,現実との関わりが希薄です。食べるために料理をするという手間の扉を通り抜けてはじめて,生きるために食べるという実感が得られ,手を使った自分を確認することができます。金さえあれば生きられる,そう思っていると,自分の存在が生きる現実に関わらなくなり,自分が見えなくなっていきます。勉強だけしておけばいいという生きる現実から隔離された育ちの怖さは,大事な自分意識を失うということなのです。

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