*** 子育ち12章 ***
 

Welcome to Bear's Home-Page
「第 19-01 章」


『子育ては 産みと育ての 二人親』


 ■徒然子育て想■
『もう一人の自分?』

 自分のことが好きですか? 突然の質問ですが,答えは「YES OR NO ?]。普通には,好きなところと嫌いなところがあるでしょう。その上で,どちらかといえば好きということになりますね。現実の自分は,こうありたいと願っている自分とは違うものです。そこで,ダメな自分と判定すれば嫌いになります。なんとかなると努力していれば好きになれます。よりよい自分でありたいという向上心は大事ですが,高望みはしないことです。

 自分のことが好きになれる子どもに育ってほしいですね。ところで,自分のことが好きになるというとき,誰が好きになるのでしょうか? 自分が自分を好きになるということですね。二人の自分,絶対的な自分と相対的な自分が居ます。気取っていえば,現実自己と自己概念という対比です。この羅針盤では,自分ともう一人の自分という表現をしてきました。自分をもう一人の自分が好きになるという構図です。そして,子育ての対象は「もう一人の子ども」であると考えています。

 鏡に映る自分を「私は何と美しい!」と見惚れているもう一人の自分がいます。子どもを産んだ産みの親と,もう一人の子どもを育てている育ての親がいるというわけです。この羅針盤では,育ての親を応援しています。もう一人の子どもが人格であり,責任能力を持っているヒトです。成人とはヒトに成るという風に考えます。食べさせておけば子どもは育つという養育観は間違ってはいませんが,もう一人の子どもの養育を放棄していることになるのです。

 子どもが自分のことを「ボク,ワタシ」とか名前で表現するようになったとき,もう一人の子どもが誕生します。この羅針盤では,第二の誕生と呼んでいます。その時期に,産みの親から育ての親にバージョンアップする必要があります。目の前にいる現実の子どもではなくて,ボク,ワタシと言っているもう一人の子どもを養育する態勢に変わらなければなりません。親離れの時期,第一反抗期とは,もう一人の子どもの誕生に伴う陣痛に相当するものです。

 もちろん,この二人の子どもは仲良しでなければなりません。もう一人の自分が自分のことを好きになれるような育ちが目標になります。そのためにどうしたらいいのか,それがこの羅針盤の主なテーマなのです。この19版では,12軸として考えていきます。12の軸に添ったバランスのとれた育ちが,健全な育ちという漠然とした目標を具体化したものになります。親として子どもにどう接したらいいのか,その必要十分な手だてについてまとめていきます。



【質問19-01:任せているから,考える子どもに育ちます!】


 ○第1軸:任せる

 子育てで遭遇する最大の壁は,子どもは親の思い通りにはならないという虚しさです。親だからという焦りがあると,イライラして無理難題をしつけと称して押し付けたくなります。その先は虐待に行き着きます。自分の子どもという気持ちが所有者という思いにすり替わったとき,奴隷や家畜の飼い主と同じに強権を託されていると錯覚するようになります。自分の子どもだからどうしつけようと親としての監督権の中にあるという屁理屈を持ち出します。養育と飼育とは違います。

 よく言われることは,「子どもは親とは別人格である」ということです。人格? 手元の辞書には「その人の物の考え方や行動の上に反映する人間としてのありかた」とあります。未熟な子どもに人間としてのあり方を期待することが無理だと判断すれば,子どもは人間ではないという結論にいたり,だから親が監督責任を負うということになります。親の思い通りに強制することでしつけをしなければいけないことになります。親が主導する「子育て」を優先します。

 一方で,未熟ではあっても子どもは人間であると認めることもできます。未熟さをカバーしてやりながら,人間として共に生きていくという中で,子ども自身による成長を期待する育て方もあります。もう一人の子どもによる「子育ち」を優先させることです。子どもには子どもの世界があり,親の世界とは多少違ってはいますが,すぐ傍につながっている世界です。子どもの立場をある程度認めてやることです。

 親は家庭と仕事場を出入りします。同じように,子どもは子どもの世界と親との世界を出入りしています。子どもの世界のことは子どもに任せます。遊んでいる子どもには,遊びの世界を任せておきましょう。もちろん,遊びの世界の外には危険があるので,そこはしっかりとガードします。危険に対する壁になってやり,中では自由にさせておきます。それが見守るということです。遊んでいるのに,口を挟んだり,手を貸してやっては,干渉になります。

 早く,さっさと,ちゃんと,というかけ声は,必要なときだけにして,子どもがしようとしている気持ちをしっかりと受け止めてやってください。子どもが何かに行き詰まっていても,取りあえずは任せておきます。必要に応じて,してみせるとか,ヒントを与えるとか,手助けをしてもいいですが,それを受け入れるかどうかは,子どもに任せておきましょう。自分でするんだとあくまでもがんばっているのなら,そうさせておきます。未熟な能力であっても総動員しようという気持ちを大切に!

・・・親が任せていると,もう一人の子どもが活動をはじめます・・・


 ○考える機会!

 何が食べたい? 献立に苦労しているママは,尋ねます。子どもはたいていカレーやハンバーグなどの好物を提案します。「昨日,お肉を食べたでしょう! 他のものでなければ」。食事は日替わりするものという知恵を授ける機会です。今日の献立を考えるときは,昨日,一昨日の実績を勘案するという物差しがあります。海や山の幸には旬という時期があり,今の季節は何が美味しいかという情報も取り入れなければなりません。もちろん,お値段も大事です。献立を教材にして考える訓練です。

 テレビを主体的に視聴する。主体的とは? 一言で言えば,考えるということです。視聴した情報を記憶するだけでは,育ちはありません。それはただのメモリーに過ぎません。育ちはOS=operating system の構築です。情報をどのように組み合わせるか,どのように新しい情報に組み替えるか,そういった作業をすることが考えるという行為になります。自分なりの考えを創造できるプロセスがきちんと機能しているかどうかが,主体的か否かの基準です。

 ママの姿が見ません。子どもはべそをかくかもしれません。でも,しばらくすると探そうとします。ところで,捜し物をするときには,たいていは心当たりを探しますね。あそこではないかなという状況判断をしているはずです。子どもも同じです。ママはあそこかもしれない? これまでに見て覚えてきたママの居場所のデータを思い出しながら,一所懸命に心当たりを考えます。子どももなんとかしようというときには,考える力を発揮できるのです。

 遊びに出ていて,雨に降られることがあります。大あわてで雨の中を走って帰ります。お家についたときはびしょ濡れです。外の雨は降り止んでいます。しばらくの間どこかに雨宿りをしていたらよかったのに,という経験をします。同じような事態に再び合うときには,その経験を思い出せば助かるはずです。状況を適切に判断できる考える子どもに育ちます。今できることで最適なことは何かを考えるように育てたいですね。

 もう少し続けてみましょう。雨宿りをしてもなかなか雨脚の衰える兆しが見えません。傘はなく,どうしようと考えます。傘にこだわればお手上げになって,泣き出すか濡れて帰ることになります。もしかしたら他人の傘を無断借用に及ぶかもしれません。考える力を発揮できる子どもは,傘の替わりになるものを考えます。ビニールの袋や段ボール箱,大きな葉っぱなど,手近にあるもので利用できる物はないかを考えます。無いよりはまし,そういう対応のできる子どもが逞しいですね。

・・・考えるとは,現状の改善と打開を願う気持ちの発露である・・・



《子育てには,第二の誕生に伴う養育態度の変換があります。》

 ○子どもの反抗は,自分に任せてほしいという意味があります。ママを拒否しているのではありません。ママの保護や世話が子どもには干渉になる場合があるということです。子どもはすくすくと育ちます。もう赤ちゃんじゃないという自覚ができてくると,自分でしたいという自立への段階に入っていきます。もちろん,気持ちがあってもできないという自分の現実に直面するはずです。思い通りにはことは運びません。

 それ見たことか,と意地悪な目で見ないようにしてください。できないなりにもう一人の子どもはあれこれ考える機会を手にしているのです。どうすればいいのか,どこかに手がかりがないかを探しています。ちょっと年の上の子どもをじっと見ています。そこに自分にもできそうなたくさんの可能性が見えているからです。子どもは子どもの中で育つものですが,それはもう一人の子どもが考える力を持っているかどうかに掛かっています。

「子育ち12章」:インデックスに進みます
「子育ち12章」:第18-13章に戻ります
「子育ち12章」:第19-02章に進みます