*** 子育ち12章 ***
 

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「第 19-02 章」


『子育ては 考えさせて 手を出さず』


 ■徒然子育て想■
『干渉から指導へ!』

 前号で,二つの誕生について話しておきました。赤ちゃんの誕生と産みの親,もう一人の子どもの誕生と育ての親というペアがあります。赤ちゃんはわがままいっぱいであり,その上言葉も通じません。そこで生活に必要なことをしつけるときに,身体に直に伝えなければなりません。赤ちゃんは自分の身体を制御するもう一人の子どもがまだ誕生していないので,親が代行してやらなければなりません。親が指令するという形なので,子どもにすれば「干渉」となります。

 しつけは礼儀作法を仕込むことですが,本来は裁縫のときに正しい縫い目にする下準備として仮に糸で縫い押さえておくことを言います。仮の押さえとは,仮に取り締まるという風に考えることができます。まっさらで何も分からない赤ちゃんだから,仮に親が肩代わりをしてしつけているのです。やがて,自分意識が芽生え,もう一人の子どもが誕生してくると,自分で自分を制御するように「指導」する段階に進まなければなりません。その時期が反抗期として現れます。

 ママの言うことを聞かなくなる,それが子どもの自己主張ですが,もう一人の子どもの誕生であると思ってください。言うことを聞いてくれなくなったら,少しずつ子どもに自己決定の機会を与えていきましょう。もちろん,自己責任も伴います。自分でするといったのにできない,それでいいのです。自分の実力を思い知ることはとても大事なことです。もちろん,子どもに任せるといっていっぺんに放り出すのは無茶です。ゆっくりと一つずつ権限移譲をしていきます。

 指導というのは,こうした方がいいよという導きです。それを受け入れるかどうかは,子どもが決めることです。受け入れないからといって,無理矢理受け入れさせようとすると干渉に変質します。子どもに任せていいことであれば任せてみようかなと,もう一人の子どもにバトンを渡してみてください。○歳になったから,お兄ちゃんになったから,1年生になったから,何らかのきっかけを親子ともに意識すれば取り組みやすいでしょう。

 任せてみてすべてがうまくいくとは限りません。そのときはうまくいくように繰り返し導き続けます。指導というのは根気の要ることです。一度で済むことではありません。何度言えば分かるの,それが当たり前だと思ってください。決して子どもが悪いのではありません。もう一人の子どもの育ちがまだ追いついていないだけです。時期が来れば,あっけないくらいにうまくいくものです。焦ることが指導を干渉に逆戻りさせることになります。



【質問19-02:考えているから,子どもの自我が育ちます!】


 ○第2軸:考える

 ママはほんの少し昔のことですが,授業中に先生の話を伴奏にしてあれやこれやの考え事をしていたことでしょう。どちらかといえば,物思いに近かったかもしれませんね。考えることと思うことは外見上似ていますが,やはりどこか違うようです。ぼんやりと物思いに耽ることはできますが,だからといって考えているということにはなりません。思うのと考えるのでは,結果として,夢と現実の違いに行き着くはずです。

 お腹が空きます。何か食べたいなと思います。思うだけではどうにもなりません。念力などは期待できません。冷蔵庫に何かあるかもしれないと考えます。そこで,行動が可能になります。あいにくとめぼしいものが見つかりません。また考えます。コンビニに買い物にでかければいい,でもそこではお金が必要です。ママにお小遣いをねだりに行こうとします。ところが,ママは簡単には財布を開いてくれそうもありません。そこで考えます。「ママ〜,お腹が空いた」と可愛く訴えます。

 ママという人間も含めた環境に働きかけて,思いを遂げるにはどうすればいいのか,可能性を見つけようとする営みが,考えるという行為です。考えるためには,条件が二つあります。一つは○○したいという自分の思いです。願いや意欲ともいいます。豊かな暮らしの中では,この思いの発芽が封じ込められることになります。意欲がないという症状として現れます。おやつがいつでも揃っていると,食べたいなという思いが考える扉を開くことはありません。

 もう一つの条件は,環境と自分のつながり具合について分かっているという状況認識です。冷蔵庫のどこに何があるかを知っている,ママがどうすれば財布を開いてくれるかという知恵を記憶している,コンビニで買い物したことがあるという経験知がある,そのような必要な知恵を持っているから,考えることができます。自分にできないことがお金であるということに気付けば,ママとの交渉でなんとかなるのでは?という可能性に辿り着けます。

 周りの状況を推し量り,同時に自分の限界を見極めて,何ができるのかを考えるのは,もう一人の自分です。我思う故に我ありです。自分がこう言ったら相手はこう思うだろうと考える,自分と相手を相対視できるのは第三者の立場にいるもう一人の自分,すなわち自我です。思うのは自分,考えるのはもう一人の自分ということになります。考える機会をたくさん与えれば,それだけ頻繁にもう一人の子どもが活動できるようになります。

・・・もう一人の自分が育つのは,考えるプロセスを経ていくからです・・・


 ○考える材料!

 三人寄れば文殊の知恵。文殊とは? 知恵第一といわれ,釈尊の左にいる知恵の徳を受け持つ菩薩のことです。ポイントは三人寄るということです。寄れば何が起こるのでしょうか? 単純に考えれば,知恵が三倍になるということです。経験豊かな人が知恵が豊かです。経験とは物事の道理という知恵です。視野の広い人が知恵が豊かです。視野とは状況把握の力です。三人の経験と視野が重なることで,知恵が三倍になります。

 グラグラッと突き動かされる中で,何も考えられなくなりました。何? ただ呆然と周りを見回すだけでした。福岡県西方沖地震の時のことです。状況判断ができるまでにタイムラグがありました。いきなり非日常にスリップすると,人は呆然自失に陥ります。建物全体が揺れ動いていると見えたとき,一瞬の間を経てやっと地震だと判断でき,自分が置かれている状況が分かり,ほぼ同時に身の危険を感じるという流れでした。

 美味しい料理は,材料が揃っていて適切な調理によってできあがります。材料が欠けたり,手順を違えたりすると台無しです。考えることも同じです。自分というメモリーに蓄積された経験を,適切に使いこなすプログラムを書き上げることが,考えるという操作です。何の経験もなければお手上げですが,似た経験があればなんとかなるという可能性が見えるはずです。初めての地震への遭遇では呆然としましたが,その後の余震に対しては,かなり落ち着いて考えることができました。

 打つ手がない,お手上げ,手詰まり,そうなるとどうしていいか分からなくなります。考えるという行為が壁に突き当たります。その状態がしばらく続くと悩みという固まりに凝縮していきます。誰かに相談をします。助言によって出口の手がかりが見えると,考えることが始まります。考えるためには,材料が必要です。実はその材料は結構身近にあるはずですし,身近になければ使えません。この使えるということが大事なのです。

 最近の子どもたちには応用力がないといわれます。紙を切るときに,ハサミが必要です。子どもはハサミがないから切れないといいます。実際は,紙を折りたたんで定規で切ることができます。定規は線を引いたり長さを測るという使用法以外に,紙を切るためにも使えるのです。これが最も身近な応用力です。ナイフがあればいい,ナイフはどんな形かを観察して見知っていれば,似た形のものが身近にないかを考えることができるということです。生活の工夫が考える育ちを促します。

・・・考えるとは,経験を発展し手近な物事の利用性の発見過程である・・・



《子育てには,思い通りにはいかないという我慢があります。》

 ○甘やかされて育った子は,自分で何もできなくなります。もう一人の子どもに考える力が宿っていないからです。自分の力をどう使えばいいかということが考えられないのです。もう一人の自分が自分にできることは何かを知っていて,手助けになるものを探し出すことができれば,考える行為に入れます。しかしながら,甘やかされていると,自分の力が分かりません,何が利用できるか覚えません。そばにある考える材料が何も見えていないのです。

 人はものごとがうまく運ばないときに,つい他人のせいにする弱さを持っています。それは幼児期のわがままの名残です。自分は面倒を見られて当然という甘えが肥大すると,もう一人の自分は他人を利用することに長けていきます。他人は近づかなくなります。他人が自分を除け者にすると思っていますが,実は自分の方が他人をヒトとして尊重していないからです。がんばっている人には手を貸したくなります。共生とはオンブにダッコではなく,自助努力にお互いの助け合いを重ねることです。

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