*** 子育ち12章 ***
 

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「第 19-03 章」


『子育ては 安心与え 気にかけて』


 ■徒然子育て想■
『安心という居場所?』

 友達の輪から離れて,一人でぽつんと遊んでいる子ども。そばで見ているママは,心配になります。どうして一緒に遊べないの? そう思って,ママは友だちと遊ぶように働きかけます。背中を押すかもしれません。子どもには子どもの事情があります。そこが公園などであれば,誰がどこにいようと構わないので,好きな場所に居ていいのですが,心理的な壁があるのです。子どもにとって,友達の輪の中には自分の居場所がないということです。

 学校に行っても,教室に入って,ぽつんと席に座っているだけという場合もあります。自分の席だけが居場所になりますが,教室は居場所ではありません。同じパターンが家族の暮らしぶりにも現れることがあります。我が家だけが居場所で,お隣ご近所の輪には居場所がないというケースです。幼い子どもは親の背中を見て育ちます。子どもに人への直接的な関心が育っていない一因として,閉じ籠もっていても退屈しないという仮想的な情報世界,テレビやゲームへの馴染みが見えます。

 身近にいる人たちの中に自分の居場所を確保するには,少し時間が掛かります。居場所であることの必要な要件は参加することであり,参画するまでに進めば十分な条件が満たされるようになり,居場所の確保に到達します。子どもの場合には,いつもそこにいて,なんとなく顔見知りになり,ちらっと目が合えば笑顔を交わすようになり,参加するきっかけを待つ状態に入ります。何らかの隙間ができたときに一度でも加担するようになれば,仲間という居場所ができあがります。

 挨拶をしようという呼びかけが繰り返しなされます。挨拶なんてしてもしなくても,大したことではないと切り捨てられています。本当にどうでもいいことなのでしょうか? お店では挨拶が最重要な仕事です。その場合の挨拶は「いらっしゃいませ」ですが,「お待ちしておりました」という意味合いを感じさせます。自分が待たれていたというメッセージは,そこに居場所が用意されているという意味を伝えています。普段の挨拶は,仲間ですよという合言葉になります。

 見ず知らずの人と接触しかけた場合,お互いに軽く会釈を交わします。お互いの相手への気配りを認め合うという最低限の挨拶です。この小さなマナーが身に付いてれば,どんな場合でも居場所を得ることができます。周りの人への気配りが見えないと,人から拒否され,人を拒否するものです。受け入れ,受け入れられるという相互の了解が成り立つところに安心という名のパスポートが効力を発揮します。



【質問19-03:見守るから,落ち着いた子どもに育ちます!】


 ○第3軸:見守る

 何かにおびえた子どもは,ママの懐に泣きながら飛び込んできます。ママはしっかりと抱きしめます。ひとしきり泣けば,子どもはママの顔を見上げて,そこに優しい笑顔を見つけると,口元をほころばせて,もう一度しがみついてきます。それで,お終い,落ち着きます。「あのね」と語り始めます。「そう,ビックリしたのね」。言いたいことを言ったら,涙を拭いて元気を取り戻します。ママの懐はことが起こったときの大事な避難所です。そこには安心が満ちています。

 子どもにとっての安心の泉は,ママの懐です。ママから溢れてくる安心が家庭に溢れるから,子どもは家庭で安らぎ,育ちという芽生えを始めることができます。家庭は育ちの苗床になる鉢となります。やがて,もう一人の子どもという年輪を持った幹に育ち上がっていくと,鉢ではなく,地域という大地に地植をする時期を迎えます。家庭から,近くの公園遊び,園通い,入学といった形で,根っこがぐんぐんと張っていくようになります。

 その子どもの成長と合わせて,ママの懐が広がっていかなければなりません。公園に出かけても,そこもママの守備範囲の中にあるという安心感です。ママがお気に入りの公園と思わせることができたら,ママの公園という安心が子どもの心に届きます。園に入るときも,ママが仲良くしている先生が居るという雰囲気であれば,子どもはママとつながっている園として,安心の道を歩いていくことができます。ちゃんとママとつながっている,それが安心の正体です。

 子どもを見守ることが大事だということは,ママには当たり前のこととして意識されています。親という字は,分解すると「木の上に立って見る」と書きます。そんなことをどこかで聞かれたことがあるはずです。言われてみればその通りですが,どうして木の上に立つのでしょうか? それが分からなければ,子育ての知恵にはなりません。木の上に立つと,遠くにいる子どもの姿も見えます。逆に,遠くにいる親の姿も子どもから見ることができます。

 たとえ近くに姿が無くても,ママはちゃんと遠くからでも見守ってくれていると思うことができたら,そこはママとつながっているという安心の場になります。安心すれば気持ちは落ち着きます。フワフワと浮いている気持ちが,ママとのつながりに結び着いたら,それが子どもにとって落ち着くということです。育ちの根っこを伸ばすことができます。育ちを促す見守り,それはママの懐が子どもの生活圏全体に広がっていると思わせることです。

・・・もう一人の子どもが育つところは,見守り保障付きの居場所です・・・


 ○気にかける!

 ママはパパの誕生日を覚えていますね。では,パパはママの誕生日を覚えていてくれますか? ママはお子さんの担任の名前を知っていますね。当たり前です。では,パパはどうでしょうか? 子どもがパパに「○○先生がね,・・・」と話しかけたとき,「昨日行った歯医者の先生か?」とトンチンカンなことを言うようなことがあれば,パパはとても遠い存在に突き放されることでしょう。話が通じないということは,同じ場を共有していないということです。

 幼い子どもは,「あのね」と語りかけてきます。ママは一々聞いてはいられないと感じるかもしれません。でも,子どもは自分の目や耳で見たり聞いたりしたことを,ママに知ってほしいと思っています。ママには,私のことを誰も分かってくれないと思ったりすることがありませんか? パパも勤め先で自分のことを誰も分かってくれなかったら辛いはずです。逆に,自分のことを分かってくれるという人がいると思えたら,安心できますよね。

 子どもの話を真っ直ぐに聞いてやれば,子どもは自分が気にかけられているという確信を得ることができます。何を話しかけても上の空,そのときには無視されていると感じるはずです。身近にいる人との間柄がいつもそうであれば,やる気を失ってしまいます。子どもであれば,育とうという気が出てきません。ただほんの少しの間,話を聞いてやるだけで,子どもが育とうとするための応援ができるのです。ママとパパの間も同じです。

 子どもは自分が親にとってどんな存在かということを気にかけています。だからといって,甘やかされて過保護に扱われると,自分が親にとって大事な存在だと感じることができますが,自分の大事さだけが肥大化して,親の大事さを見落とすことになります。親は自分の思い通りになるという傲慢さが育つだけです。良い栄養だからといって摂りすぎると,かえって肥満に行き過ぎるのと同じです。特別扱いではなく,普通の暮らしの中でお互いの存在感を認め合えばいいのです。

 聞き分けのいいお利口な子どもは,寂しさを引き込んでいきます。そうでない子どもはママからいつも構ってもらえるのに! 手が掛からない子どもに対しては,親は気にかけなくなります。子どもは,「自分が居てもいなくても,ママは何とも思っていないのでは?」と感じます。子どもを叱るという関わりでしか気にかけていないからです。ほめるという関わりによって,「あなたのことはちゃんと分かっているよ」というメッセージを伝えるように気にかけてください。

・・・気にかけるとは,時と所を越えたお互いの思いの通い合いである・・・



《子育てには,目を離すと迷わせてしまう危うさがあります。》

 ○子どもは目を離すと迷子になります。自分をナビゲーションする地図認識が未熟だからです。道案内をするときに,目印を定めて方向と距離を指定します。子どもはママを目印にして自分の居るところを判別しています。迷子になったらママを探します。ママが基点になっているからです。ママは自分がどこにいるか,子どもが分かるように常に明らかにしておかなければなりません。園や学校に行けば,先生を第二の基点として,居場所を認知するようになっていきます。

 子どもの心の居場所は,誰かとつながっているという確信です。たとえ虐待を受けても,親を悪く言わないのは,自分の居場所がそこにしかないからです。大人にとっての自発的なリストラに相当することなのです。ここから放り出されたらどうしよう,その恐怖が虐待よりも強いのです。やがて長じたとき,その仕返しは相当のものになるはずです。それはそれとして,普通に家族が心温かく暮らすようにしていれば,何の心配も要りません。

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