*** 子育ち12章 ***
 

Welcome to Bear's Home-Page
「第 19-13 章」


『子育ては 育ちを信じ 子を信じ』


 ■徒然子育て想■
『私が産んだ子ども!』

 母親の胎内で選ばれた生命が分裂を開始します。動き出した生命活動はひたすら生きることを求めて,胎動し,時満ちて誕生を迎えます。その瞬間に産みの親となり,腹を痛めた子どもという強烈な実感が刷り込まれ,母親にとって子どもは我が身の分身となります。人が持ち合わせている自己愛,その中に我が子もすっぽり入ってしまいます。わがことのように子どもに寄り添う感情は,母性愛の源泉なのかもしれません。

 子どもの喜びを我が喜びとし,子どもの痛みを我が痛みとする,その先に自分の命に替えても子どもを守るという尊い覚悟が現れます。そうでなければならないという理屈ではなくて,そうであるらしいというもう片方の親の素直な感想です。ところで,そのような母子の関係を直裁に受容する父性と,母子分離に挑む勇気をもつ夫性という相反する二つに対するバランス感覚を,男親たちが持てなくなっているように感じています。

 受容する父性は,母子を優しく慈しむことです。簡単にいえば,家庭を守るという役割であり,普通には生活費を稼ぎ出すことと思われています。家族の暮らしを維持し続けることは,並大抵の苦労ではありません。心身をすり減らすので,度が過ぎて挫折する場合もあります。そこまで自分を追いつめずに休めばいいのにと思いますが,家族を背負っている身ではそれはできません。多少の愚痴の出ることがあっても,苦労の背中が母子をしっかり担っています。

 勇気ある夫性は,母子関係を壊すことです。壊すと言えば大げさですが,抑制を利かすということです。人は記憶という能力を持っています。母親は大きな体験である出産を鮮明に記憶し,その持続性が私が産んだ子どもという意識を強化し続けます。大切な記憶ですが,度合いが過ぎると母子分離を逃しかねません。産みの母から育ての母への円滑な転換が求められており,そのきっかけを与えるのが夫性なのです。母を妻に引き戻し,子どもの自立機会を促すという役割です。

 何事も時期と程度という要素が絡みます。乳児期の子どもにとって,夫性が強く出過ぎると,母性機能を邪魔します。育児放棄といった事例が現れます。父母はペースを合わせて,力を合わせて,気持ちを合わせて,お互いを慈しみ励まし,子どもの育ちを支えていく中で,父性と母性を培っていきます。決して難しいことではありませんが,無頓着で済むことでもありません。いつも語り合い,寄り添っていこうと心掛けることが何よりです。



【質問19-13:信じているから,応える子どもに育ちます!】


 ○第00軸:絆

 走れメロス。友人を信じ,信じられたから約束を守ろうとする友人のお話です。それはお話の世界にしか存在しないきれい事でしょうか? 実生活ではあり得ないことだから,お話に書かれているのでしょうか? そうありたいという願いに止まるのでしょうか? それであれば,人の進化は肉体だけに限定されて,心は未開状態から全く進化していないことになります。確かに,世間では信じてはいけない人の事例ばかりが喧伝されています。

 人が良いのもいい加減にしないと,どんでもない目に遭います。だからといって,人を疑ってばかりいると,世間が怖くなって,世間に入っていけなくなります。ニコニコして近寄ってくる人は,何か下心があるはずである。人の悪口を聞かせてくれる人は,よそでは自分の悪口を言っているはずである。私を見るあの目は,いかにも優しげに見えて実は哀れんでいる目である。猜疑心はとどまることなく,暗闇に深入りします。

 この世間で最も大切なことは,信頼・信用です。信頼を失ったら,あらゆることが成り立たなくなります。義理という縛りも,信用を失わないための手管です。義理を欠けば,信頼されなくなります。嘘が悪とされるのも,信用を裏切ることだからです。人間関係は信頼の度合いに応じて,親密さの濃淡が現れます。親友であるかどうかの第一の目安は,信用できるかどうかです。渡る世間には鬼もいますが,総じて信用していい人の方が多いと信じた方が得です。

 結論を言えば,幸せな人生とは,信頼できる人に囲まれて暮らすことです。それは,一人一人が信頼されるに足るという自負を持ち合わせていなければ,できない相談です。人のことはさておいて,先ず自分自身が信頼に応える覚悟を持っていることが要件になります。今の自分を自分は友だちになりたいと思うでしょうか? 自分自身が友だちになりたいと思う自分でなければ,信頼という絆を結んでくれる人は現れないでしょう。

 子どもにとって,信頼できる人は親であり家族です。胎児が紐帯で親とつながって育つように,子どもは絆という信頼関係を通して親から育ちのエネルギーを受け取っています。親が持っているご近所や知人との信頼ネットワークは,子どもにとって大切な育ちのネットワークになります。もしも核家族という閉じた世界しかなければ,子どもは信頼の保証がない世界にはみ出していきます。子どもたちの世界をすっぽりと包む規模の世界を,親たちは作っておかなければなりません。

・・・家族ぐるみの信頼ネットワークが,子どもを育てる豊かな絆です・・・


 ○始末!

 テレビでゴミをよその集積場に無断で持ち込む不届き者の映像が報じられていました。人気のない寂しい場所に不法投棄する者もいます。管理者が見つけて問い質すと,どうして自分だけを責めるのか,他の人もしているではないかと反論してきます。問い質した方が,何かしら矛先を鈍らしています。人のことはどうでもいいので,あなたがいけないことをした責任をどうとるのかと問えばいいのです。他の人のしたことについて,あなたがとやかく言う立場ではないと説明すべきです。

 いい年をしたそれなりの業務の看板を背負っている大人がこんなことでは,大人になる途中で育ちをさぼっているとしか思えません。正義感を持ち出す嫌みな論を展開するつもりはありません。そんな大層なことではなく,世間の常識のレベルです。後始末をきちんとできない,それはかなり大切な資質の欠落なのです。不始末とは始めと終わりがだらしないということであり,生き様にも反映してきます。

 信頼関係をベースとする社会では,信じてくれることへのお返しはきちんとケリを付けていくことです。いい加減にしておくと,信頼を失っていきます。ここまではきちんとし終えたということが,信頼の証になります。子どもであっても,暮らしの場できちんと後始末ができるように意識させるしつけが求められます。やりっ放しにして平気な子どもは,基本的なしつけができていないということです。

 ダラダラとテレビを見続け,夜遅くまで起きていて,朝は眠くて起きられないという生活パターンも,自分の時間という貴重な財産を無駄遣いすることになります。テレビを消す時間,今日を終えて寝る時間といったケリを付けていけば,翌朝はすっきりと目覚めることができます。ママとの約束という形で時間を決め,約束をきちんと守るというしつけを通して,始末をしつけることも可能です。ただし,子どもが幼いうちは厳しすぎないように!

 子育ての場では,「自分のことは自分で」という自立を促すしつけが行われます。自分のこと? それは自分の始末です。始末のできることが自立となります。子どもは一つずつ始末ができるように育っていきます。手を洗ってタオルで拭きます。「手をちゃんと洗った?」。「ハ〜イ」。そこで終わっていませんか? 手を拭いたタオルが放り出されてはいないでしょうか? おとなしく遊んでいてくれても,部屋中散らかってはいませんか?

・・・身の始末ができなければ,社会で不都合な事態を招くことになる・・・



《子育てには,苦労するから喜びがあるという原理があります。》

 ○ある講演を聞く機会がありました。講演を聞くコツは,一つだけ学んで帰ることです。あれもこれもと欲張ると,結局何一つ覚えることができません。「遊びとは,不愉快を楽しむことである」と聞き取りました。ゲームを例にすると,負けるかもしれないというストレスを楽しみます。うまくいかないことをなんとかできるようになりたいという気持ちが,遊びには内在しています。簡単にできることは,遊びにはなりません。

 遊び心を育てておけば,不愉快なことに遭遇しても,楽しんで向き合うことができます。遊びという言葉は不謹慎であるかもしれませんが,楽しむという処し方全般を遊びと考えることもできるはずです。余裕を持つということも,心に遊びを持つことになります。子育ての場でいろんな不愉快な思いをすることがあるかもしれません。それを真っ向から受け止めずに,楽しむような気持ちで臨んでみてはいかがでしょうか?

「子育ち12章」:インデックスに進みます
「子育ち12章」:第19-12章に戻ります
「子育ち12章」:第20-01章に進みます