*** 子育ち12章 ***
 

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「第 20-01 章」


『子育ては 子どもの願い 後押しし』


 ■徒然子育て想■
『私が産んだ子ども!』

 母親の胎内で選ばれた生命が分裂を開始します。動き出した生命活動はひたすら生きることを求めて,胎動し,時満ちて誕生を迎えます。その瞬間に産みの親となり,腹を痛めた子どもという強烈な実感が刷り込まれ,母親にとって子どもは我が身の分身となります。人が持ち合わせている自己愛,その中に我が子もすっぽり入ってしまいます。わがことのように子どもに寄り添う感情は,母性愛の源泉なのかもしれません。

 子どもの喜びを我が喜びとし,子どもの痛みを我が痛みとする,その先に自分の命に替えても子どもを守るという尊い覚悟が現れます。そうでなければならないという理屈ではなくて,そうであるらしいというもう片方の親の素直な感想です。ところで,そのような母子の関係を直裁に受容する父性と,母子分離に挑む勇気をもつ夫性という相反する二つに対するバランス感覚を,男親たちが持てなくなっているように感じています。

 受容する父性は,母子を優しく慈しむことです。簡単にいえば,家庭を守るという役割であり,普通には生活費を稼ぎ出すことと思われています。家族の暮らしを維持し続けることは,並大抵の苦労ではありません。心身をすり減らすので,度が過ぎて挫折する場合もあります。そこまで自分を追いつめずに休めばいいのにと思いますが,家族を背負っている身ではそれはできません。多少の愚痴の出ることがあっても,苦労の背中が母子をしっかり担っています。

 勇気ある夫性は,母子関係を壊すことです。壊すと言えば大げさですが,抑制を利かすということです。人は記憶という能力を持っています。母親は大きな体験である出産を鮮明に記憶し,その持続性が私が産んだ子どもという意識を強化し続けます。大切な記憶ですが,度合いが過ぎると母子分離を逃しかねません。産みの母から育ての母への円滑な転換が求められており,そのきっかけを与えるのが夫性なのです。母を妻に引き戻し,子どもの自立機会を促すという役割です。

 何事も時期と程度という要素が絡みます。乳児期の子どもにとって,夫性が強く出過ぎると,母性機能を邪魔します。育児放棄といった事例が現れます。父母はペースを合わせて,力を合わせて,気持ちを合わせて,お互いを慈しみ励まし,子どもの育ちを支えていく中で,父性と母性を培っていきます。決して難しいことではありませんが,無頓着で済むことでもありません。いつも語り合い,寄り添っていこうと心掛けることが何よりです。



【課題20-01:ママお願い! そんなに細々と指図をしないで!】


 ○こんなこと・あんなこと!

 朝はあんまり好きじゃない。ママの声が立て続けに飛んでくるから。「起きる時間ですよ」ならいいけど,「起きなさい」。「顔を洗ったらごはんよ」ならいいけど,「顔を洗って」。「よく噛んで食べるように」ならいいけど,「さっさと食べてしまいなさい」。「もうすぐ出かけるよ」ならいいけど,「靴下は穿いたの,ボタンはちゃんと留めた?」。ママコントロールというウィルスをボクに侵入させようとしているみたい。

 道の向こうの幟がはためいていたか思うと,フッと垂れ下がります。何だろう? 窓からぼんやり眺めていると,「そんなところでボーッとしていないで」と背中からママが声を掛けてきます。ボーッとするって何? いけないことは何もしていないのに? もっと眺めていたいな! あっちにパタパタ,こっちにパタパタ。面白いよ,ママも見たらいいのに。どうしてママはバタバタと落ち着かないんだろう。ゆっくりお座りしてたらいいのに。

 砂場の砂が今日はサラサラしてるみたい。手にくっついた砂をよく見るとキラキラしてる。手を動かすとキラキラが手の上であっちにもこっちにもいっぱい。「洋服で手を拭かないで」と砂場の外にいるママが言います。砂場で見つけたキラキラをパパにも見せたくてポケットに入れて帰ろうと思ったけど,ママはダメと言うし,つまんないな。ママも手に砂を持ってみたらきっときれいだと思うんだけど。どうしてママは砂が嫌いなのかな?

 スーパーでお買い物です。ママがニンジンをカゴに入れています。「ニンジン大嫌い」。お魚がズラッと並んでいます。ケースをのぞくとお魚がにらんできます。「何を怒っているのかな」。大好きなお菓子売り場です。「ママ,おやつを買っていい」,「一つだけよ」。「どれにしようかな?」。「いつまで掛かっているの,早くしなさい」。ママだってあれこれ触って時間をかけて選んでいるのに。ボクも決めるのには時間が掛かるんだよ。

 お休みなさいの時間です。ママが添い寝をしてくれます。いつもの子守歌を歌ってパタパタしてくれます。薄目を開けてママの顔をそっと覗きます。気がついたママは「さっさと眠りなさい」。ママがボクの所に帰ってきたようでうれしくて,ママを間近で見つめていたいのに,ママはボクを早く眠らせて離れていきたいみたい。どうしてなのかな? なるべく眠らないようにしよう,いつま・・で・・も・・・。

・・・子どもを支配しようとすれば,もう一人の子どもの権限を侵します・・・


 ○育つのはボクだから!

 このマガジンでは,「子育ち」という言葉を主役において,子育てはあくまでも支援であると考えています。育つのは子どもであるという当たり前のことを,いつも念頭に置いておいて欲しいからです。ともすれば,上手に子どもを育てなければという強い思いが出てしまい,子どもは親の思い通りにどのようにでも育てられると思い込んでしまうことがあります。落ち着いて考えれば迷うことはありませんが,つい忘れられます。

 「ボクがする!」。子どもが反抗してきます。ところで,ボクがすると言っているのは誰でしょう? ボクですね。ボクにさせようと思っているのはボクです。もう一人のボクがボクにさせたいのです。もしママが「しなさい」とボクに命じたら,もう一人のボクの出番を奪うことになります。子育ちという視点は,子どものことはもう一人のボクに任せるようにするということです。ママの言いなりに育てていくと,もう一人のボクが育てません。

 頑強に反抗されると,ママは「勝手にしなさい」と手を引くでしょう。もう一人のボクが一所懸命に考えます。その過程が子育ちになります。子育てとは,親がいなくなっても生きていけるように,もう一人の子どもがしっかりと育つように支えることです。自分のことはもう一人の自分が考える,それが自立の形です。子どもは親離れをしようとしますが,それは自分がするという主張として現れ,その背景にもう一人の自分が決めるという育ちの本能があります。

 言われてすることはイヤイヤするようになります。すればいいんでしょと気持ちが乗りません。疲れるばかりで,いい加減なところで止めようとします。逆に自分でやろうとすれば,たとえうまくいかなくてもなんとかやり遂げようとするものです。今時の子どもたちにやる気や根気が見えないのは,やらされているという状況の中で,やろうという気持ちを沸き立たせるはずのもう一人の自分が眠らされているからです。

 もちろん,がんぜない子どもにいきなり任せるのは無謀です。もう一人の子どもはまだ誕生していないからです。もう一人の子どもは,鏡を見て自分だと分かるようになったときにやっと産まれてきます。その頃が,世話を中心とする子育てから,子どもに権限移譲をする子育ちへの転換点です。「あなたはどう考えるのか?,どうしたいのか?」と確認するつもりで,ゆっくりともう一人の子どもの育ちに寄り添っていけばいいのです。

・・・言わないとしない子どもは,誤った子育てがうまくいった結果です・・・


 ○親子はよく似ています。ところで,親は子どもに自分に似て欲しいと願っているでしょうか? いいところは自分に似ていて,いけないところはもう一方の親に似ていると思ったりします。あるいは,二人合わせて平均すればいいのにと思っていても,悪いところばかり似てしまうこともあります。願い通りにならないということは,子育てほど頼りにならないものはないということかもしれません。子どもが選んで育っているからです。

 実はどちらに似てもいい子のはずです。親自身はお互いに相手から愛されるほど素敵な大人だからです。観念の世界にしか存在しない理想的な人には及びませんが,そこそこいい人だと自覚しているはずです。ベストではなくベターで十分です。普通の人はちゃんとしたところもあれば,いい加減なところもあります。これから育っていく子どもたちも,特別にいい子であることを期待されると辛いでしょう。ゆっくりと育っていこうね,そのゆったりした気持ちが優しい子育てです。

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