『子育ては 親の目子の目 重ね合い』
■徒然子育て想■
『無口で悪い?』
日頃は無口でおとなしく,人づきあいもない。頻発している少年犯罪について語られるコメントです。その人間評価は「孤立」という状況を指しているようです。社会生活をする上で,人づきあいは大切な要件であることは確かです。しかしながら,人づきあいの良さだけがいいとは限りません。全くないのでは支障もありますが,ことさら良くなくても構いません。無口であるといっても,それは相対的なものです。無口であれば友だちができないというのも錯覚です。
無口であっても,笑顔を持てば,友達の輪は広がっていきます。無口で仏頂面をしていれば,人を受け付けないというメッセージが発信されますが,笑顔であればいつでも受信可能というサインを出すことになります。コミュニケーションは受信と発信のペアが揃って成り立ちます。発信ばかりでは混線・干渉が起こり,コミュニケーションにはなりません。付き合い上手な人は,実は聞き上手な人の方です。
おとなしいというのも,あまり良い印象が持たれないようですが,そんな評価をする方がおかしいと気付くべきです。沈着冷静であれば,見た目にはおとなしく見えます。穏やかであれば,おとなしく見えます。おとなしさの陰には,いろんな面が隠されています。もっと温かな気持ちで人間観察できる目を皆で持ちたいものです。個性とは多様であり,だからこそ人づきあいは面白くなります。にぎやかな人ばっかりでは,騒々しいだけで面白くありません。
ところで,無口なおとなしい子どもについて,周りの大人が気をつけるべきことがあります。無口であっても一向に気にすることはないということです。自分の性格を否定し悩んでしまうことがあるからです。もう一つは,無口な子どもの思いや気持ちをしっかりと受け止める耳を持つことです。黙っているから分からなかった,そんな繰り言が幾度となく聞かれました。声なき声を聞く,それは身体全体の感性を傾けることで可能になります。
はっきり言いなさい。それでしか聞けないというのでは,あまりに貧困なコミュニケーションです。「おはよう」という朝のあいさつの交換からでも,子どもの気持ちが読めます。食事の様子からでも,いろんなことが読み取れます。先日の明徳高校の事例では,ホームページにメッセージが発信されていました。子どもが持っている表現にこちらから近づくという努力も必要です。大人はいつでも言いなさいと待っていますが,待っているだけでは遠い耳になります。
【課題20-02:パパお願い! 自分でするから手を出さないで!】
○こんなこと・あんなこと!
テーブルの上にお菓子があります。手を伸ばしましたが,届きません。椅子の上に載ったら届くはず。椅子を引っ張り出そうと背もたれに手をかけて引っ張ったら,椅子が倒れそうになりました。慌ててパパが立ってきて,お菓子を掴むと,ワタシに渡そうとします。「パパ,ありがとう」。受け取りながら,つまらないと思うのはどうしてなんでしょう。取ってもらったのはうれしいけれど,自分でちゃんと取れそうだったのに!
夕べの食事が終わりました。ママが食卓の上を拭くようにとフキンを絞って渡してくれました。パパは座ってテレビを見ています。ワタシがフキンを広げて食卓を拭こうとしたら,パパがサッとフキンを取り上げてさっさと拭き上げてしまいました。せっかく拭こうとしていたのに・・・。ママのお手伝いをしようと思っていたけど,できなかった。どうしてパパはワタシにさせてくれないんだろう。ワタシにだって拭くぐらいできるんだから!
近所の公園にパパと出かけました。芝生の横に大きな岩がそびえています。よそのお兄ちゃんが登っているのを先週見ていたので,登ってみたくなりました。しがみついてよじ登ろうとしていると,パパが両脇を抱えてポンと天辺にのせてくれました。「違う,ボクが登るの!」。すぐに降りました。パパはせっかく登らせてやったのにと怪訝な顔をしていますが,そんなことはボクは知りません。お兄ちゃんのように登れるか試したかったのに!
積み木で基地を作っていますが,もう少しのところでガラガラと倒れます。見かねたパパが別の場所でサッサと基地を作ってしまいました。「パパはすごいな」と横目で見ながら,「ボクだってできるもん」。下の方には大きい積み木を,上の方には小さい積み木を,と教えてくれたらいいのに。ボクがどうしたらいいのか,それが分かりたいんだけど。パパと一つ一つ交代して積み上げてみたいな!
パパは何でも上手にできる! だから,ボクができないとすぐに何でもやってしまいます。できないボクを見ているとイライラして,つい手を出したくなるみたい。ボクだって早くパパのようにできるようになりたい。どうすればいいのかな? 一つ一つ教えてくれたら,ボクはがんばってやってみるけど。これからもパパの後を追いかけていくから,パパ,ゆっくりと歩いてね。
・・・子どものできない所を肩代わりすると,子どもは自分が見えません・・・
○自分を知る!
自分を知ることは,育つ上でとても大切なことです。子どもは,無茶なことを平気でしでかします。自分のことを分かっていないからです。自分には何ができて,何ができないか,それは試行錯誤の中でもう一人の自分が判断することですが,もう一人の自分は遅れて産まれてくるからです。子どもを育てるとは,自分をちゃんと分かっているもう一人の子どもを育てることです。ややこしい話で分かりにくいですね。別の説明をしてみましょう。
パパやママが,「しんちゃんはいい子だね」と言ってやると,もう一人のしんちゃんが「しんちゃんはいい子」とそのままの言葉を覚えます。その言葉は,自分を他者が見ている言葉です。丸ごと言葉を覚えることで,自分を他者の目で見る立場に立ちます。そこにもう一人の自分がすんなりと入り込むことができます。もう一人の子どもはパパやママの立場を真似することで,自分を客観的に見つめることができるようになります。
保育園の子どもたちが,先生に引率されて園の外に出かけることがあります。道すがら子どもたちはあっちこっちに興味を示し,並んで歩いている列はグラグラと揺れ動きます。自分はどこに向かおうとしているのかという,もう一人の自分のコントロールが全く効いていません。先生は「自分勝手に動かないで」と大声で注意をしています。先生と同じ立場で自分を動かすのはもう一人の子どもの役割ですが,そのもう一人の子どもがまだ未熟なのです。
子ども集団にスルッととけ込めない子どもがいます。だからといって,拒否しているわけではありません。離れたところからじっと見ています。「そんなに気になるのなら,サッサと入り込めばいいのに」と背中を押し出してやりたくなり,じれったい思いをさせられます。集団の中の子どもが何をどうしているか,もう一人の子どもが見極めて,自分だったらどうするか,同じようにできるか,シミュレーションをしています。準備が終われば,入っていけます。
もう一人の自分が育ってくると,自意識が出てきます。自尊心は,自分を大切な存在だともう一人の自分が慈しむことです。もしも,もう一人の自分の目に確信が持てないとき,人の目が気になり,自尊心は不安定になります。先のことですが,思春期の動揺は,もう一人の自分が子どもから大人へ脱皮するときのバージョンアップの過程で現れます。もっと大きな価値,社会的な価値という基準で自分という存在を再確認できるもう一人の自分になろうとする脱皮と考えることができます。
・・・もう一人の自分が自分を知れば,対人関係の育ちが順調に進みます・・・
○前号と合わせた二つの号では,「誰が育つのか」という課題を考えています。単純に「子どもが育つ」と思っていると,子育てが脇道に逸れやすくなります。そこで,「もう一人の子どもが育つ」という見方をしてはどうでしょうか,という提案をしています。あまり聞き慣れない話になっていると思いますが,子育ちということを考える上では効果的であるはずです。「もう一人の子ども」は抽象的には自我と思っていただいても構いません。
我を忘れるという言葉があります。忘れるのは誰かという問をすれば,自分ですと答えるしかありません。忘れられる自分と忘れる自分の二人の自分が居ます。二人の自分を区別するために,忘れる自分をもう一人の自分と呼ぶことにしています。この言い方を踏襲すれば,自信とはもう一人の自分が自分の能力を信じることと説明できます。日本語は主語を省くことが通常なので,そこを再確認できたらと考えています。