*** 子育ち12章 ***
 

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「第 20-07 章」


『子育ては 信じる愛を ありったけ』


 ■徒然子育て想■
『末っ子?』

 兄弟や姉妹が登場するお話が洋の東西にあります。きょうだいそれぞれの個性が物語を彩りますが,ほとんどのお話で主題になるのは末っ子の優しさです。兄や姉は有能だが冷たいとか,上昇志向が強くて意地悪といった風です。物語の末っ子は3人とか4人きょうだいの末っ子という場合が多く,2人以下の少子化という現状では生まれることを拒まれた子どもです。物語の世界は今はもう存在しない夢物語なのでしょうか?

 ところで,末っ子はどうして優しく育ったのでしょうか? 3人目や4人目の子どもを育てるとき,期せずして親は子育ての熟練者になっています。一言でいえば,子育ちをしつけで邪魔することなく,子どもが育つのを離れた距離から余裕を持って支えるようになれるからです。親が過ぎた日を振り返って「よく育ってくれた」と思うとき,子育ての喜びが湧いてくることでしょう。「うまく育てた」ということは決してないはずです。

 親の熟練だけではなく,きょうだいの中で育つという状況も末っ子を優しくします。兄や姉の育ち,親との関わりを身近に見ながら,親の思いと子の思いの両方を見届けることができます。ある意味で鑑賞者,批評家という第三者的な立場にいるからです。親のしつけが緩やかになり,子どもの中で揉まれるという育ちが末っ子にはあります。自然なしつけができるということです。末っ子がいない今では,このような育ちもなくなっています。

 無い物ねだりをしてもしようがありません。どうすればいいのでしょう? 一つは祖父母の子育て経験を上手に取り込むことです。素敵な親(あなたのことですよ)を育ててくれた実績があります。受け継がないのはもったいないことです。もう一つは子どもだけではなく親子で異年齢のお付き合いをすることです。ママのネットワークがありますが,同年齢の集まりでは慰め合うことはできますが,学びという面ではあまり効果はありません。

 参観などの機会をきっかけとして,普段から,兄や姉世代のよその子を気をつけて観察してください。そこには我が子の数年先の育ちがあるからです。あそこまで育つという目標が具体的に見えるはずです。そのイメージを持たないと,我が子を大人と比べてしまうので,しつけが過剰になってしまいます。登山ではいくらがんばっても一気に頂上には届きません。一合目,二合目という目標に向かって少しずつ登っていきます。同じことです。ゆったりと行きませんか?



【課題20-07:ママお願い! 悪いところばかり見つけないで!】


 ○こんなこと・あんなこと!

 お外から帰ってきて,洗面所で手を洗いました。石鹸を付けて泡が出るようにゴシゴシして,水できれいに洗い流しました。タオルで拭いて出来上がり。ママが洗濯物を持って洗面所に入ってきました。洗濯機の蓋を開けて洗濯物を入れた後,「石鹸をこんなに汚してダメじゃないの!」っていきなり叱られちゃいました。手をきれいに洗っただけなのに。「汚れた石鹸は使えないでしょ!」。そんなこと言われても?

 「冷蔵庫の扉をいつまでも開けっ放しにしないの!」。麦茶の容れ物を手にしてコップに注いでいるとき,またママから注意されました。でもねママ,麦茶の入れ物を両手で抱えているので,冷蔵庫を閉めちゃったら開けられないんだよ。どうして麦茶の容れ物を戻したらいいの? 冷蔵庫や何もかも家にあるいろんなものは大人用にできているから,子どもの手には使いにくいんだよ。ちゃんとしたくてもできないのを分かって欲しいな

 ママが夕食の支度をしているので,絵本を読んでいました。ママは台所にいるとバタバタしているので,そばに行くと必ずあっちに行ってなさいと言います。「ごはんですよ」というママの声が聞こえてきましたが,絵本の半分ほどの所だったので「ハーイ」と返事をしながら,読んでいました。2,3ページ進んだところでママがやってきて「どうしてさっさと食べに来ないの,要らないの?」とお冠です。ちゃんと最後まで読み終えたかっただけなのに!

 パパからお誕生日プレゼントに買ってもらったオモチャが壊れてしまいました。後でパパに見てもらおうと机の上に置いておきました。ママがそれを見て,「どうしたの,オモチャをこんな所に置きっぱなしにして」,「壊れたから,パパに見てもらうの」,「壊したの,乱暴に扱うからよ,大事にするようにいつも言ってるでしょ」。乱暴になんか扱ってないもん。カチッと嵌めるために力を入れただけなのに。壊したんじゃなくて,壊れたんだよ。

 弟とママの3人で近くの公園に遊びに出かけました。砂場で塔を作っていたら,そばにいた弟が足で踏みつぶしてしまいました。やり直しです。できあがりそうになるとまた弟が近づいてきます。「ダメ」と押し戻したら,弟がしりもちをついて泣き出しました。「ダメよ,お兄ちゃんでしょ。どうして仲良く遊べないの!」ってママが言います。仲良く遊べないのは弟の方なのに,どうしてこうなるの?

・・・悪いところが見えても,状況の中で生じうるはみだしに過ぎません・・・


 ○信頼!

 車を運転しているときパトカーや白バイが目にはいると,なんとなく自己チョックをしながら緊張します。悪いところを見られていると思うと,警戒が先に立ちます。見張られているというのは,人間不信への誘いになります。特に相手が何らかの権威を持っているような場合には,ビクビクものです。勤務先の意地悪な上司の目も似たようなものかもしれません。子どもの場合は怖い目で見下ろしてくるママの目です。

 大勢の前でスピーチをする羽目になったとき,とても緊張します。何を緊張するのでしょう? 変なことを言ったり下手な話をして,恥をかかないかとか笑われないかといった恐怖があります。危ない目には遭いたくないので,できれば固辞しようとします。別の言い方をすれば,人の目が怖いのです。どんな目でしょうか? 人の目は至らないところを探し出そうとする目だと思っているのですが,実は自分の目なのです。

 人のスピーチを聴くとき「詰まらない話をして」といつも批判的に聞いている人は,逆の立場になったときの聞き手に自分の聞き方を投影します。訥々と語る人の話に温もりを見つけようと聞くことのできる人は,堂々と話すことができます。聞く人を自分のように信頼できるからです。スピーチの怖さは実は自分の陰におびえているだけです。人のあら探しをする人は,人も自分のあら探しをしていると思うから,臆病になり陰に隠れます。

 素直な子どもの場合は少し違います。子どもたちが参観日を嫌がるとき,それは親の目が叱る材料を狙う陰険な目であると日頃のやりとりの中で感じているからです。そのようなままで育っていくと,やがて子ども自身が親の至らないところを鵜の目鷹の目で探そうとするようになっていきます。事ある毎に文句ばかり突きつける嫌な子に育ちます。親に似るという作用の悪い例ですが,どうせなら良いところが似て欲しいですね。

 すねてしまう,いじけてしまう,それは思いも寄らない勘ぐりをされて,真っ直ぐに認めてもらえないことへの抵抗であり開き直りです。少しでも認めてもらえれば,人を信頼することができるようになります。素直な子に育って欲しいと願うなら,信じてやることです。結果として悪いことがあっても,それは決して本意ではなかったと善意を見てやるようにします。子どもは大人のような悪意を持ってことを起こすことは決してありません。

・・・疑いの目は際限なく広がっていき,自分を追いつめていくものです・・・


 ○親は子どものことを心配するものです。その中にはもしかしたらという疑いの目も出てきます。子どもがママに叱られるばかりでほめられることがないと思うようなことがあれば要注意です。心配が過ぎて子どもの心を見逃し,終いにはねじ曲げてしまいかねません。子どもだから至らないのが当たり前,叱るのではなく大目に見て,どうすればいいのかを教えること,それがしつけというものです。

 若者たちが同世代としか親密な関係を持てない,同世代でもコミュニケーションが浅くて上辺の付き合いに留めてしまうのは,育てられてきた結果です。子どもたちがそうなりたいと選んで育ってきたわけではありません。その現状に対して今時の若者はと非難めいたことを言ってのける大人の無知こそ責められるべきことです。生きる力を付けるなどと言いながら,どうすればいいのかを言えない体たらくが歯がゆいと思います。人を信じる,その一点が出発点です。

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